EKさんへ

 

>統合失調症は薬物療法なしに回復することのない病気なのですよね。なので心のあり方とか生き方とかの問題ではなく、脳の病気だと考えるべきなのだと思います。
    でも心の問題とも関わってくることも確かなのだと思います。ぼくは脳の障害だという説明では十分に納得できないのだと思います。
    あと統合失調症という病気自体は、西洋医学でしか治療できないのだと思います。いろいろな病気で手術とか薬物療法が必要になるのと同じように、統合失調症でも手術こそないですが、薬物療法が必須だと言われています。


統合失調症に関する知識は、私自身あまりないのですが、
EKさんの症状をどうも、今まで色々拝見して、とても器質的な脳の病気とは思えないのですが

心が引き起こしているものではないですか?

「自覚と悟りへの道」 森田正馬 水谷啓二著

特にこの本は倉田百三氏の強迫観念からの脱却の体験談が
載っていますが、物が認識できなくなったり、目で見えるものが
ぐるぐる回ってきたり、壮絶なものがありますが、

原因は不自然な意思の力でコントロールしようとする心持から発しているようです。

私の勝手な推測ですが、CPU(コンピューターの中央演算処理)でも
プログラムを一本のタイムチャートにそって順次処理しているわけですが、
人間の脳内でも、おなじことで、並行処理が苦手になっているので、
意思や思考にとらわれが起きると、いたるところに、繰り返し処理が行われて、
処理行動に欠陥が出てくる。

それとは別にCPUでも、ダイレクトメモリアクセスと言う機能があります。
プログラム(思考、想念)なしに、直接メモリにアクセスすること。

人間の場合は自律神経的なものでしょうか。

思考や想念の束縛から離れ、あるがままに心を開くと、無駄な繰り返し処理が軽減されますから
ダイレクトに自然が実感でき、生き生きとした解放感が実感できるものです。

但しそれを意思の力で味わおうとすると、一念が邪魔をして
元の木阿弥になるわけです。

倉田百三氏のように絶体絶命になって、
いわゆる、治らずに治ったという心境が必要になるわけですね。



離人症
詳しくは解りませんが、自分が自分でない感覚のようなものでしょうか?
これは私にも経験があります。私の場合は故意に座禅などで意識の集中を
しているときなどおこりますね。
この本にも、136P等、

これも物事を良く味わいたいと言う
神経質てきな、欲望から発するもので
意思薄弱的なものではない、あたりまえのことなので、
あるがままで解決できる心配の必要のないものですね。


不眠症
これも良く経験するものですが、薬なしで解決できるものです。
わたしも大分前になおりましたが、絶体絶命は必須です。


世界がちくちく押し寄せてくる。

これは理解しがたいですが、これも意思薄弱的な脳の病気てきなものではなく
意識の集中が強すぎて、そう感じている、
耳鳴り恐怖のようなものと言ったら失礼でしょうか?

耳鳴りは、今の私でもがんがん鳴っていますが、
これを嫌がってなおそうとするとまさに、意識が混乱して
私は生きて行かれないでしょう。
しかたないとほっておくとまったく耳鳴りは相対的に消えていものです。

ただ、EKさんの場合相当大変そうなので、なんとも言えないですが。

 

 



とんでもない疲労感がある

これもなんとも言えないですが、
内科的なものでなく、心の問題が引き起こしているかどうか


計画決定恐怖症

予期恐怖でしょうかね
あたりまえのことだと思いますが。

以上これらが、統合失調症で治らない病とかたずけるには
もったいないきがします。

 

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参考までに

院長メッセージ(36)森田療法(3)森田正馬と倉田百三の関係について


札幌市で平成30年7月25日にセミが鳴いた。
私の記憶では、数年ぶりのことである。今年はそれだけ暑い日が続いたといえるのかと思う。
10月になると、冬の寒さが強く感じられない。デパートでは、冬物が衣類の売れゆきが悪いのだそうである。半面秋から冬への移行は穏やかである。

秋の夕日に照山紅葉
濃いも薄いも数ある中に
松もいろどる楓や蔦は
山のふもとの裾模様 (高野辰之作詞:もみじ)

