『この世界の片隅に』観てきました。世間では絶賛の嵐なので期待感いっぱいでしたが、残念ながら「大好きな映画」にはならなかった。帰りに『君の名は。』のポスターを見かけ、ちょっとだけ「こっちにしとけばよかったかな?」と思ってしまった(笑)。

軍港の街は実に巧く描けていた。ここは軍事オタク監督の面目躍如でしょう。

しかし、脚本的に(人間ドラマ的に)二箇所、難点があった。


①リンさんという遊郭の女性は原作ではもっと活躍するらしいのだが、映画版ではちょっと出てきてヒロインと会話する程度の出番しかない。しかし、映画の終盤、終戦後生き別れた身内を捜す人たちに出くわして人違いされるくだりで、ヒロインは独白でリンさんに言及する。しかし、あの程度の触れ合いで、リンさんがヒロインにとっての重要人物になるだろうか?ヒロインがリンを重視する理由は原作を読まないとよく分からないのだろう。つまり、原作に寄りかかっているのではないかと思った。

 

②兄の戦死の可能性について聞かされたヒロインが心の底でそれを喜んでいることを自覚して「(私は)歪んどる」と反省するくだりがあったが、そんなに(=優しいヒロインからも嫌われるほどに)意地悪な兄貴だったかな?と思った。ここも唐突。

 

②については自己解決した。冒頭の明るい幼年期時代から「悲しくてやりきれない」という歌が流れるのは、この作品が、客観的な視点からではなく、終戦後のヒロインの悲しみに彩られた視点から描かれた回想形式の作品であることを表していると思われる。座敷童がリンさんに似てると言われるのも、リンさんに会った後の視点から改変された記憶だからであろう。同様に、「鬼イチャン」の戦死を喜んだことを反省した後のヒロインの記憶の中では、兄は「ほのぼのタッチ」に改変されているのだ。

 

 

 

で、その後「君の名は。」も観た。

「311以降の感覚」というような言葉で本作を評価している人たちが既に何人かいるけど、製作者サイドがかなり強くフクシマを意識しているのは間違いない。「感覚」や「感性」や「無意識」だけでこれはありえない。

クライマックス・シーンで、彗星が落ちている瞬間に主人公の少年は(いろいろと住民救済のために動いたのに結局それらのことを完全に忘却して)その光景を単に綺麗だとしか思っていない。このくだりは、70年代以降福島の人たちは常に原発と隣り合わせだった一方で、東京人および関東人はそこの電力を活用した文明生活を満喫していながらそのことを大して意識していなかったことを皮肉っていると思われる。

卑小な形ながら、企業と政治家の癒着関係がほのめかされているし。

RADWIMPSの「狭心症」は311を予知した歌だと当時言われたけど、彼らが音楽で参加しているし。ある女性週刊誌で知ったことだが、サントラのある曲のヒントを新海監督にRADが求めたところ、「最近になってやっと分かったことがある」というキーフレーズが返答された。それはやはり「関東外への原発押しつけ」だろう。

そう言えば、私もフクシマ問題をタイムトリップと絡めて(と言ってもSFではなくて、『ドラえもんが実在してたら、こんなことにはならなかったのに・・・』という台詞が出てくる程度の絡みだけどw)RADWIMPSの曲を使用して・・・みたいな映画を構想(妄想?)したことがあったな。先を越されたw。

今、メジャーな表現媒体で、福島への原発押しつけについての反省と悔恨を表明するとしたらこういう形でしかありえないのだろうな。

「転校生」「時をかける少女」の影響は飽きるほど指摘されてるけど、「黄泉がえり」(塩田明彦監督)の影響もちょっと入ってるかなと思う。同じ歌い手の歌が三曲も使用されているところなども似ている。「この世界~」もそうだったっけ?