東中野のポレポレ坐にて行われた「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ
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『屠畜』」
を見てきました。中央アルプスチロルや西ニューギニアなど世界各地の屠畜の民俗を映す内容です。
エンサイクロペディアは百科事典を意味しますが、これを見てただの知識・教養として納めるのは勿体なく思い、色々考えちゃいましたので、長文に…
家畜は豚やトナカイ、喉にナイフを入れ屠殺し放血する。毛をむしり、腹を割って内臓を取り出し、肉を解体していく。腸はしっかりと洗いソーセージ作りに利用し、肉を燻製にしベーコンを作る。
商品を作るための解体なら「これは売り物にならないから」と上質な部分以外を捨てるかもしれないが、彼らは換金製品ではなく、まさにそれをそのまま生活の糧とするからトナカイの角も、血でさえも捨てることをせずに使う。「一物全体食」、まさに命の全てを無駄にせず他の命に寄与する、これが命の作法だと学んだことがあります。この映像こそ自然と一体になって生きてきた文化・文明の素の姿です。
これに対峙する市場社会では、お金を渡せばお肉も当たり前に食べられます。命を殺める様子を目にすることはない。見たくないものにベールをした状態で社会というものを成り立たせる、これが分業制・貨幣社会の作った現代です。屠畜は汚い、でもその汚い土台に現代社会があるのに、それを見る事を野蛮だといって見させないようにしている社会です。
さて、日本の屠畜について言えば世界ほど発達した食文化はないでしょう。肉食という文化は狩猟民族か、寒冷地・傾斜地という農耕不適地に栄えています。「人間が食べられないものを食べさせて人間の食べられるものを作ろう」というのが家畜の起源で、決して「贅沢品を食べよう」という始まりではない、農耕不適地での食糧確保を目的とした起源です。日本は非常に農耕に適した風土ですから穀物・野菜を食べてきました。それでも「自分の食べるものを自分で調える」「自然から直接糧を捕る」ということで、今回上映された映像と構図の点では相違はないです。これが江戸時代まで栄え、戦後まで主とした自給的農業を軸とする生活の在り方でした。これに大きな打撃を与えたのが1961年に施行された「農業基本法」、農家所得の増大を目的に、農産物の選択的拡大により農業生産性は引き上げられ、これにより農産物は農家にとって「食糧」から「商品」へと色を強め、生活の道具を自然から得ることを辞め、増えた所得により商品を購入することで取って代わられる。こうして生活は自然から離れていった。命を見て、命と関わっていた自給農業は今日も衰退を進めている、「自然共生社会」→「貨幣社会」です。
「二-ズに対する商品の独占」これが現代。人は用を足すために絶えず貨幣を払い、働いて貨幣を蓄える。だから貨幣を多く持つ者は多くの幸せを持ち、持たざる者は不幸である。
この結果を振り返ってみる。都市に対して、遅れて貨幣が入り込んだ「地域」とは何か。持たざる者に国は経済の豊かさを見せつけ、道路などの公共事業を投資し、債務を負わせる。この相殺に用いられるのが「開発」。ダム、空港、原発… 国民利益のための犠牲を大義に給付金を与え、土地を奪う。「自分の食べるものを自分で調える」ことが弱くなった地域は貨幣に頼るしかないから、簡単に強者との隷属関係を生んでしまう。それが市場社会の特徴である。
「自然」から「自ら」糧を創造していた屠畜の「自立した」文化と、市場の歯車となり隷属を生み弱者に原発を押しつけた現代は、真逆にある。
ところで映像のソーセージやベーコンを作る季節は11月とか、これは大雪を迎える冬に備えての保存食の為。トナカイの毛皮を剥ぐのも防寒の為。西ニューギニアは保存食も毛皮も要らないから、その場で焼いて食べる。人間の暮らしは、自然・風土の在り方の歴史でした。アルプスに酪農が栄えるのは農耕不適地だから、東南アジアの人口の多さはお米の適地だから、山羊を連れたモンゴルの遊牧民は植物が乏しい不毛の大地だから… 文化の姿は国の政策のように人間がコーディネートして作られたものはない、砂漠のサボテン、シベリアのタイガなどの植生と同じく、農民の生活もまた自然の風土そのものです。だから代替不可能、他に移すことも、別の生活様式に変えさせることも出来ないんです。
市場社会はこういった文化の色を消して、誰でも、何でもお金で買える社会を目指す。そこに生じるのが格差で、消えるのはコミュニティというのが歴史の証明。
私は、この市場社会で権益を牛耳る人たちに「やめてください」っていう生き方をしなくちゃと思います。
次の社会の創造を考える時、お金では測れないものに目を向けていくことが必要で、屠畜を見るという事は、人が自然に立ち返ること、それはほんの50年前にはあった光景、(見たくないものにはベールをし、その目を広告やメディアの捏造だけに向けさせる)幻影社会ではなく、「自然の中の私たち」という現実社会に人間を引き戻すヒューマニズムの取り組みだと思いました。
村山