記憶を失ってるなんて思いもしなかった「ただのバカ」って思っていたのに
親学級のお友達が我が家に訪ねてくれるようになり少しずつ学校にも馴染んできていたそんな頃初めての家庭訪問がありました。これは腕の見せどころ💪ハリキッテ🎵学校では見せない息子の姿を見てもらおうと息子の得意料理を食べていただくことにしました〜言葉を話せない息子とのやりとりは筆談。それもAとBどっちにする?という方法。で、お味噌汁をイメージして何を作るか聞いてみるとカレー🍛になりました〜。ま、無難かなぁ?で、二人で買い物に行ってジャガイモ、玉ねぎにんじん🥕、牛肉カレールーも買って帰宅息子はエプロン付けて野菜を切って…炒めて…全部一人で作りあげました〜。家庭訪問の一番最後に我が家に来てくださった親学級と、ひまわり学級の先生方は思いがけない息子の姿を見てびっくりしておられました❗️そんな先生方にカレー🍛をお盆にのせてはいどうぞ。と、渡した息子渡したあとはしらーんぷりしてその辺をウロウロしている私には先生方の反応を気にしてるのがありあり…おいしいわ〜って言って頂きすーっと部屋から出て行きました〜wこれぞ自閉症。ですよねー出来ること出来ないことが極端に分かれていて興味のあることならどんどん能力を上げていく。なんせ2歳にもならない頃にインスタントラーメンを一人で作ってしまった息子その料理への興味を小学1年でカレーライス🍛まで引き上げる事が出来先生方においしい🎵と、言っていただき息子 嬉しそうでしたー♪
息子の送り迎えのときに私とクラスの子供たちがいろいろ話すようになりその中の何人かが放課後我が家に遊びに来てくれるようになりました〜🎵まだまだ息子と一緒に遊ぶことはできませんでしたが、息子自身が遊びに来てくれた皆んなの楽しそうな様子を少〜し 離れたところからニコニコ笑顔で見るようになりそんな息子の変化が嬉しくて、私はたこ焼きをしたりアイスクリームメーカーを買って皆んなが自分でたこ焼きやアイスクリームを作って食べるを遊びに変えたり…工夫して我が家を皆んなの遊び場に提供するようになっていきました〜。一緒に過ごす時間が増えると子供たちが息子君はこーしたらイヤ!こーすると嬉しい気持ちになる🎵って分かってくれるようになっていきました〜一緒に遊ばないケド同じ空間にいることを楽しむそんな関係は長く続きました優しいクラスメイトのおかげで、息子の笑顔が増えていき学校に行くことも楽しめるようになっていきました〜(^^)
砂場で心が落ち着くようになり息子は少しづつ登り棒のてっぺんにいる時間が減りひまわり学級の朝の会に参加できる日もできてきました。そして親学級の始まりの会にも加配の先生の膝に抱えられてすこーしずつ参加できる日ができていき親学級の子たちとも一緒に居る時間ができていきました〜。毎朝息子を送って行く私にクラスの子どもたちは素直に息子君はどーして話せないの?どーして登り棒から降りてこないの?加配の先生がずーっとついているの?毎日お母さんと学校に来るの?どーして? どーして?と、不思議に思ったことを聞いてくれました〜。あれは嬉しかったなぁ…不思議に思って当然!息子に興味を持ってくれてる!って思ったので、正直に息子君はまだお話しが出来ないの何でお話しできないかは分からない。息子君はお話しできなくて困っちゃう事がたくさんあるんだーイヤだなぁと思ってもイヤと言えないし だからイヤだよーって思ったらきゃー って叫んでしまうの。皆んなと一緒に居るのは大好きなんだケドどーやって仲良くしたらいいか分からなくて 困っちゃうみたいだから登り棒に登ってしまうの。登り棒の上から皆んなを見ていつか一緒に遊びたいって思っていると思うんだ〜などなどいろいろ話すようになりました〜。
