臨在録の無位の真人について、

 

なにか参考になればと、過去の記事を

 

まとめてみました。

 

 

成仏とかが意識に登っているかぎりは、成仏はできません。
成仏を願うところに成仏は無い。
成仏はそれらの意識を離れたところにあるんですから。
ですから、成仏は成仏ではない、それが成仏だといわれるわけです。
地獄も極楽も、同等に受け入れられて始めて、成仏があるのですから。

極楽だけ欲しがる人、
成仏だけ欲しがる人、
悪霊を遠ざけ、善霊だけ欲しがる人
これらの人に成仏はありませんよ。




>>極楽だけ欲しがる人、
成仏だけ欲しがる人、
悪霊を遠ざけ、善霊だけ欲しがる人
これらの人に成仏はありませんよ。
>特にこの言葉は、「はっ!」としますね。

そうですね、この辺りが一番のポイントだと思っています。
安心が欲しいと、心の追求や、求道を続ける。
結果、なかなか得られないものです。

そうではなく、不安も安心も両方という不安も安心も当分に見られて始めて、
不安、安心を超えた安心と言う物が得られるものです。

親鸞の地獄一定。
地獄こそふさわしいとなって始めて、
地獄と極楽が同一線上になる。
地獄、極楽どちらでも良い。
無碍の一道というものが出てくる。

探さない、得ない、
探さなくても良い楽
得なくても良い楽
ここが解ると、スット楽になるものです。
心が寂滅する。心が静かに収まる。

禅でも無得の得と言います。
得ないところを、得るわけです。
得ないところに妙味がある。
無心を得ようとしても得られない、
無心を離れたところに無心があるわけです。

心の決着をつけようと、安定を得ようと頑張る。
けれど、なかなか得られないものです。

或時、どうにもならないとこまで来てしまう。
どんずまりです。
決着、安定への欲求を手放さざるを得ない。
そこでふと、心が軽くなる、楽なものが見つかる。

無決着の決着。
決着の無いところに決着があるわけです。

無安定の安定。
安定を放棄したところに安定がある。

不安が来れば不安で行く。
安心が来れば安心で行く。
心がみだれれば、みだれたままに。

どこまでも心が滞るところがない。
滞っても良いわけですから。
滞っても、滞っていないわけです。

心がこうなければならない物がなくなる。
心の位がない。
臨済録では無位の真人といっていますね。

信心銘(3)

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リンク先を訂正して置きます。2006/7/6

これも良いです。
”真を求むることを用いざれ、”
”真を求めず妄を除かず”。
心があっちこっち向かない、求めない、
無位の真人、無位にいると言う事ですね。
 
 
東山寺のHP 仏とはなにか   

http://www17.plala.or.jp/tozanji/

 


東山寺の和尚さんの信心銘提唱
(現在リンクは無くなっているようです。)

≪真を求むることを用いざれ、唯須らく見を息むべし。≫

 君見ずや絶学無為の閑道人、真を求めず妄を除かず、と証道歌にあるとおり、
仏教以外にはこう云わないんです、必ず真実をいい善い悪いです、是非に
管するんです。何故かを平らに考えてみりゃいいです。修行の末の心境とか、
仏ぎりぎりのとかの真を求めずです。見、意見見解じゃなく、平らな現実です。
いいですか、もと現実の中にこうあって、どうあがいたろうが何いったろうが、
そこから免れることができない。水中の魚のごとく水という、真をいえば
真ならざるものなしなんでしょう。水の中にあって渇きを求める=真を求める、
ということではないですか。おかしなことをしている、ましてやそれについて
意見百出は、マンガというかどっか気違いじみています。
 もとありえないものを求める、というより絶え間なしありえそうに見える、
でも求めるかぎりそっぽを向く、求めなければ-たとい求めようが真実どっぷり
浸けです。これを心行く味わえばいい。 大安心という、生活そのものです。

 ところがそれに気がつかない、イデ-をいいイコンを求め、現実は無惨やるせない
世界だからという、必ず最後の審判とか、宗教という三つの子どもが笑う荒唐無稽、
あるいは牽強付会です。思想といい主義主張という、つまりは多大の犠牲を
払うんです、そうして納まりゃ後遺症です。
 求めるかぎり真ではなく、見を持つかぎり本来ではない。このこと確かめてみて
ください、てまひまかからんです。絶学無為の真人、大ひまの開いた人、閑道人、
まあこういってみなけりゃ、そりゃ世の中おさまらんことある、でもこれただの人。

 自分をふりかえってみりゃいいです、意見百出もありがたやなんまんだぶつも、
試行錯誤もだらしなしも、意見まとまらずも、腹いせもまじめも不真面目も、
なんら自分そのものに影響を与えない、「わしの腹は東海道、どんなやつも通って行く。」
 一休さんの語は、人みなそのとおりの現実だから、効力がある、一休さんの心境、
修行の結果じゃあ一休さんとその一派にしか通用せんのです。

 学問見解が人を使用するんじゃない、人が学問見解を用いる、そりゃ当たり前
といって、これを知る人皆無といっていい、声色の奴卑、つまり奴隷です。
鎖につながれ鞭打たれやっていて、「そんなのいらん、妄想無明でいいんだ。」
という、さっぱりよくない。
 
