リンク先を訂正して置きます。2006/7/6

これも良いです。
”真を求むることを用いざれ、”
”真を求めず妄を除かず”。
心があっちこっち向かない、求めない、
無位の真人、無位にいると言う事ですね。

 

東山寺のHP 仏とはなにか   

http://www17.plala.or.jp/tozanji/

 


東山寺の和尚さんの信心銘提唱
(現在リンクは無くなっているようです。)




≪真を求むることを用いざれ、唯須らく見を息むべし。≫

 君見ずや絶学無為の閑道人、真を求めず妄を除かず、と証道歌にあるとおり、
仏教以外にはこう云わないんです、必ず真実をいい善い悪いです、是非に
管するんです。何故かを平らに考えてみりゃいいです。修行の末の心境とか、
仏ぎりぎりのとかの真を求めずです。見、意見見解じゃなく、平らな現実です。
いいですか、もと現実の中にこうあって、どうあがいたろうが何いったろうが、
そこから免れることができない。水中の魚のごとく水という、真をいえば
真ならざるものなしなんでしょう。水の中にあって渇きを求める=真を求める、
ということではないですか。おかしなことをしている、ましてやそれについて
意見百出は、マンガというかどっか気違いじみています。
 もとありえないものを求める、というより絶え間なしありえそうに見える、
でも求めるかぎりそっぽを向く、求めなければ-たとい求めようが真実どっぷり
浸けです。これを心行く味わえばいい。 大安心という、生活そのものです。

 ところがそれに気がつかない、イデ-をいいイコンを求め、現実は無惨やるせない
世界だからという、必ず最後の審判とか、宗教という三つの子どもが笑う荒唐無稽、
あるいは牽強付会です。思想といい主義主張という、つまりは多大の犠牲を
払うんです、そうして納まりゃ後遺症です。
 求めるかぎり真ではなく、見を持つかぎり本来ではない。このこと確かめてみて
ください、てまひまかからんです。絶学無為の真人、大ひまの開いた人、閑道人、
まあこういってみなけりゃ、そりゃ世の中おさまらんことある、でもこれただの人。

 自分をふりかえってみりゃいいです、意見百出もありがたやなんまんだぶつも、
試行錯誤もだらしなしも、意見まとまらずも、腹いせもまじめも不真面目も、
なんら自分そのものに影響を与えない、「わしの腹は東海道、どんなやつも通って行く。」
 一休さんの語は、人みなそのとおりの現実だから、効力がある、一休さんの心境、
修行の結果じゃあ一休さんとその一派にしか通用せんのです。

 学問見解が人を使用するんじゃない、人が学問見解を用いる、そりゃ当たり前
といって、これを知る人皆無といっていい、声色の奴卑、つまり奴隷です。
鎖につながれ鞭打たれやっていて、「そんなのいらん、妄想無明でいいんだ。」
という、さっぱりよくない。
 
≪二見に住せず、慎んで追尋すること勿れ、わずかに是非あれば、紛然として
心を失す、二は一に由て有り、一も亦守ること莫れ、一心生ぜざれば、万法に咎なし。≫

 思想意見はつまり二見にわたるということなんです、是非善悪、取捨選択、
だからの世界です、物差しをあてがう、ああでもないこうでもないです。
すると物差しをあてがう自分と、あてがわれる自分になる、追尋すればするほど
納まらない、事を追うの解行という、病だれです。(どんなにおろかなことか)
という、この間に世間念想観のすべてがある、人みな猛反省すべきです。
 他の痴の聖人を傭う、雪を担うて井に埋めるが如しといわれる所以です、
どこまで行っても答えが出ない、論争に明け暮れて、ついに納まるところを知らない。
そうではないんです、もとこのとおりある、納まる必要がない、身心みわたすかぎり
身心、環境たった一つ、心とは見える風景以外になく、見ている心なく、
見られている風景がないんです。

 これを一とすりゃ、そりゃ余計ことです。
 一心生じようが、生じまいが万法に咎のあろうはずがない。
 これをこうと知らなあいかんのです。
 知ってはじめて使えるんです。ただじゃあただが手に入らぬ、手つかずの法。
 お話にならんこと四の五のいったって、そりゃなんにもならん、
バカに付ける薬じゃない、バカそのものの問題だ。

 バカじゃない、利口だという、だからそうやって二見にわたらないんです、
バカっていえばバカっきり、リコウっていえばリコウっきり、リコウっきりになれば
な-んにもない、もとそんなこという必要がないんです、そりゃそうだ、まったく
だといっていて、あるときバカとやる、また際限もなくおっぱじまる。
あっはっはバカかあってやつです。
 いじましく自分を見つめている目、見つめられていり自分、どこまでいってもです、
ないものをあると思い込む、解決がない、無間地獄の住人。
 それ免れりゃこ-んな嬉しいことない、天にも上る心地じゃない、天地即自分。
自分というものなしのものみなこっきり。もとの平地です。