とある音楽教師のつれづれ

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⑧ 二度の危機を味わったジャズ(世界恐慌と第二次世界大戦)

 

 1924年、ルイ・アームストロングがニューヨークのヘンダーソン楽団に入団したことによって、ジャズがニューヨークに伝わりました。当時のニューヨークの楽団は、ニューオーリンズやシカゴのようなコンボの編成(少人数の編成)ではなく、10数名からなる比較的人数が多いバンドが主流でした。こうしたことから、ニューヨークでのジャズバンドはビッグバンドと呼ばれるようになります。

 

 また、1920年代は、フォードのTモデルの車が一台290ドル程度で購入できるようになったり、ラジオ局が次々と開局したり、また、空前の株ブームもあり、未曽有の大繁栄を迎えていました。こうした経済的繁栄は当然、夜のショービジネスにも還元され、ビッグバンドの人数は多くなり、また演出は派手になって観客を楽しませていきました。

1929年のあの日までは・・・。

 

 1929年、10月24日、ゼネラルモーターズの株が大暴落します。大暴落によって、アメリカはその後10数年にわたって大不況が続くことになります。不況ということは、会社の利益がなくなり、ついで、国民に仕事がなくなり、国民の所持金が大幅に減ってしまうということです。そうなると、消費が停滞してしまい、豊かな時代を象徴するショービジネスの世界は瞬く間に消え去っていくこととなりました。

 

 そもそもこの大恐慌とはいったい何だったのでしょう。大きな原因となったのが、「株」です。

 

 株というのは、こんな感じです。あなたがA社の株を持っているとします。A社の製品がめちゃめちゃ売れて利益がぐん上がるとします。A社は株を買ってくれた人たちに、株を買ってくれたお礼として利益を還元、A社の株の値打ちが100円だったものが300円となり、株を持っている人たちは、何もしなくてもお金が増えていく、ということになります。

 「株を購入さえすれば、何もしなくてもお金が増えていく・・・」、こんな夢のようなストーリーが現実のものとしてアメリカ市民に受け入れられていきました。

 

 この株の売買は1920年代に大流行しました。というのも、この頃、信用払いという今のカード払いのような、「今買って後で払う」というシステムが構築されたため、「今、株を買って、株でもうけたら後で払えばいい」という考えが広まっていったのです。こうして、株への投資は、プロの投資家だけではなく、素人のポーターや靴磨きまで、一般市民を巻き込んでどんどん膨れ上がっていきます。

 

 こうした状況にプロの投資家たちは危機感を抱いていました。そもそも企業がそこまで順調に利益を得られ続けることができるのでしょうか? 実態にそぐわない株の投資の急拡大は、やがて株の大暴落につながるのではないのでしょうか? こうした危機感から、一部の投資家が値打ちのあるうちに株を売って現金化していきます(株が信用できないから現金にしたほうがいい)。こうして、どんどん現金化されることによって、株の価値が下がり(信用できない)、多くの銘柄の株が大暴落、価値のあった株証券がただの紙切れへと変わっていきました・・・

 

 さらにさらに、

 この時代は自由放任主義といって、政治が経済に介入することはなく、経済活動の成功・失敗は本人の自己責任でした。また、連邦政府・州政府のような組織は失業保険や生活保護のような策を講じておらず、あったとしても民間の保険会社によるものであったため、国民全加入という状態ではありませんでした。となると、現金をもっていた大金持ちは別として、株を財産として蓄えていた資産家は一気に一文無しとなっていくわけです。こうして、街は失業者であふれ、自殺者が増えていくことになりました。

 ホテルにチェックインする際に「宿泊ですか、飛び降りですか」と聞かれたのも、あながち嘘には聞こえませんね。また、映画「タイタニック」では、ローズの婚約者であるホックリーが世界恐慌でピストル自殺したと語られていますね。
 

 こんな状況でしたから、楽団員に給与を支払えないホールは楽団員を解雇、店もつぶれていきます。またレコードは売れないどころか録音すらできません。力のないミュージシャンは楽器を売って他の仕事を探すことになります(仕事なんて見つからないのですが・・・)。 こんな具合で、ニューヨークのマンハッタンのショーは6軒にまで激減、力のあるルイ・アームストロングやデューク・エリントンはヨーロッパで演奏活動を行います。

 

 世界恐慌の年に就任したフーヴァー大統領は、この恐慌に対し策をとることができませんでした。おろおろするばかりで、失業者はどんどん膨れ上がり、市民は配給による食事を得るだけでした。ニューヨークにあるセントラルパークでは、仮設の小屋が建てられましたが、この小屋はフーヴァー村といわれ揶揄されました。