≪二見に住せず、慎んで追尋すること勿れ、わずかに是非あれば、紛然として
心を失す、二は一に由て有り、一も亦守ること莫れ、一心生ぜざれば、万法に咎なし。≫

 思想意見はつまり二見にわたるということなんです、是非善悪、取捨選択、
だからの世界です、物差しをあてがう、ああでもないこうでもないです。
すると物差しをあてがう自分と、あてがわれる自分になる、追尋すればするほど
納まらない、事を追うの解行という、病だれです。(どんなにおろかなことか)
という、この間に世間念想観のすべてがある、人みな猛反省すべきです。
 他の痴の聖人を傭う、雪を担うて井に埋めるが如しといわれる所以です、
どこまで行っても答えが出ない、論争に明け暮れて、ついに納まるところを知らない。
そうではないんです、もとこのとおりある、納まる必要がない、身心みわたすかぎり
身心、環境たった一つ、心とは見える風景以外になく、見ている心なく、
見られている風景がないんです。

 これを一とすりゃ、そりゃ余計ことです。
 一心生じようが、生じまいが万法に咎のあろうはずがない。
 これをこうと知らなあいかんのです。
 知ってはじめて使えるんです。ただじゃあただが手に入らぬ、手つかずの法。
 お話にならんこと四の五のいったって、そりゃなんにもならん、
バカに付ける薬じゃない、バカそのものの問題だ。

 バカじゃない、利口だという、だからそうやって二見にわたらないんです、
バカっていえばバカっきり、リコウっていえばリコウっきり、リコウっきりになれば
な-んにもない、もとそんなこという必要がないんです、そりゃそうだ、まったく
だといっていて、あるときバカとやる、また際限もなくおっぱじまる。
あっはっはバカかあってやつです。
 いじましく自分を見つめている目、見つめられていり自分、どこまでいってもです、
ないものをあると思い込む、解決がない、無間地獄の住人。
 それ免れりゃこ-んな嬉しいことない、天にも上る心地じゃない、天地即自分。
自分というものなしのものみなこっきり。もとの平地です。
 

無位の真人

 

無位の真人。eさんへ。

そうですね、何も無いものをどう示すか。
どう、教示すれば良いのかと云う事ですね。
もし、何か言えば、人はそこに何かあると思いそれに執着し、目指すでしょうし、
何も言わなければ、それでも何かを探そうとするでしょう。

釈尊が悟りを開いた時、これは他に伝えることは不可能だと落胆したのも
そう云ったことなんでしょう。

どこにも行かない、ゼロポイントと云う事ですね。
これもゼロを探し当て様とするとゼロでなくなる。

こう云った物が、歎異抄の無碍の一道であるし、臨済録の無位の真人ということでしょう。
森田療法では、治そうと向かわない治さない地点と云う物があるし、
真宗では地獄一定が鍵になるし、禅では、只であり不生でしょうか。
クリシュナムルティであれば、あなたは何か探しておられると一喝するでしょう。
臨済ならおまえ達何をあっちこっち大丈夫な体を持ちながら探しているのだと
大変なさわぎになるでしょう。

いずれにしても探すかぎりは不安はなくならないでしょう。
バイアスが限りなく続いているからです。
不安を安心に変え様とすると、不安は増大する。
不安は不安だと、置いておけば、そこがゼロポイントとなって、不安はもはや
不安の対象から外れてくるわけですね。
そうすると、不安でありながらも、なにかしら決着の着いた安心が出てくる訳ですね。

ですから電話恐怖の時は、恐怖のままに電話すると云う事になりますし、
人前で声が震え様と、震えるままに声を出すと云う事になります。
そこで、恐怖に戦わずそうだなと心で決着がつけば、最早恐怖を超えているわけですね。

東山寺メーリングリストからの引用
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 高速道路ねえし延々裏日本、なんしろ突っ走って五時過ぎ、温泉津温泉ゆのつ温泉
というところがあった、すべり込みセーフで晩飯にありつけた。
 旅館の前に角を生やしたおっさんの像がある、浅原才市妙好人とある。
「あれまるちゃんが云ってた才市という人。」 弟子がいった、ヤフー掲示板でお世
話になったまるちゃん-仇名、なんまんだぶつの人だ。
如来の御姿姿こそかかるあさましきわたしのすがたなりなみあむだぶつなみあむだぶ

 とあり、また、
角のあるのは私の心、
合掌させるは仏さま、
鬼が仏に抱かれて、
心柔き角も折れ、
火の車の因作っても、
咸消されて其の上に、
歓喜心にみちみちる、
嬉愧し今ここに、
蓮の台が待っている。
と記す。
 ここまでやった人は珍しい、まさに旧知に会う如く、偶然ではないという気がす
る。わしらはたといこうは云わぬ、行き当りばったり糠に釘とさ。
 はてなあ、なつかしい人の二人め。
 その宿のばあさが傑作だった、下駄作ってた人でといって角の云われを正確に云
う、恋わずらいで喉がおかしいって、手術したんかも知れん、才市の弟子かも知れ
ん。
「いっひっひいうんめえ米さ。」
 とか、お化けみたいふうっと出るとこがいい、北門屋敷の仲居より上だ。

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東山寺の和尚さんは、どうも旅に於いて偶然というか、
必然というか、才市に出会ったようですね。
良く才市を覚えておられたのだなあと、うれしかったですね。

しかもどうも認めておられるようです。
これも又嬉しい事です。
才市もようやく、良寛、盤珪、一遍と同等に並びましたか。