臨在録の無位の真人について、

 

なにか参考になればと、過去の記事を

 

まとめてみました。

 

あるがまま

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いろいろと(1)

そうですね、難しい事はないんですが、そのままでいいんですよ。
あれこれ、別な状態に自分を持っていこうとする、これがそもそもの原因なんですよ

今の自分から逃れよう、別な自分になりたい、不安を解消したいとか、
そういった考えが、常に二つの自分を作っている。今の自分と、こうありたい自分、
常にこれらが不安をかたち作り、それに心が集中するために、不安感がとれないんです

あるがままの思いというものは、そうでなく一つの心というものを有る意味表しています。
そのままと言うとき、こうなりたい、対象となる自分はいないんですよ。
又、それも難しいと言うとき、その難しいままとした場合、難しいままとした自分
しかいない。どこまでもなろうとする自分がいない。

何時までも、ああでもないこうでもない、自分を良い方向に持っていこうの時、
常に希望とする自分という対象物がいる。
それらが何時もうまくいっていない気にさせたり、何か自分が劣っている、深みに
はまっている気にさせているといえます。

真宗ではこのあたりの消息を弥陀に任せるといっています。
自分を何とか自力的になんとかしようとしてきたがうまくいかない。
まあ、自分を取り扱うのをやめるわけです。
自分を取り扱うことが、問題の始まりといえるかもしれません。
不安でも安心でもどちらでも良い、そのときその時の状況を頂いて行こうではないかと
言うことです。そこには選択心が無くなっている。
どうころんでも良いわけです。

又このとき、弥陀に任せよう、任せて良い状況を頂こうの心があれば、全く任せて
いないことになります。
毛ほどの先の自力心でもあれば、地獄に真っ逆さま。
まことに、易行道でありながら、難しいといわれる所以であります。

森田療法でも、あるがままを取り違えて、なかなか悩みが解消できない難しさも、
このあたりにあります。
あるがままは、その時、その時ということ、一滴の希望的観測もない状態と言って
良いかもしれません。自分というもののこうありたい願いもない。
願い有れば一瞬のうちに崩れる。ある意味、簡単なようで難しい、気づきにくい
ところです。

じゃあ難しい、誰でもできることではないかというと、そうではありません。
できないままにすればいいんですよ。

真宗で、凡夫のままに救われると言う消息は、こういったことを言っています。

いろいろと(2)

できないままと言うとき、できないままの自分しかいない。
二念がなくなるわけです。
できないままと言う、もっとも簡単なことでありながら、一念になる。
かえって、別な自分を願うときや、治そうとしたり、自分を動かそうとするとき、
大いなるに二念になっている。良いようで求める自分からますます離れて行くわけです。
求めなければ、求まる。
願わなければ、願いが叶う。

禅で、無念の念や、無功徳の功徳というのもこのあたりです。
生ずる心なくしてその心を生ずる。

本当に、こういったことが、ある時わかったとき、やはり心にある変化が生じます。
不安から逃れることを、もはやあきらめた、その刹那、心が解放されるわけです。
このあきらめも、自らあきらめると言うと、あきらめようとしている計らいがある。
悩みのまっただ中で、あきらめせしめられる、と言ったところがあります。
道元禅師的に言えば、万法に証せられるという風。

毛ほどの期待感があれば崩れる。でも崩れたままにしておけば、また逆転する。

ようするに、自分が、この状態が良いと決めつける必要はない。
どこにも、制約するものがない世界なんですよ。
かってに自分がこうでなければと、縛っているといえます。

あるがままは、まったく自由なものがあるんですよ。
でも、やりたい放題と言うことではなく、本当にあるがままがわかるのは、
悩んで自己をさいなむ、苦しんだ人にのみわかる、特権なのかも知れません。



そういう、決めつけたものが、はなからあるんですよ。
あるがままは、まったく形なきものです。
こうなければと言う状態もありません。
これがあるがままと、いうものはなく。
一切が、あるがままと言うことです。

つまり、”私は心から願う”というものは、どこにもないということになります。
また、そういう願いがあるかぎり、あるがままから離れると言って良いでしょう。

でも、それもあるがままだと、見切れば、それもあるがままです。
あるがままは、どこにも転がっているんですよ。

叶おうとする自分が求める自分では無く、そう求めている今のkさんのままと
言うことになります。
解消しようとする事が、ますますものごとを引き起こす。



まったく、これが良い、これが悪いというものはどこにも有りません。
こうあれと、きめつける事はないということですね。

あるがままは、ある意味、結果的に全部認めていると言うことになります。
意識的に自力的にではなく、無意識の意識、無肯定の肯定というところがあります。
心というものは、本来とらえられない。とらえようとすると失敗する。
とらえること無くして、とらえる。
そう言うことが解るようになると、本来持っていた、元の自分と言うものがでる。
あれこれ、とりつくる事のない自分。
森田療法では、純な心といったり、禅では無位の真人、真宗では無碍の一道の人と
いうことになりますか。

 

 

仏法なきところに。

>悟りたい、楽になりたい、それじゃ駄目だ、
この駄目が駄目だ・・・、等々
まるごと、まるごとです。
(これでいいんでしょうか?)

そうですね、駄目な自覚に入っている時に、
駄目を動かすことなく、
どこにも心が行かない、自分がでればいいですよ。
何かになろうとする、自分が落ちれば良いわけです。

これは言うまでもなく、自我を守るために
自己を強く設定しておきたい心の動きが当然あるわけです。
しかしそれは、際限ないところが根底に含まれている。
いつまでたっても、不安感から逃れられないわけです。

そういうことをクリシュナムルテイもさんざん言っている。
悩みを解消したい方向では良くないですよと。
真理を求めたい心にはいつまでたっても真理はこないわけです。
”真理を求めたい心”には自分を強力にしたい願望が、
変身したい、今以上になりたい欲求が隠されています。
それでは駄目だと、彼は相談者に口をすっぱくして言う。
相談者はたいがいが煙にまかれてしまう。
彼の言う事がさっぱりわからないわけです。
まったく相談にのってくれない、求めることは駄目だといわれる。
相談者は、しかたがないから、帰って良く言われた事を検討し
分析してみますという。
彼は更に追い討ちをかける。
それではいつまでたっても駄目だと。
分析には、そういった願望がありありだからです。

なろうとか、かえようとかではなく、
自分に現れる事象を只みつめるだけにせよと言うわけです。
手をつけな、というわけです。

そういうものが、常に不安感や一体になれないもの
又、恐怖感の元になっているわけです。

真理を願うところに真理無く。
悟りを求めるところに悟りは無い。
仏を求めるところに仏なく。

仏法なきところに仏法があるという所以です。

だから臨済録にもあるように、
仏にあえば仏を殺しということが言われるわけです。

臨済は言う。

悟りとか真理とか仏法とかやっかいなものにとっつかなくとも
おまえたちの眼前に一無位の真人がいるではないか。
何を求める必要があろうかと言うわけです。

求めれば逃げる。
求めなければ、現れる。

東山寺HPの歌の項にも載せていただいていますが

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あれこれと 悩みも含む 不生かな

一念の 定まりありて 我はいく
ゆれる心も ゆれぬ心も

得もなくて 捨てるもなくて 雪も降り

ずたずたの ままで生きても 生きられる

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