前回の記事の続きです。
当時の合不合では、総得点(4教科または2教科)で合否判定をしていました。
しかし、科目間の配点は全く考慮されておらず、今考えれば、かなり大雑把なものでした。
例えば、灘や東邦大東邦は3教科入試なのに4教科で判定していました...
また、緑のボーダー(80%合格可能性のライン)はすでにあって、当時の親たちは、今と同じように我が子の成績と合否判定表を見比べて、う~ん、どうしたものかと、悩んでいたのでしょう
合否判定の対象校となっていた学校について、ボーダー得点が高い順に並べてみることにしました。
<4教科型(500点満点)>
375点 : 灘
370点 : 開成、筑波大駒場
365点 : 栄光学園
360点 : 武蔵、慶應普通部
350点 : ラ・サール、慶應中等部
345点 : 麻布
335点 : 駒場東邦
330点 : 学芸大世田谷
320点 : 巣鴨、聖光学院、学芸大竹早
310点 : 早稲田、暁星
295点 : 海城
275点 : 桐蔭学園
270点 : 浅野、東邦大東邦
265点 : 芝
255点 : 明大明治
250点 : 市川、千葉大付属
この時の合不合の平均点が248点だったので、偏差値50ぐらいの受験生は、市川、千葉大付属、明大明治が合格圏だったということですね。
ちなみに、開成の合格可能性80%ラインは370点。
合不合の男子受験生6699名のうち、370点以上は240名(上位3.58%)でしたので、この割合から推定される開成の合不合80%偏差値は68になります。
この偏差値は現在より低めですが、母集団のレベルが当時の方が高かったためと思われます。
では、ここ30数年の間に、各学校の難易度は変動しているのか?
当時の合格可能性80%ボーダー得点と、現在の合不合80%偏差値の関係をグラフにしてみました。
このグラフを見ると、最難関校のレベルは30数年前と変わらず安泰といった感じですが、それ以外はバラつきが大きいです。
例えば、現在、合不合偏差値63~64の学校(慶應普通部、武蔵、慶應中等部、ラ・サール、駒場東邦、早稲田、海城、浅野、市川)に着目すると、30数年前の合格レベルはバラバラです。
当時、これらの学校の合不合のボーダー得点は250~360点と110点もの差がありました。
またグラフの右上から左下に対角線を引いたときに、左上に位置している学校(水色に塗ったグループ)は難化したことを意味しています。
浅野や市川は当時よりかなり難化しましたね
このグラフには載っていませんが、渋幕、渋渋、広尾など新たな共学が誕生したことは、現在の合不合偏差値に大きな影響を与えています。
当時、合不合に掲載されていた共学はわずか9校でしたので、この30数年で、中学受験に共学の波が押し寄せたのは大きな変化です。
私が子どもの中学受験を通して感じた大きな変化は、中学受験熱の高まりにより、受験勉強の早期化・長期化が進んだことと、親のサポートが以前にも増して必要とされていることです。
「中学受験ロス」という言葉が生まれたのもこのような背景からでしょう。
30数年前の合不合資料には、受験校の決定に関して、以下のように書かれている。
「ともすると、子供の弱点には目をつぶり、たまたま良い成績のものがふくまれていれば、それが我が子の実力と考えてしまいがちな親心。しかし、試験は冷たく厳しいものです。力のある者が落ちることがあっても、力のない者が合格することはありません。後の「学校別合否判定表」で、合格可能圏までにある学校から受験校をお決めになることをお勧めします。」
「受験校を決定する際に、第一に考えなければならないことは、お子様の実力相応の学校を選ぶことが重要ですが、単に「合格できそうだから」という安易な考えで決めてしまうのは後々に大きな問題を残します。合格し、入学することになれば、少なくとも6年間、大学の付属校の場合は10年間その学校にお子様の教育をゆだねることになる訳ですから、よくその学校の教育方針や教科課程の実態・校風・卒業生の進路情況・・・・・・など、内容を良く調べ、お子様の性格や将来進む方向に適した学校であるかもよく検討された上で決定することが大切です。」
全くその通りで、現在でも通用する色褪せていない文章ですね。