前回の記事の続きです。
昭和から平成に変わったこの30年の間で「合不合判定テスト」は変わっているのか?
娘が中学受験の世界に入るまで知らなかったのですが、いつのまにか、塾の名前が「四谷大塚進学教室」から「四谷大塚」に変わっていました。
ちなみに、これは余談ですが、
「あぁー、よつやーおおつかーしんがーくーきょうしつー」
こんな塾歌がありました。。。
さて、昭和と平成の合不合の実施規模を比べてみたところ、以下に示すように、4科受験者数(男子)はほとんど変わっておらず、平均点も250点前後でほぼ同じでした。
■昭和○○年11月実施
4科受験者数(男子):6699名
■平成30年11月実施
4科受験者数(男子):6606名
一見すると、2つの合不合は同じように見えるのですが、実は中学受験の状況が現在とは大きく異なっています。当時は中学入試を行っていた学校が今よりはるかに少なく、合不合における合否判定対象校も限られていた(下記参照)。
■4教科判定校(男子)
<国立(5校)>
埼玉大付属、千葉大付属、筑波大駒場、学芸大世田谷、学芸大竹早
<私立(24校)>
浅野、麻布、市川、栄光学園、海城、開成、暁星、慶應普通部、慶應中等部、駒場東邦、攻玉社、芝、城北、巣鴨、聖光学院、千葉日大第一、桐蔭学園、東邦大東邦、灘、日本大第一、武蔵、明大明治、ラサール、早稲田
■2教科判定校(男子)
<国立(3校)>
学芸大大泉、学芸大小金井、東京大付属
<私立(19校)>
青山学院、学習院、京華、佼成学園、成蹊、成城、芝浦工大、成城学園、桐朋、獨協、日本大学、日大豊山、日本大第2、法政大第一、明大中野、明治学院、武蔵工大付属、立教、早稲田実業
▼これが当時の合否判定表。このような判定表が全部で3枚入っていました。
ちなみに、当時志望者が多かった学校を書くと、
第1位 立教* 1363名
第2位 巣鴨 1291名
第3位 明大中野* 1235名
第4位 慶應普通部 1230名
第5位 学習院* 1128名
第6位 早稲田実業* 985名
第7位 筑波大駒場 960名
第8位 早稲田 911名
第9位 慶應中等部 886名
第10位 市川 801名
*2教科入試校
2教科入試を行っていた学校がかなりあって(立教、明大中野、学習院、早稲田実業など)、多くの受験生を集めていました。
また当時の合不合は、難関校志願者が多いのも特徴でした。
男子御三家中の志願者は、開成(680名)、麻布(655名)、武蔵(370名)であり、これらを合計すると、4科受験生(6699名)の約25%にもなります!
その併願校であった巣鴨、1月入試の市川中はとても人気がありました。
当時はSAPIXがなく(日能研、桐杏学園、山田義塾などはありましたが)、難関校を志望する多くの受験生が合不合受けていたんですね。そういった意味で、昔の合不合の受験生のレベルはかなり高かったと思います。
つづきはまた書きます。