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坐禅の工夫

 へえ世の中には箸にも棒にもかからんやつがいるのか、
心経を書いた人はだれであれ、もっとも親切もっともわかりやすくを
心がけたはずですよ、もうろくじじいみたいなこと言ってんじゃないの、

かさぶたみてえなやっちゃな、わっはっはうす汚ねーからどっか行け。
カスパーとものの本質間違えないほうがすてきだよ、ばけものじゃない赤ん坊のまんま、
そんなふうじゃ優しい心経もそりゃむずかしくなるわな、お気の毒。

無意という、これが無眼ないし無身と違うふうです、意は心、
心を知ることができないというんです、わかりますか、

心はたった一つなんです、一つきりの心がその心を知るのは不可能です、
にもかかわらず心があるような気ばしている。有心です。
すべての間違いのもとといっていいです。ヨーロッパは有心、東洋は無心、
真実は東洋にあり、西欧は無明の文化というこの常識は宜うべきですか。

ないはずの心にしてやられる、自分はという取り扱いです、
残像に振り回されるんですか、疲れるんです、
人はあるものには迷わない、ないものにさんざんなめにあう。
平常人と狂人の差はないと言われる所以です。

坐ると妄想が出る、静かになるほど妄想煩瑣です、
これをなくしようとするとますます出る、どうしようもこうしようもないんです。

坐禅の工夫はここにあります、雑草を引き抜いたら石の上におけという、
枯れてしまう、そのように妄想に手をつけない工夫、妄想もと自分のものじゃないです、
世間去来です、すなわち参禅は妄想の内容によらない、ぽっと出ぽっと消える念です、
手をつけてー取り扱って栄養をやらなければぽっと出ぽっと消えるまんま、

なかなか手つかずの工夫できないんですが、できたとたんにぱーっとなんにもなくなるんです。
まーるですっからかん、心が失せたと思うとそうではないんです、
ぽっと出ぽっと消え盛んにやってます、それを観察するものがいない、
心が一つに帰ったんです、一つになるとまるっきり無い、これを無心といいます。

悟りにはまだ間がありますか、いえどんなふうであっても悟入します、
わしの場合は無心にかえって、いまだしという気がしたです、
いまだしだけが余計だったとはのちに知った。

悟りとは本来の我に立ち返ること、これなくば仏教とは言えないです、
お釈迦さまの我と有情と同時成仏、悟りがないというのは悟り終わって悟りなしという、
ひっしょうの大事を、はじめっから悟りなしとごっちゃにした安直です、

ネグレクトしてしまった、ゆえに曹洞宗は滅んだのです、
もはや宗教としての命は終わってますよ。