もし、文学者がこの四季の一つの象徴でもある自然の変化を実感できないとしたらどうなるだろうか?
森田療法の本を読み返していると、昔、平松先生が森田療法をするときに前もって倉田百三の「出家とその弟子」を手渡された意味が少しわかりかけてきた。
◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇
倉田百三は、ある日突然、偶然のひっかかりから始まった。…………
夕日が沈みかけ雲が夕焼けていくのを見ていた。その時に目は夕景色を注目しながらも、心に何もピンと感じるものがない。・・・・・・・・・・・・・・・・・
倉田は偶然の心境の変化の驚きから、統覚不能という症状を悩みだした。
耳鳴り症の苦痛が一週間続き、次に静物の対象が動いて見える障害・・・・・・・
「いろは」を繰り返し連想することが止められない恐怖・・・・・
数を次から次と加減乗除し続ける計算恐怖・・・…
倉田の不眠は、閉目すると瞼のうらの血の流れが見えて、気分が悪いことにとらわれ、閉眼して寝むれない。 不眠が続き、衰弱して死ぬという恐怖・・・・・
倉田は、文学者として対象をこまかに観察する力とともに、全体を統合的に大観する能力と天賦を持っていた。・・・
△  △  △  △  △  △
ふとしたきっかけで、松の木を見ていて、幹を見ているとこずえが見えなくなり、松の緑を見ていると松の幹が 見えないという風に、松の木を統覚し、更に観照することができなくなったともがき苦しんだ。
このように高尚な思想と感情との統一融合の作用が、日々調和が取れなくなっていくと悩むことは、文学者として致命傷でなければならなかった。
森田正馬は、倉田百三のこの状態を、森田式治療で、治癒させた。
この事情を野村章恒先生よれば、森田療法によって治った倉田百三は、その体験記で【治らずに治った私の体験】として、発表された。病気のことは考えない、考えてもいられない、問題にしない、自ら治った。症状が消えなくても、執筆活動ができるようになったということである。こうもいえる。「症状が消えてなくならないから、治らずといえるが、症状がありながらこれがさまたげとならずに、原稿執筆生活がおくれるようになったから治った。」  これが森田のいう「あるがままの生活をする」ということである。
△  △  △  △  △  △
森田が考えた強迫観念の成り立ちは、次のようなものである。
森田は、フロイドから【強迫観念の発病動機には偶然性が多く、その動機を重要視しないことを説き、神経質素質を重要視すること、現象をくわしく観察すること】を学んだが【その原因をフロイドの小児期の環境の変化が神経質形成に影響をしていることには、同意をしたが、そのことを性的事実に結び付けると偏(かた)より過ぎると結論付けた。】
一方で、グリージンガ―から【ある一定の観念が意識内に強迫的にあらわれ、患者自身は、それを病的なこととして、これを排除しようとすれば、ますますつよく意識に現れ、はげしき不快感情を伴うものであること】を学んだ。

森田の結論は、強迫的に表れる現象は、患者の心理を分析し観察してゆけば、はじめから強迫的となるのではないことを見た。その時間的経過として、神経質者は、不快感情にとらわれ、これをとりのぞこうとあせりもがく結果として、その観念が強迫的になるのだという。
森田の着眼の根本は、そのことが病的なものではないことを納得させて、この排除をしようとすることをやめさせるにあるという。強迫観念を病的異物と考えることを非としたことに卓見があった。
          ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇
森田は、倉田百三への治療の成功によって、森田療法に自信を持ったといっても過言ではないと思う。その詳細な理論は、「強迫観念の成因に就いて」神経誌第38巻2号1934年に載った。
それにしても、臨床精神科医としては、倉田百三の話を傾聴する素養と知識と文学性などを持ち合わせた森田という人の存在の大きさに驚くしかない。
日本が生んだ唯一とも言っていい精神療法である森田療法は、現代の精神科医療の中で、学ぶものがあるとしたら「強迫観念を病的なもので、病的異物として考えることには、当たらないということではなかろうか?」(2018・11・3)

森田正馬評伝 野村章恒著1974年5月7日白揚社刊
森田正馬全集 第1巻~第7巻 白揚社(1974年4月~75年7月)

 

http://hiramatu-mhp.or.jp/clinic_director/2018/11/08/%e9%99%a2%e9%95%b7%e3%83%a1%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc%e3%82%b8%ef%bc%8836%ef%bc%89%e6%a3%ae%e7%94%b0%e7%99%82%e6%b3%95%ef%bc%883%ef%bc%89%e6%a3%ae%e7%94%b0%e6%ad%a3%e9%a6%ac%e3%81%a8%e5%80%89/