かっての禅についてのトピでのものです。

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終わった人

tozanji
(63歳/男性/新潟県東山寺)  1999年10月13日
19時40分 

いいですか、悟りのあるなしじゃないんです、悟りなければ問題にならぬにしたって、
もと自分という、これっこっきりのものでしょう、もって生まれた如来という、
仏という他にな-んもいらんのです。

つまりそれができないんですよ。
必ず悟りあり、禅あり仏教あり、坊主の地位あり、ぜにかねあり、
なんだかんだなくっちゃ、生きて行けないって気になるんです。
ちらっともそれあったら、収まり切れないんです。

いうなら、
「わがこと終わった。」
という実感です、他どういったってしょうがない、どう説きようもないんです、

「終わった人。」
をどうしても作りたいんです。でなきゃ自由の分がない、
仏教のくびき、あるいは世の中いいわるい判断のとりこになる、
だったら面白くないんです、眼横鼻直にして他に瞞ぜられずと、
道元禅師の語にあります、そういう人が欲しいんです。 

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今見てみると、和尚さん、当時と言うこと、ぶれてないですね。
まだ、掲示板初心のころだから、丁寧な部分があるかな。

「終わった人。」、
心の決着、

ぐうの音もでない。

無位の真人

無碍の一道

「念仏者は無碍の一道なり。その故は天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」(歎異鈔)

念仏者も終わってなければならない。

終わってなければ、任せることもままならず、
他力も、又、遠いものでしょう。

森田療法の治ると言うことも、
治るを放下しているからこその事。