自己をならふ(2) >自分でもなぜこんな悩みを持ってしまうのかわかりません。そして誰にも言えません。 たぶん、いろいろ原因はあると思いますが、原因の分析が解決には繋がりません。 あれか、これか、心がいつまでも2元に分断されて行きます。 >まるちゃんさん…私、より良く生きてないですよね… 『死』に対してこだわりすぎてるのもわかります。 『より良く』生きるために自己啓発的な本を山ほど読み漁りました。 でも、以前のまるちゃんのブログで「憂鬱なのに無理に明るく…とかすると心が二つに別れて…」 という言葉が自分には刺さったので、 自己啓発は神経症を悪化させるところもあるなぁと感じていました。 脳みそフル活用しすぎて疲れてしまっています… そうですね、私も過去、自己啓発一辺倒でしたが、 なにもかも、うまくいかなかったですね。 只、本当に大切なことは、心のどん底を体験することが必要な事で、 なにをやってもだめだったと言う体験が必須とも言えます。 手も足もでない状態になって初めて、自我が自己を放棄するのだと思います。 人間は自我の塊なんですね....。 生まれつき自我の強い人、そういった遺伝子の強い人は、心の波風が吹き荒れることが多いのでしょう。 生活もできなくなる程の嵐の絶体絶命の中で、しかたなく自我を手放す。 ○ 道元の 「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、 万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」 脅迫観念を自力で克服しようとするを、迷いとす しかたない、そのまま、手放しで強迫観念もなにもかも、やらせてもらおう と思い立ったとき、不思議に真の自己が手に入っている。 ○ 道元の 「仏道をならふというは、自己をならふなり 自己をならふといふは、自己を忘るるなり、 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」 せっかく人をして生まれたのですから、 死ぬまでに真の人の道を学びたい。 真の人の道とは、自己をならうと言うことです。 自己をならふといふは、自己を忘るるなり、 自己をわするるといふは、 しかたない、そのまま、手放しで強迫観念もなにもかも、やらせてもらおう と思い立ったとき、不思議にそれぞれの境遇にそった、真の自己が手に入っている。 ○ 道元『正法眼蔵』「生死」の巻 「この生死はすなわち仏の御いのちなり。 これをいとひすてんとすれば、すなわち仏の御いのちをうしなわんとするなり。 これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなうなり、 仏のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、 このときはじめて仏のこころにいる。 ただし、心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなかれ。」 人生のことがら、神経症も強迫観念も、意味ある自然の流れです。 これらを、いとひすてんとすれば、すなわち、人生の意味ある自然の流れを失います。 これにとどまりて嫌と思う流れに著すれば、これも自然の流れをうしなうなり、 いとうことなく、したうことなき、(神経症も強迫観念も嫌な事もそのままに) このときはじめて、自然の流れの真っ只中を感じられます。 ただし、心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなかれ。 (分析したり、追及してはいけません。) Fさん、お辛いと思いますが、心のどん底、絶体絶命の時こそ、 たのもしい、物事が解るチャンスですよ。 追記 あらためて、道元はすごいですね。