学校を抜け出し遠くの街で保護されて警察官に尋問されかなり落ち込んだ息子。学校が施錠してくださったこともあり抜け出すことはなくなった。そして登り棒から降りてくるようにひまわり学級の花壇の一部を砂場に変えて遊ばせてくださるようになりました。授業中静かになった校庭の片隅で登り棒から降りてきて保育所時代と同様に泥団子を作ったり砂遊びができるようになって息子の固まった心が少しずつ解けていったよう・・独り言にコマーシャルの宣伝文句も出てくるようになりました。学校に息子の居場所が出来たこと嬉しい出来事でした。
学校を抜け出した息子が悪い私の不注意が問題を大きくしてしまった後悔する気持ちを抱えながらどうしても割り切れない気持ちがあった学校は加配の先生まで付けて頂いたのにどうして抜け出してしまうことを止められないのかと。謝るのはいつも親のほうだけ学校からは謝罪どころか担当の先生のごめんねもない息子の体調を気遣ってくれる言葉もない。それどころか謝りに行った私に担任の教師は「息子くんの担任を続けていく自信がなくなりました」と、言った。そして担任を続ける条件として「迷惑かけた全職員に一人一人お詫びしてくること」を、課しました私は、納得できない気持ちを抑えて一人一人の教職員に頭を下げて回ったのでした心が悲鳴をあげましたどんなに理不尽に思えることでも文句も言えない私。全ては息子を地元の学校に通わせるため健常児の子供たちとの交流のためそう思い定めても切ない出来事でした。
息子は、昼に給食を食べてから電車に乗って保護されて警察で尋問されて食事も摂らず夜の10時前迄。どんなに心細く怖かっただろう。。慌てて握って行った私のおにぎりも食べない程…全く元気がないので心配になり翌日、念の為病院に連れて行きました。ところどころ擦り傷や軽い脱水症状はありましたが大きな怪我もなく無事とのことで取り敢えずホッとしましたが、身体が大丈夫なのにこんなに沈んだ様子ならば尚のこと心が傷ついているのがわかる。落ち込んでいて顔色も悪くぼーっと遠くを見つめているそんな息子の様子がとても心配でした。学校を抜け出した息子が悪い。それよりも・・こんな時のためにあらかじめ学校の名札に親の連絡先を書いておかなかった私が悪い。何度も何度も自分を責めました。その後は当時はまだ携帯電話も普及していなかったからセコムのGPSを持たせたりできることは精一杯やるようになりました。名札の裏に連絡先のメモも入れました。無事だったからこそ二度目のチャンスをもらえました。恐ろしい出来事でした。
ふ息子は警察に保護されてからも一言も話さないため事情を知らない警察の方たちには名前さえ言わないとんでもないヤツに、思われたようです。ただ…障害ゆえに話せなかったのですが。。迎えに行った私たち夫婦に警察官は「キツク尋問した」ので、「疲れている」かもしれませんと、言われました。息子に一言話せないとは知らなかったんだ分かってあげられなくてゴメンネって言ってもらえてたら少しは救われる気持ちになれたのかなぁ・・でもそれは親ゆえの甘い考えなんでしょうね。。これは今から30年近くも昔の話。今なら、発達障害という言葉も自閉症も知られるようになったから小学一年生の名札をつけた靴も履いていない子が話さないのではなく話せないのかも。そう言う目で見てもらえるそんな時代になっていると、心から願います。この日以来息子にとってお巡りさんは怖い人になってしまい街ですれ違う時も遠ーーーくにわざわざ避けて歩くようになりました。
息子は給食を食べてから靴も履かずに学校を飛び出して最寄りの駅から電車に乗って下りて違う会社の電車に乗り換えてまたおりて乗り換えて・・いったい何度改札を出入りしたんだろう?お金も持たず切符も買わず駅員さんにも止められず夜の遠く離れた駅でポツンと座っているのをようやく見つけてもらって保護されて警察署に移された。県境をまたいでいたから胸につけていた学校の名札があっても連絡が来るのに数時間かかってしまった。でもどーしてそんなに簡単に駅を出入りできたんだろう? 当時の私は不思議で仕方なかった通り抜けようとしてもちょっとちょっと・・って声をかけるんじゃないかそれでも通り過ぎてしまったら追いかけていくのは難しくても問い合わせがあった時そーいえばそれくらいの年の子が通り抜けて行ったなって思い出してくれるんじゃないかと。。でも実際は思いつく限りの駅に行って息子の写真を見せて聞いたけどわかりませんねだったな〜たくさんの人が行き来する駅で子供を探すのは難しかったです。
