他の書庫と重複も有りますが、絶対絶命と言うことで集めています。

○絶体絶命(1)

絶体絶命

来客がないので上げておきます。

有る意味こういう問題は、後にも先にもいけない絶体絶命にならないと
解らないところがあります。

もともと恐怖とか不安とかは、有る期待感、こうありたいことが、達成できない
と予測するときおこります。
それは、人間を安全圏に維持する為の自然なシステムでしょう。
でもその心の動きそのものを、こうありたい、不安をなくしたいとなると、
心が心を制することになり、心の負荷が増大し、現実への対応さえも
できにくくなる。

自然に任せなさいといっても、”任せる”ことをやろうとしてうまくいかない。

心が心を制する余裕もない状態、絶体絶命、任せざるをえない、
心のあきらめ、やることも尽きた、そこまでいって納得できるってこと、あります。

○絶体絶命(2)

降参

久しぶりにちょっと森田療法の本を読んでみましたが、
流石に、いやはやすごいです。やはり覚悟ということをいっていますね。
強迫観念が直ると思いいろいろやっている内は直らない。
もう直らないものだと真からあきらめたとき、直らないものだと覚悟が出来た時
なおるものだと。
まさにそういうことです。
手をつけない、あるがままっていうのは、もうどうしょうもないから
もう降参ってことでの、仕方なしのあるがままであるわけです。
作為的なものでなく、もう手だてなしってことですよね。
どうもこうもの、真からの絶体絶命のあきらめで、なおるということです。
ということは、治す方法がないと真から思って治るということ。
却って、治らないまま生きるってことが治るにつながるのでしょう。

○絶体絶命(3)

強迫観念

強迫観念というもの、
治そうと思うからますます増長するものです。そこに意識の集中が
でき、気にしないという気持ちが、逆に気にしているということ
ですから、どこまでも逃げることができないんです。
強迫観念が直ると思い、いろいろやっている内は直らない。
もう直らないものだと真からあきらめたとき、直らないものだと
覚悟が出来た時なおるものだと。
Sさんの場合は、そのままになりきっていくというやり方、
逃げずにそのものになっていく。治そうとかどうかでなく、
そのものになっていくところに、心が二つにわかれないから、
手をつけない、葛藤無く心が転じやすく留まりにくくなる。
手をつけない、あるがままっていうのは、もうどうしょうもないから
もう降参ってことでの、仕方なしのあるがままででも良いわけです。
作為的なものでなく、もう手だてなしってことですよね。
どうもこうもの、真からの絶体絶命のあきらめで、なおるということです。
ということは、治す方法がないと真から思って治るということ。
却って、治らないまま生きるってことが治るにつながるのでしょう。

治そうと思わないことにつきます。これも、あるがまま、
そのままと言うことなんです。
電話恐怖症も電話恐怖症のまま、そのままにするしかありません。
電話恐怖のまま電話するのです。実は電話恐怖も皆が持っている、
当たり前のことなのに、ちょっといやなことに意識が集中して、
普通は恐怖のまま、又電話したりするのに、そこにこだわると
恐怖症になる。それも当たり前の姿なんです。恐怖のまま電話する、

恐怖のまま物事をなす、とらわれたまま物事をなす、
これしかありません。
そうしていく、いつのまにか何もなくなっているのです。

自分の心、”めいりすぎ”とか、憂鬱とかも、明るくなりたいとか、
楽になりたいとかも、とにかく現在の気分を無理やり
 かえようとするから、意識が集中し、心の自然な流れができず、
いつまでもそこから逃れられないんです。
”めいりすぎ”、憂鬱のまま物事をなす。
実は、そのままになっているところには、心は案外静まって
いるものなんです。
”めいりすぎ”のなかに、”めいりすぎ”から逃れたいが
あるがために葛藤がある。
”めいりすぎ”がある。
”めいりすぎ”に”逃れたいが”なければ、
”めいりすぎ”はもはや、”めいりすぎ”は無くなっていること
に気がつくはずです。静かなものを心に感ずるはずです。
いまの現在のあなたを、そのまま生きれば良い、
こんな楽な事はありません。
心は動作、環境によって、自分ではからわなくとも、刻々と
流れていくもの。その見事な移り変わりと感ずると、感謝せずには
いられないもの。
自分のなかの現象は、そのままにまかせて、
あれこれなく、朝があり、飯を食い、成すべき仕事があり、
また夜がくる、又、飯を食う。
そこには、自分が心をどうこう取り扱う一念の隙もありません。
ただ、日々是好日があるばかり。
”めいりすぎ”も不安も恐怖も、憂鬱も、
すべて心のながれの中の一部、安楽、寂滅な
日々是好日があるばかりです。