2014年9月。

私は、カナダのトロントにいましたー。

ルビン・”ハリケーン”・カーター氏に会うために訪れた街。

しかし、その5ヶ月前にカーター氏は

残念ながら、既にこの世を去っていたのです。

 

 

そして、トロント市内の、とあるマンションの一室で

私は一人の男性がやってくるのを待つことになりました。

 

玄関の扉が開き、入ってきたのは

穏やかで優しい雰囲気の初老の黒人男性。

ジョン・アーティス氏。

ルビン・カーター氏とともに、無実の罪で投獄された

カーター氏の友人であり、同志とも言える人物です。

彼は、前立腺ガンで闘病中だったカーター氏を

側にいて支え、最期を看取っていました。

 

 

ー「Fabulous! Fantastic!!」(なんて素晴らしいんだ!)

それは、カーター氏が思わず顔をほころばせながら、

漏らしたひと言だったといいます。

2014年3月27日、袴田巌さんの釈放を

ニュースで知ったアーティス氏が、カーター氏に

その事実を伝えた時の言葉…。

 

末期のガンに侵されたカーター氏は、激しい痛みのために

ベッドの上で、悶え苦しむ日々でした。

そんな最中に訪れた、日本からの朗報ー。

カーター氏の言葉が、ゆっくりと、噛みしめるように

絞り出されたひと言だったということが、

アーティス氏の話から伝わってきました。

 

この日、私は日本プロボクシング協会からの依頼で、

亡くなったカーター氏への感謝状を持参していました。

袴田事件を支援するボクシング協会から、

同じく袴田さんへの支援を表明し、

力強いメッセージを寄せていたカーター氏への

感謝の印。

それを、カーター氏が最も信頼するアーティス氏に

直接、手渡すことが出来たのです。

 

 

その、カーター氏から袴田巌さんへのビデオメッセージが存在しています。

それはカーター氏が亡くなる6年前。

2008年1月に、実は私自身がカナダ・トロント在住の

カーター氏の元を訪ねて撮影したものです。

 

当時、ニューヨークに留学中だった私は、

日本のボクシング協会からの依頼を受け、撮影に協力したのです。

私自身、数年越しの念願叶い、カーター氏と

対面するというチャンスを得たのでした。

 

実は訪問前、現地のコーディネーターからは、

「カーター氏はこのメッセージビデオの撮影に乗り気ではない。」

という話が伝わってきていました。

しかも”ビジネス”として、カーター氏側からは

高額な報酬を要求してきたというのです。

「思い描いているような、心の籠ったメッセージは

引き出せないかもしれない…。」

正直、不安でした。

 

  

 

しかし、対面した瞬間に、その不安は消えました。

私たちを、にこやかに出迎えてくれたカーター氏は、

上機嫌で話し始めたのです。

リビングだけでなく、2階の書斎などプライベートな部屋まで

一通り案内してくれました。

中でも、ひときわ目を引いたのが、

WBCから授与されたという”名誉チャンピオンベルト”。

カーター氏が、無罪を勝ち取った証として、授与されたものです。

 

ー「私は、リングの外で世界チャンピオンベルトを与えられた

唯一の人間なんだよ。袴田さんにも、日本のボクシング協会から

チャンピオンベルトが授与されるべきだよね。」

ベルトを前にしたカーター氏は、

そう言って、熱っぽく語ったのでした。

 

 

この対面は、今となっては二度と叶わないー。

そして、袴田さんとカーターさんは

互いの似た境遇に「心を通わせたい。」と願いながらも、

ついに対面は実現しませんでした。

 

けれども、あの時のカーター氏の想いが現実のものとなり、

2014年5月、

釈放から2ヶ月後の袴田巌さんの腰には、

カーター氏と同じWBCの名誉チャンピオンベルトが

輝いていました。

 

 

今日のニュース。

ノーベル賞授賞式から4ヶ月、

ボブ・ディラン氏に、ようやくノーベル賞のメダルが授与されたといいます。

「袴田事件」とボブ・ディラン氏には、実は深い縁があるのです。

TBS系JNN ニュース:

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20170402-00000017-jnn-int

朝日新聞デジタル:

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170330-00000004-asahi-musi

 

ボブ・ディラン氏はかつて、冤罪被害者の支援活動に身を投じていました。

殺人罪に問われ有罪となった、黒人の元プロボクサー

ルビン・ハリケーン・カーター氏の支援です。

ボブ・ディラン氏の名曲「ハリケーン」は、

まさにカーター氏の冤罪事件を歌っています。

 

カーター氏は19年間の獄中生活の後、

支援者などの尽力で、1985年に米連邦地裁が有罪判決を破棄。

1988年に無罪を勝ち取っています。

そのストーリーは、デンゼル・ワシントン主演の映画「ザ・ハリケーン」として

映画化されています。

 

 

実は、このカーター氏の再審無罪のニュースを獄中で知ったのが、

袴田巖さんでした。

 

 