前記事で小1の息子が学校を抜け出し遠い遠いさみしい駅で保護された記事を書きました。翌日息子は学校を休ませて夫と私そろって学校にお詫びに行きましたで、今後の対策として息子が抜け出さないように門や抜け出せそうなところは施錠してもらえることになりました今なら外からの犯罪を防ぐため当たり前になっているこの措置ですが息子の頃は開かれた学校ってことでいつでも誰でも入って来れるし出ていける状態だったのです。息子のためにいちいち施錠するのは手間のかかることだったと思います。ありがたかったです。
息子登り棒登校が続いていたケド給食が始まったら下りてきてひまわりの教室で給食を食べるようになった。その頃ひまわりの生徒は特定の科目だけくる子や病気で体調が良くない時だけ来る子も含めて10数人って感じだった先生の数は5人十分だったかどうかはわからないけどそこで再び事件が起こった。給食を食べたあと靴を残したまま息子がいなくなったのだ連絡を受けて私も探し回ったが今回は見つからない公園にも河原にも電車の駅に行ってもいない大騒ぎになった警察にも届けたけど見つからないまま夜になった夜の10時を過ぎた頃県境を超えた警察から学校に連絡が入った。靴下だけで靴も履いていない男の子を保護していますそちらの学校の名札をつけています。と。先生の車に乗せていただいて迎えに行った。息子は以前夫に連れて行ってもらった飛行場を目指していたみたいでも電車で乗り換えを間違えて終点の駅で下りずに電車に乗っていて不審に思った駅員さんがお巡りさんに連絡し警察に保護してもらえたとのことでした。切符も買わず無賃乗車で一体幾つの鉄道を乗り継いだのやら・・・無事でよかった。
運動場の片隅にある登り棒のてっぺんから学校の様子を見ていた息子ある日1年生がガヤガヤと楽しそうに学校を出ていく場面に遭遇しするする〜っと自ら登り棒から下りてきてみんなに着いて行きました。学校の周囲にある『自然を見つけに行こう!』と言う授業だったらしく近所の河原へ行ったり公園に行ったりして帰ってきてみんなは教室へ息子は登り棒へ戻りました。で、次の日みんなは教室にいるのに息子が登り棒にいないと、自宅に戻っていた私にひまわりの先生から電話がかかってきました。慌てて探しに行こうとしていると私の友達から今、娘と河原に遊びに来てるんだけど息子ちゃんが一人で河原に来てるんだけど・・って。すぐいくから見ててと、頼んで河原に駆けつけるとひまわりの先生が息子と一緒にいました。なので私が出ていくと息子が家に帰りたくなるかもと、思い電話をくれた友達のところへそっと、お礼を言いに行きました。すると興奮した友だちが、あの先生息子ちゃんを見つけたら腕をぐいぐい引っ張ってそれでも立とうとしなかったら息子ちゃんのほっぺたを平手でパチパチ叩いていたよ って。校長でも教育委員会でも出ていく時には証人になるから と友達はたいへんなショックを受け怒ってくれていた。私はショックのあまり頭が回らず友達にはお礼だけ伝えてあとで電話すると言い息子と先生の後を追いかけた。で、学校で息子の腫れ上がったほっぺたを見て手の形がくっきり残っているのを見て息子に どーしたの?と、聞いてみると叩いた先生が、私が見つけた時にはこーなっていた と悪びれた様子もなく言った。謝ってもくれないんだ・・と、心の底からがっかりしたし息子が可哀想でそのまま家に連れて帰りたかったけどそーしてしまえば二度と学校に通わせる気持ちになれない気がしてその日は最後まで息子と学校に残り一緒に帰ってきました。で、夜仕事から帰った夫に一連の話をしどーしたらいいと思う?って相談したら学校とケンカする気やったらやったらいいけどそーなったらきっといられなくなると思うよ養護学校に行くしかなくなる覚悟があるなら話してみれば?って言われた情けなくって涙が出たよでも、息子に謝って怖かったねって抱きしめてそれでも地元の小学校に通わせたかったから学校に苦情は言わなかった今でもこの日のことを思い出すと胸が痛くなる私の判断は正しかったのか?って。息子にごめんなさいと言い続けている。ひどい親だね 私。
