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無自己の自己。

自己をを肯定したい、認めたい、他に認めてもらいたい、自己を守りたい。
こういった自我の願い、欲求が極端に強くなると縁や、運命さえも受容せず、
神経症になったり、種種の葛藤や悩みの元となってしまいます。

あるがままとは、自己が限りなく小さくなったものではないでしょうか。
当然人間の機能として、自我があり、自己があり、生存本能として、
自己を守ろうとし、数々の観念や思考がよぎりますが、
それにしがみつき、こだわっていくのではなく、それらが出ようとも、
そのままにし、縁に応じて行くといったものではないでしょうか。

否定も肯定もしないという心持は、心を開いて縁に対する心持でもあります。
絶体絶命になって、そう物事と対面する時、否定も肯定も入る隙間はないでしょう。

その時初めて、自己を忘れる、自己を離れるものが出てくるものです。

自己受容と言う心が、常に心を締めていれば、中々縁を受け入れにくいものと
思いまが。

>あるがままというのは、現在の自己を受け入れることであるように、
認識していたのですが、やはり自己についても肯定も否定もしないというのが、
あるがままということになるのでしょうか?

同じことを述べられておられるかのかも知れませんが、
”現在の自己を受け入れる”と言う、言葉、概念が必要でしょうか。

どうしても、自己に、そういった納得させる言葉、理屈が確認が必要でしょうか。
そうでないと自己が満足しないのでしょうか。
”肯定も否定もしない”であれば、自己の収まりが悪いのでしょうか。

もっとも自己というものは本来そうでしょう。
只、こういった自己のままでは、葛藤は収まらないでしょう。

そういった本来の有する自己と違った自己と対面すること(無自己の自己)、
これが、あるがままの体験だと思うのですが。

一念が出ても仕方ないですが、それに次々に念を足さなければ良いわけです。
そうすると、自然に念が消滅し、繋がらなくなるわけですね。

出てくる念の数は問題に成らず、自然に出てくる念はどうしようもないです。
念が少なくなる事を願うと、余計出てきますから。

そういった雑念だらけのどんずまりで、雑念丸ごとで生きるしかない。
そういったものが、自然に念を減少させて行くでしょう。

なんであれ、あろうとするところに静寂はないということですね。

心の丸ごととは、絶体絶命の心ですから、
不安も安心も共にいくというものも絶体絶命の心です。
(自己は安心したい願いでいっぱいですが、自己に勘弁してもらって、
不安も取り入れようというわけですから、絶体絶命に違い有りません。)

絶体絶命をオーバーにとらえなくても、
なんとか、つらいままに、生きていこうという心持も絶体絶命ですよ。

今までの数々の悩み、あれもこれも、何をやっても救われなく、
あるがままを選択した、いまの心持も絶体絶命の心ですから。

ですから、”日々が絶体絶命”としています。
特別な事ではありませんよ。