第3弾! 都内共学校編です
かつて、私が受験生だった頃の話ですが、都内の私立中は男子校と女子校が圧倒的に多く、中学受験して共学校に進学する人はかなりの少数派でした
ところで、
中学受験を理解する上で、重要なキーワードとして、「御三家」がありますが、これは昭和時代から男子校と女子校の最難関校を意味していて、「共学御三家」は全く聞いたことがありません。
受験業界で「御三家」という言葉が使われ始めたのはいつ頃なのかわかりませんが、その当時、都内に共学校はそもそも非常に少なかったことが、その背景にありそうです。
余談ですが、御三家をWikipediaで調べると、教育分野には実に様々な御三家があるのですね。幼稚園御三家、小学校御三家、私立小御三家・・・・・・・・・、興味ある方はWikipediaを見てみてください。やはり共学御三家はないようです。
今でこそ、渋谷教育学園渋谷や広尾学園などの共学の進学校は存在しますが、当時は、慶應中等部、青山学院、成城学園、成蹊、明大中野八王子、玉川学園など、大学附属校の一部に限られていました。
大学附属校でも男子校は多かったのですが、早稲田実業(2002年)、法政大(2007年)、明大明治(2008年)などは共学化しました。カッコ内は共学化した年です。
中学入試は時代とともに変化してきたのです。
では、昭和時代と令和時代の中学入試はどう変わったのか?
具体的に数字を見てみましょう
以下の円グラフをご覧ください。
左:昭和60年代、右:令和3年です。
昭和60年代は、第2次ベビーブーム世代が中学受験時期を迎えていました。
以前にも書きましたが、この当時、埼玉や千葉には私立中は少なく、優秀な受験生が都内私立中に集まってくるため、当時の中学入試は競争率の高い厳しいものでした。
また、日比谷高を始めとする都立高校の大学進学実績は凋落しており、中学入試がダメなら高校入試で私立にリベンジする人もまだ多かった時代です。
円グラフ(左)を見ると、昭和60年代は男子校・女子校の募集人数が90%以上を占めていて、共学校は10%にも満たなかったことがわかります。
共学は珍しかったのです。
その後、私立中の入試状況はどう変わったのか。
現在、小学6年生の児童数は昭和60年代のピーク時と比較して、ほぼ半減していますが、私立中の募集人数は7,309名も増えています(40%増です)。
その内訳を以下に示しますが、
男子校・女子校は減少。共学校が大幅に増えたことがわかります。
◆男子校 325名減(5%減)
◆女子校 691名減(7%減)
◆共学校 8,325名増(478%増)
てっきり男子校・女子校の募集人数は激減していると思っていたので、今回調べてみて少々意外な結果でした。
この理由については、平成に入って以降、私立校の共学化が進行し、男子校・女子校の中学募集人数が減った一方で、難関校が高校募集を減らし(もしくは廃止し)、中学募集を増やしたことが関係しています。
【中学募集人数が増加した私立男子校・女子校 (昭和60年代→令和3年)】
◆海城 180名→290名
◆城北 180名→270名
◆世田谷 100名→200名
◆本郷 0名→280名
◆豊島岡女子 50名→240名
◆鷗友学園 130名→220名
◆吉祥女子 80名→234名
これらの私立校は当時より大学進学実績が躍進していますね。
次の機会に中学入試と高校入試を比較します