入学式で体育館のドアを蹴ってゴー〜ーーんって鳴ったのが始まりのゴングだったかのように毎日が大変の連続でした。当初の目標では朝、私が息子を連れて学校に行き親学級の教室で、加配の先生に息子を託し私は家に帰る。息子は加配の先生と一緒に親学級にランドセルを置いて始まりの会に参加してそれからひまわり学級に行く親学級で受ける授業は音楽と図画・工作始まりの会と終わりの会だけです。だったのですが、まず教室に入ることが出来ないんです。学校に来ると登り棒に直行してっぺんで高みの見物のような・・おそらく小さな保育所からいきなり各学年100名✖️6年生🟰600名を超える集団に入っていくのが怖くってまず他の子に干渉されない登り棒のてっぺんが安全地帯と定めてそこから様々様子を見ていたんだと思います思いますが・・私が、「そのうち、学校の雰囲気に慣れてきたら降りてきますので」なんて言っても先生方は聞き入れてはくれずとにかく教室へ入れようとするんですよね〜先生が登り棒に手を伸ばし息子の足をつかんだら・・息子はパニックを起こしきゃーーーって叫ぶし先生が登り棒に登って行こうと し、た、ら、息子は、隣の登り棒にヒョイヒョイ〜ってお猿さんみたく飛び移っちゃう。。危ないったらない。落ちて怪我するよりはしばらくこのままで・・様子を見るしかないかってことで先生方も折れてくださりしばらく登り棒登校が続きました。
入学前地元の公立小学校に「障害がありますが入学させていただきたいです。」と、夫と二人でお願いに行きました。で、親学級(健常児が学ぶ普通のクラス)と、ひまわり学級(支援学級)を併用することにしてここでも保育所同様に息子のために、加配の先生をつけていただけるようになりました。で、入学前の春休みの間に息子は何度も小学校に行き先生方には 息子の障害の程度を知っていただき息子には他の生徒さんが春休みの間に小学校の「校舎」など保育所とは違う場所の雰囲気に慣れさせるために何度も通いついに入学式を迎えました。入学式に参加するのは6年生と1年生だけ親に連れられてやってきた新1年生は運動場で待機していてそこへ6年生がやってきて6年生が手をつないで1年生を体育館にエスコートしてくれて式が始まる。だったのですが息子は慣れるために通っていた時とも保育所とも全く違う小学校の雰囲気に圧倒され恐怖してしまい登り棒のてっぺんから全く降りてきませんでした。ひまわりの先生に促され抱き抱えるように強制的に降ろされひまわりの先生にがっちり!ガードされて一番最後に入場初めのうちはその場の雰囲気に圧倒されたのかじーっと固まっていましたが隙をみて逃げ出し何を思ったのか校長先生のお話の最中に居並ぶ先生方の脇を走り抜け演壇横のドアを足で蹴ってゴン! ゴーーーーんって音を響かせて・・・「やっちゃった。。。」校長先生は息子君入学できて嬉しいんだね!と、演壇の上からサラッと流してくださいましたさすが!ありがたかったです。が、ある意味その日のうちにすごい(大変な!)子がやってきたと、有名になった入学式でした。
一歳半検診で自閉症の疑いって言われて疑いのある子たちが集められてる通園施設に通ってたケド健常な子たちの中で育てたいと思い引っ越しをしてしばらく経った頃息子を受け入れてくださった保育所から様々な問題行動を指摘されるようになり障害のある息子のためにつけていただいた加配の先生にも手に負えない!って感じになってきていよいよ放り出されそう・・ってなった頃カウンセリングに行くようになった。初めは週に一度親子一緒に・・だった。そこで出会った臨床心理士の先生がほうとうに私の救世主になってくれた。まず言われたことが謎に見える息子の行動にも必ず意味があるから今はわからなくてもどーしてなのかな?