偶然にも、カーター氏が罪に問われた強盗殺人事件と

袴田さんが犯人とされた強盗殺人放火事件は、

同じ1966年6月に発生。

そして二人は共に、元プロボクサー。

その時の想いを、袴田さんは

家族に宛てた手紙の中に綴っていました。

 

「…アメリカ人冤罪事件に触れ驚いています。

私がこの冤罪事件、こがね味噌一家四人殺し放火事件でデッチ上げられた

昭和四十一年、一九六六年、この同じ年にアメリカで

ルビン・カーターというボクサーが、私同様にボクサーであったが故に、

司法権力にデッチ上げられているからであります。


 

…(中略)…私は今、この日本の最大の監獄最深部の独房の窓から、

万歳、万歳を賛唱したい衝動にかられています。

カーター氏よ、ともかく晴れてよかったね。おめでとう!」

(1989年の袴田巖さんの手紙より)

 

 

まるで、カーター氏に語りかけるような口調で

綴られた手紙…。

しかし当時、カーター氏本人に届くことはなかったのです。

 

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それから15年後のことー。

この袴田さんからのメッセージの存在を

初めて知ったカーター氏は、

東京拘置所の独房に拘留されていた袴田巖さんに対して

手紙を書いています。

それは支援者を経由して、東京拘置所に届けられました。

 

「My dear brother Iwao Hakamada:

…(中略)…After reading the letter, your words resonant 

in my ears and have touched my heart.」

(親愛なる兄弟 袴田巖さん:

…(中略)…君の手紙を読んだ後、その言葉は私の耳に繰り返し響き、

そして、私の心を震わせたよ。)

(2004年のカーター氏の手紙より)

 

 

しかし、獄中の袴田巖さんは当時精神を病んでいたため、

すべての手紙を拒否していたといいます。

 

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このカーター氏からのメッセージは、その後どうなったのでしょうか?

実は東京拘置所側が預かる形で保管されていたことが判りました。

今から3年前、袴田巖さんが釈放された後、

東京拘置所から「袴田さんの所持品」として姉・秀子さんの元に

大量のダンボール箱の荷物が送り返されてきました。

その中に、カーター氏からのメッセージのコピーが入っていたのです。

 

釈放され、いまでは故郷・浜松で暮らすようになった袴田巖さん。

その姿を目にしたら、

カーター氏はどう思ったことでしょう…。

 

 

そこで、袴田さんが釈放された2014年ー。

筆者は、カーター氏の想いを知るために

自宅のあるカナダ・トロントを訪ねたのです。

《後編につづく》

 

2014年3月27日ー。

3年前の忘れもしない、釈放の瞬間です。

 

午後5時過ぎに東京拘置所の玄関に横付けした

ワゴン車の助手席に、私は乗っていました。

10人近い刑務官が両サイドに並んだ、

その列の真ん中に、黄色いシャツの男性が現れました。

 

 

 

車に乗り込む時、勢いが足りなくて

「よっこらしょ!」と2度目でようやく座席に乗った

その人が、袴田巖さんでした。

 

「とにかく、早く拘置所の敷地を出て!」

祈るような気持ちで車の発車を待つ時、

前方に目をやると

無数のカメラを構えた報道陣が

こちらを狙っていて、

屋根の上にまで何台かテレビカメラが見えました。

 

拘置所のゲートを通る瞬間、

カメラの放列と眩しいフラッシュをくぐり抜け

敷地の外へ出た車。

高速を走り、とにかく”何処か”へ向かおうと

スピードを上げていきました。

 

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今日は、2017年3月27日。

私は浜松の街を歩く袴田巖さんの後ろ姿を、

いろんな事を回想しながら、見守り、歩きます。

 

 

一人の人間の姿が、いま現に目の前に存在している

この”奇跡”が、今でも信じらない気持ちです。

 

そこには何の制約もなく、一人で気ままに歩き回る

袴田巖さんの姿があります。

歩道の脇に咲く綺麗な花。

その前でちょっとだけ立ち止まり、見上げる。

 

 

すれ違う、浜松の街の人たち。

今日は、巖さんの後ろを歩いていた

若い2人の女性が目を見合わせてー。

「アレ、袴田さんじゃない?」と、芸能人さながら。

この散歩はいまでは日課となり、

1日平均5〜6時間、浜松の中心街を歩きます。

 

周囲から見たら、ただの「散歩」に見える日課は

巖さんにとっては大事な「仕事」。

そう言って、ご本人は毎日、

背広に帽子という出で立ちで出かけていきます。

 

社会に戻って3年ー。

48年間の拘留の末に、ようやく訪れた日常があります。

筆者はジャーナリストである前に、

一人の人間として、巖さんの姉・秀子さんと

十数年お付き合いをさせて頂いてきました。

 

 

巖さんの釈放前、そして、その後ー。

 

死刑囚となった一人の人間が、無実を叫びながら

何を奪われ、いま何を問いかけるのか?

これまで公には、詳細を発表して来なかった

笠井千晶の見た袴田事件の”本当”を

これから綴っていこうと思います。