「禅に関するもの」の書庫に入れているものですが こちらにも入れておきます。 ○ 捨てるこれっきりです いろいろ、その他で、和尚さんが第一回目の撤退される時の 私へのメッセージを載せておきます。 (又、再登場されたり、何度かありますが。) まるちゃんさんへ 1 tozanji (63歳/男性/新潟県東山寺) 1999年9月23日 17時31分 インタ-ネットの辻説法としゃれてあっちこっち顔を出してるうちに、 いい加減アホらしくなって、もう止めようと思っています、 でもその中でまるちゃんさんは別格ですね、一つ大事にして下さい、 最後に真剣に答えようと思います。 青山常運歩は思想常識の至るにあらずです(そりゃどんな命題-公案もそうです、 たった一つ解けばまったく終わるんです。)、ただの風景なんです、 我のうして見る風景です、なってみりゃなんだこれって、 なってみなけりゃ千万里でどうにもこうにもです。 その千万断崖絶壁を、思想で越えようとしないんです、 ああもしこうもすりゃなるってやって、 そいつがどうもならんと知った時にようやく近いんです。 ただ坐る只管打坐に近づく。 近づいたってだめなんです。始めにしかし只管打坐、 坐るということの内容についていいますと、身心ともになしは、 文字通りなんにもないんです、自分を観察することがない、 これね、なみの人には決して出来ないんですよ、 坐ったって坐禅にならないんです、でも私とこへ来た人は平均三ケ月といっていい、 自分と環境との垣根が外れるんです、神秘体験じゃない、 ただの現実です、なにたいてい坐ってりゃなるもんなんです、 下らぬ仏法だの余計ことせねばじきです。 化かされたと思って坐ってごらんなさい、なに出て来たって、 とやこうなしのまっしぐら、馬鹿んなって坐すんです、 坐のほうが自分をどっかへつれてってくれる、そいつがおもしろい、 私という思想はなんの責任も取らない、糸の切れた凧の行き当りばったり。 そうしてね、忘我という、我と有情と同時成道という、一瞬なんです。 あのくたらさんみゃくさんぼだいという、忘我からはあっと我に返る一瞬です。 すべてがあるんですよ。 失礼ですが私は仏教知識に関する限り、 どんな学者たとい釈尊が出たって負けないです。 でも仏教の勉強ってしたことないんです。仏教用語って、これなんだって聞くと、 たいてい間違った学者説、違うよそうじゃないんだって指摘します、 どういうことかというと、 悟-見るイコ-ル仏教のすべてってことです。 知識はそのあとのものです。 ですから先ず捨てるんです、どんなに精妙な仏教知識も二束三文です。 初心に返るよりないんです、自分は三つの赤ん坊のようにまったく取りえなしです。 なんにもわかりません。 今わたしはあなたにこう説いて、ずいぶん長い間自分を捨てられなかったんです。 自分を捨てる、死ぬのと同じです、死ぬのはつらいです、生きていたいんです。 そうして結局だめにしてしまう、東山水上行をそっくり身ながら、 そいつが紙っぺらのようになったり、要するに中心にあるべき、 無心が有心に化けてしまっている、こんちきしょうめってんで落着なし。 捨てるこれっきりです。 見事に捨ておほせて下さい。 忘我の術はアルタミラ洞窟壁画の太古からあります。 でも釈尊のように捨て切った人は他にないんです。 さあその釈尊を捨てて下さい。 たとい自他の垣根が外れようとも、それを見ている自分があっては、 つなげる駒です。一切終わって下さい。 当然ですよ、私一個ここにこうあるんです、 人知も釈尊もインタ-ネットもへちまもないんです、 おれと大地有情とこうあるんです、だれがなにに責任取るなんてないんです、 どうしたいんだ、仏が欲しいのか自分が欲しいのか、 自分てなんだ、ねえちゃんとやりてえのか、だったらやりゃいい、 ねえちゃんなんかつまらん、地球と一発ってんならやりゃいい、 宇宙を支配したいんなら支配するんです。文字通りのこってすよ。 一対全体の対決です、まるっきり遠慮はいらんのです。 これは marucyan1 さんのMsg 96に対する返信です