って忘れないでずーっと考えて推理小説を読み解くように息子の謎の行動の意味を読み解く習慣をつけてくださいって言われた。で、いつかこーいうことだったのかな?って思ったら息子に聞いてみてください正解だったら絶対にそうそう それだよ正解!ってサインを必ず出してくれますからって。正直だって息子しゃべれないし私と目だって合わせてくれないのにどーやってサインをくれるの?息子の行動なんて分からないことだらけなのに推理小説を読み解くようにってどういうこと?何から何まで全てが謎なんですけど・・私は今困っていて今保育所から追い出されそうなのに謎の行動の意味を知る前に保育所から放り出されないためのアドバイスをください!特効薬をください!そう思っていた。けど本当にそうそう それ!ってサインを息子からもらえる日がやってくるまだまだずっと先のことだけど。。とりあえずその時は先生のアドバイスを受けて意味も分からず息子の療育手帳を受けることにしでも受けたことは保育所にものちに小学校にも打ち明けることはせずただ持っておくことにした。次回からいよいよ小学校へ入学後の話に移ります。
前記事で怖いことを書いたので今日はちょっと軽めなお話を。この頃の息子とにかく回っているものが大好きでまず!洗濯機洗面台に置いていた小さな台を持ってきてよーく見てましたくるくる・・くるくる回ってるんですよね洗濯機何が面白いんだろ?不思議に思ってよく息子と一緒に見てたけど私は洗剤の香りの方が好きだったな〜あとはおもちゃ!車のおもちゃも持ってたけど他の子のように走らせて遊ぶは、しないで車を手に持ってタイヤをくるくる・・くるくる回してたそれにも飽きると台所にやってきて洗い桶に水を溜めて手でくるくる・・くるくる回してた夏はもちろん冬でも、冷たい水に手を入れて・・水はほんと好きだったな〜プールにもよーく連れていってたら手の指の間に水かきができてビックリしたよ!このまま大人になったらどーしよって本気で心配しちゃったでも今、35歳になった息子には水かきはない良かったです。
これは本当に怖い話。息子が3歳頃のこと電車に乗って動物園に行きました。当時の息子はどういう訳かじーっと動かないフラミンゴ🦩が好きで息子も動かず動かないフラミンゴを見て満足しての帰り道まだまだ明るい日のある時間に起きました手を繋いでくれない息子の後ろを歩いていた私突然現れた男が (一人でした)息子を脇腹に抱えて走り出したのです私は何がどうしたのかそこから記憶が飛んでます気がついたら男は息子を側溝に投げて走り去って行きました泣き声が聞こえず怖かった・・・走り寄って抱き上げて泣き出した息子の声をあんなにうれしいと感じたことはなかったあ・・生きてる・・無事だった。。そのあと震えながら電車に乗って泣きながら帰って帰宅した夫に話したで、警察に届けていないことに気がついたそんなことさえ浮かばない程恐ろしい体験でした。子どもってあんなに簡単に連れ去られるんだそう思った。。あの男は走ってたから私も走って叫んでで、諦めて息子を離してくれたんだと思うでも道路ぎわの側溝に投げ込んで行ったんだよ小さな息子は側溝にはまり込んだまま驚きのあまり鳴き声も上げなかった側溝の中でそのままの姿勢で固まってた。。あれが車やバイクの男だったらどーなってたんだろう・・時々耳にする子どもが神隠しにあったように少し目を離した隙にフッと消えちゃう話人ごとには思えない耳にするたびあの瞬間の恐怖がよみがえってカラダがガタガタ震えます。あの時周りに人はいたのかな?私はカバンを持ってたはずそれはどーしたんだろう?思い出せない息子を抱きしめたこと生きてここにいるそー思って嬉しくて 恐ろしくて泣いて泣いて帰ったことしか思い出せない今子育て中の親御さんがこのブログを読んでくれてたら防犯ブザー持って欲しい周囲に人がいたとしても他人のことにそんなに注意を払ってるわけじゃないだから目を向けてもらい助けてもらえるように防犯ブザー必要だって思います。
