他のブログでの最近の対話を載せておきます。
絶望だからこそ

>いきなり、無心になるあるがままになる
といわれてもすぐにはそうはなれないです。

そうですね、なかなか、どこから手を付けてよいか検討がつかないと思いますが...

心、自己、自我、は、色々理屈をつけて、自分の都合の良いように、
又、自分を守りやすくする為に、思考となって、色んな言葉を発してきます。
まあ、これも、自己が生きて行く為のシステムでもありますし、避けられない
ものではあるし、当たり前の事では有りますが。

只、余りにもそれが連続しすぎて、葛藤となり、現実への自然な
対応さえもできにくくなり、かえって、心の病となり生存そのものも
危うくなる事があります。

自己が、自己自身を危うくさせているわけですね。

その過剰な比較や思考を止めて、無になろうとしても、
無になろうとする行為も、思考、自我から発したものですから、
欲望、欲求であり果てしない、ぐるぐる回りを内在して、無どころではなく、
ひどい時は強迫観念の様な状態にも成ります。

もし、それから脱却したいならそういった事を理解し、徹頭徹尾、そのまま、
心の状態を見守る以外ありません。

心に手を出さない、手を貸さない、手を付けない、
雑念は、止めようと言うわけではなく、雑念さんの方で止まるのを待つわけです。

こちらから、止めようと働きかけないわけですね。思考、雑念が、
これからも一生続こうと、まあしかたないと言う、受身の心持です。
これは他力の心持でもありますし、自ら、心に働きかけていないわけですから、
自力ではありません。

地獄が一生続こうと、しかたない、最早観念する。心のどん底で、
心の深層でそれが起こったなら、静かなものが現れるでしょう。

苦からの脱却を願うところに安心はない。なぜなら、苦からの脱却の心は
、際限のない、都合の良い自我の欲望そのものですから。

不安、恐怖、不快感等、それから脱却しようでなく、しかたない、
そのままという心境に至ったなら、ふと静かなものがやってくるものです。

将来、過去への思考でなく、絶対の今、今と行くわけですね。
非常に些細なことでも、絶体絶命です。

これがないと生きていけない、神経質だからこそ絶体絶命が味わえる訳です。

絶体絶命の間は、自我に勘弁して貰おうと言うわけです。

ですから、絶体絶命が、めったにない、特殊な事ではなく、
日々絶体絶命で良い訳です。

とうてい自我だけでは生きていけない。自我、自己が、
自分で自分を縛って身動きできなくなっているんです。

自己が、自ら破綻して、うめいているわけです。
自己自身が、解決方法がわからなくなっている。
自己、自我さんごくろうさん。

身を捨ててこそ浮かんで来るわけです。

絶望の自己で、初めて、自己が救われる。
葛藤が収まってくるわけです。

絶望さんありがとう。
神経症さんありがとう。
悩みさんありがとう。
葛藤さんありがとう。