山下敦弘監督、「苦役列車」を観た。主人公の数年後を描いた終盤のシークエンスは素晴らしく、作家が書き始めるということを、ああいう風に描いた映画は今まで無かったと思う。


①作家とは旧交を温める暇も無いほど孤独な存在だ。(高橋とのテレビ越しの再会はチンピラに遮られるし、正二や康子との幻想シーンでの再会も穴に落ちて遮られる)

②内奥にある原始的なものが首をもたげたとき、作家は書き始める。(ラストの主人公の後姿はほとんど原始人)


上記の2点の表現が傑出していて、中盤の動物ごっこのシーンも、②のための伏線だと思われた。


しかし、山下ファンとしてはやや物足りなさが残る。それは何故かと考えてみた。「主人公が書き始める」というのがこの映画の中心になる主題だが、もうひとつの中心が欲しかった、というのがその理由だと分かった。


「リアリズムの宿」では、凸凹コンビの珍道中という中核の他に、尾野真千子演じる謎の女という中核があった。

「ばかのハコ船」も、赤汁販売員夫婦の顛末という中核の他に、ベロニカ姉妹がもうひとつの核を形成していた。

「リンダ~」も、ペドゥナのアジア的な天真爛漫さという核と、西洋人の血が4分の1入ってるという香椎由宇の欧米的な厳しさという核があった。


多くの山下映画は二つの中心(数学的には焦点という)がある楕円形なのだが、「苦役~」は単なる円だった。そこが不満。古書店における前田敦子と田口トモロヲの話をもう少し膨らませて、もう一つの中心にしてほしかったな~。


念のため。中心が二つってのは、『インファナル・アフェア』みたいなダブル主演って意味じゃないよ。最初から狙ったところがうまく行けば、その作品は佳作になれる。無意識的な要素が功を奏して、やっと傑作になる。意識の核と無意識の核で楕円になるってな感じかな。