何をするにもおおごとになる息子。風邪などはどーすることもできないケド、せめて歯医者さんの世話にはならないようにと、幼い頃から最初は上向きで寝かせて私の足で息子の足をはさんで動けないようにし歯磨き🪥しました。仕上げ磨きです。歯が生えてからずっと続けてきました。今はグループホームに入りましたので週に一回グループホームに通い仕上げ磨き続けてきました。すると35歳ですが虫歯ゼロ🦷です。磨けば虫歯にならないンですね!私の歯も誰か仕上げ磨きしてほしい。ほんと😱それと耳掃除これには失敗しました。幼い頃、夫がやっぱり羽交い締めにして耳掃除。耳をすっぽり覆う程の耳垢をそーっと掃除していましたが、突然血が🩸びっくりして耳鼻科に走りました。そこで頼りになる看護師さんにしっかり捕まえてもらい耳掃除してもらいました。これからは家でせずに連れてくるようにと、言っていただき怪我の功名通える病院が一つ増えました。息子の耳も消毒してもらい大事には至りませんでしたが、びっくりした出来事でしたー。
障害があってもなるべく他の子たちと同じことをと、考えていましたなので、小学校に入る前に自転車の補助輪を取りました。その日は、きっと転ぶし大変だろうと夫と私の二人体制で臨みましたところが…全く転ぶことなくスイスイ〜ってすぐに走ってしまい思いっきり慌てて走って追いかけました。息子は自由に走れることが嬉しいし親が慌てて走って追いかけてくれることも嬉しそう!ケド、ブレーキのかけ方を教えるコトが出来なかったンです。口で言っても手でやって見せてもダメで止める時は転ぶと、決めてしまった様子そーなんですこの頃の息子1回目のコトをその後も繰り返してしまう時期で間違えて1回目をしてしまうと切り替えが並大抵ではありませんでした。自転車は、まさかすぐに乗れるとは思わなかったから大失敗でしたー。そのせいで坂道をブレーキなしで走り降りて前歯を折ったりトラックに巻き込まれて幸い怪我はなかったですが自転車は原形をとどめない程ぐしゃぐしゃになり震えが止まらなくなったりとんでもない目に遭いましたでも本人もその度に学習してくれておかげでブレーキをマスターして安全運転になりました。余談ですがトラックに巻き込まれたときは命の心配から友人にちょっとだけ車で息子にぶつかってくれ!ってお願いしましたが、当然引き受けてくれる人はいませんでした。とんでもないことを考えたモンです。
名前を呼ばれても全く返事が出来なかった頃当然ですが他の子やおもちゃにも全く関心を示さなかったです本の読み聞かせも毎日していましたが、聞いているのか?いないのか?全く反応しない。息子が本を手に取るときは口に持っていきかじっていました。歯が生えてきてムズムズしていたのだと思う。それにしてもあんなに全く関心を示さない子の集団だったケド不思議と子ども同士ぶつかることがなかったケンカとかのぶつかるではなく文字通りのぶつからなかったンです。だから目は見えてたしぶつからないように意外と相手のことをよく見ていた?ように思う。不思議だけどとても見ているよーには見えなかったけど見ていたのだろうと思う。だから障害児であればこそ集団生活に参加して正しい生活に身を置くことが大切だと思う。見てないよーでよく見ているから。
一歳半検診で引っかかり障害児のための通園施設に通っていた頃朝の時間に先生に名前を呼ばれてはーい🙋と、手を挙げてお返事する時間がありました。いろんな子がいました。名前を呼ばれたら自分の名前じゃなくてもずっと手を挙げる子とか、先生に突進していく子とか。息子は、全く反応しないタイプでした。で、念の為聴力検査にも行きました。でも、聞こえに問題はなし。名前を呼ばれたら返事をするというルールが分かっていないか?集中力が途切れ体は教室にあるが、気持ちはどっかに行ってるか?なぜ出来なかったんだろう?それにしても毎日そばに居て毎日名前を呼ばれたら息子の手を取って息子の代わりにはーい🙋って返事するそんな日々を何年も続けた。あの根気あの必死さはどこからきたんだろう?すごいエネルギー!子どもを育てるって皆んなと同じことをしてって願う気持ちってここからスタートした気がします。