 

 フーヴァー大統領に代わって就任したのが、ルーズヴェルト大統領です。ルーズヴェルトといえば、ワシントン、リンカーンに並ぶアメリカ三大大統領の一人ですが、彼はニューディール政策といって、公共事業を増やし仕事をどんどん増やすとともに、それまで極端に脆弱だった社会保険制度の改革にも乗り出していきます。この政策が功を奏し、緩やかではありますが、アメリカの経済が少しずつ回復していきます。

 

 世界大恐慌から5年後の1934年、"Let's dance"というラジオ番組にベニー・グッドマン楽団がレギュラー出演、不景気の嫌な雰囲気を吹き飛ばすかのように、スウィング感の強いビッグバンド音楽がアメリカ全土に放送されました。この音楽は、ソロの即興演奏を交えたビッグバンドによる音楽で、しかもアフリカ系ではなくヨーロッパ系のミュージシャンということで、アメリカを新しい方向に導く、新しい音楽という期待感を込め、スウィング・ミュージックと呼ばれるようになりました。

 

 ベニー・グッドマンの登場によって、スウィング・ミュージックは国民的音楽となり、他の楽団もスウィング系の音楽を模倣、それまでダンス音楽と言えば、「ストリングス系(弦楽器系)のスウィートな音楽」という価値観を完全に変えてしまいました。また、ビッグバンドはビーン・クロスビー、フランク・シナトラ、ルディ・ヴァリーなど専属の歌手を置くことで、楽団を華やかにしました。こうして、第二次世界大戦まで、スウィング・ミュージックが大流行します。

 

 1941年、日本が真珠湾を攻撃するとアメリカが第二次世界大戦に参戦、ジャズミュージシャンにとってまたも試練が訪れます。

 

 第二次世界大戦は、軍事産業を発達させました。その結果として、全体的に景気はよくなるのですが、音楽界についていえば、レコードプレイヤーやラジオの電子部品が軍事部品に回され、またレコードの原材料セラックを日本が占領していたシンガポールから輸入していたため、レコードが作れなくなるという状態に陥りました。こうして1942年にはレコード禁止令が出され、その後2年間は新規の録音ができず、さらには楽器の製造も禁止となってしまいました。 

 こうして、1930年代中旬以降に流行していたビッグバンド音楽は縮小化していき、ジャズは再びコンボの編成へと向かっていったのでした。
 

⑨ ヨーロッパ系(白人)楽団が演奏するスウィング系の音楽は、スウィングミュージックと言われた。(スウィングジャズではないよ)

 

 1934年に全米に知られることとなったベニー・グッドマンですが、彼のスタイルは「スウィング・ミュージック」と呼ばれました。この名称は、ミュージシャンが付けたというよりは、ラジオやレコード会社の関係者等、メディアが勝手につけたものです。そして、彼らはヨーロッパ系アメリ人(白人)でしたから、「この新しい音楽をヨーロッパ系アメリカ人が新しく生み出したものにしたい」とか、「危険なアフリカ系の香りがする「ジャズ」という言葉を無くして市場に売り出したい」という思いもあって、「ジャズ」という言葉を使用せず、「スウィング・ミュージック」と名付けて売り出します。

 現在では、スウィング・ジャズという呼び名が広く知られていますが、この時代のヨーロッパ系楽団によるスウィング系音楽は、厳密にいえば「スウィング・ジャズ」ではなく「スウィング・ミュージック」と一線を画して呼ばれるべきであると考えます。

 

 ということで、3回にわたってビッグバンドジャズとスウィングミュージックについてのべさせていただきました。

 

 長々とありがとうございました。

 

ジャズってなぁに? 第1回「ニューオーリンズジャズとディキシーランドジャズ」 | とある音楽教師のつれづれ (ameblo.jp)

 

ジャズってなぁに? 第2回「ジャズはどうやって始まったの?」 | とある音楽教師のつれづれ (ameblo.jp)

 

ジャズってなぁに? 第3回 「シカゴジャズ」 | とある音楽教師のつれづれ (ameblo.jp)

 

ジャズってなぁに? 第4回「ビッグバンドジャズとスウィングミュージック①」 | とある音楽教師のつれづれ (ameblo.jp)

 

ジャズってなぁに? 第5回「ビッグバンドジャズとスウィングミュージック」② | とある音楽教師のつれづれ (ameblo.jp)

 

 

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