歴史の研究をするためには、何が必要でしょうか。

出発点は歴史小説でも良いのかも知れませんが、歴史小説は結局のところフィクションです。もちろん、その中にはノンフィクションの部分も含まれていると思われますが、どこからがフィクションで、どこまでがノンフィクションなのかは読んで判別できません。

そうすると、やはり、原典を読むということがどうしても必要になってくると思います。

 

原点というのは、例えば、織田信長であれば「信長公記」、武田信玄であれば「甲陽軍鑑」といった文献のことですね。

 

ですが、地方の歴史や郷土史を研究しようと思った場合、なかなかそのような有名な原典というのが存在しないことが多いと思います。

そんなときに頼りになるのが市町村が刊行している「〇〇○史」という書籍ですね。私は松本市在住なので「松本市史」です。

もちろん、これに書かれていることを鵜呑みにするだけでは面白くありません。ですが、このような書籍には必ず出典が記載されていて、何を参照して、これを書いたのかが分かるんですね。そうしたら、今度はその出典に目を通してみることになります。

出典といっても2種類あります。1つはすでに活字化された出典です。もう一つは活字化されていない出典です。

出典の中には、活字化された出典しかなく、活字化されていない出典が失われてしまっているものもあれば、活字化されていない出典が残っているものもあります。

 

話は変わりますが、先日「松本市文書館活用講座」というセミナーに参加してきました。参加者は7〜8名だったでしょうか。

博物館とか歴史館といった施設は全国いたるところにありますが、文書館というのは珍しいですね。国立公文書館というのは知っていますが・・・。

ここでは、松本市内外の個人の住宅から発見された文書の寄託を受け、コツコツと整理を続けているんだそうです。実際に収蔵庫の中も見せてもらいました。当然ながら、これらはすべて活字化されていない出典です。何が書いてあるのか、もしかしたら誰も知らない、宝の山のようなもんですね。

ですが、一つ大きな問題があります。素人にはまず読めない、ということです。

江戸時代はもちろん、明治期に至っても、先人たちは毛筆を用いていました。そして、丁寧な楷書体であれば読めるんですが、かなり大胆なくずし字になっているため、それなりの知識・経験がないと読めないのです。

 

私も数年前より、くずし字を読む、ということに挑戦してきているのですが、始めては三日坊主、を繰り返してきました。少しずつですが、前進はしてきたのですが、最近になって、とても良い参考書を見つけました。

著者は油井宏子さんという方で、この本以外にもたくさん出されています。

大体のくずし字解説の本は、これはこう読みます、この字はよく出てきますので、覚えてください、というものなんですが、この油井さんの本はドリル形式というか、読む練習というものを意識して書かれていると思います。

4月くらいに図書館で発見し、何冊か借りて読みましたが、読みやすく、かつ、練習にもなり、一気に読める範囲が増えたと思います。

先日の活用講座でも、実際の古文書を展示して見せてくれていたのですが、パッと見て分かる文字やフレーズがたくさんありました。まだまだ、古文書を読むというところまで行けていませんが、かなり近づいてきたなぁという実感がありました。

 

もしみなさんの中に古文書を読んで見たいという方がいらっしゃったら、油井宏子さんの著書をお勧めします。

 

今日はこれくらいで。

本日、安曇野市明科にある塔原城(とうのはらじょう)に登城してきました。(案内板では「塔ノ原城」となっています。)

JR明科駅より徒歩で30〜40分でしょうか。山登りですけどね。

 

 

山城の遺構ですから、当然のことながら建物は何もなく、堀切や土塁などの土木工事の結果が残っているだけです。

 

案内板によれば、この城を拠点としていた塔原氏について、「武田氏滅亡後、松本へ帰った小笠原氏との争いとなり天正十一年(一五八三)松本城で誘殺され塔原氏は滅亡します。」とあります。

 

ですが、前回紹介した「信府統記」の第一にはこの辺りの記述は全くありません。

今回、登城の参考にした吉川弘文館「甲信越の名城を歩く 長野編」によれば、塔原氏が小笠原氏に反逆(上杉氏に通じた)したためとしていますが、現代書館「松本藩」によれば当時の当主であった小笠原貞慶が「武田氏に走った逆心行為を根に持った貞慶の直情的な性向によるもの」とし、小笠原貞慶は「非人情的」と評されています。(小笠原氏は以前武田信玄に信濃から追い出されていますから、当時の家臣の中には武田信玄に降参せざるを得なかった場合も多かったに違いありません。)

 

このあたり、塔原氏がこの時期に滅亡したことは事実のようで、そうなった原因は何かというのが議論になっているわけですが、そもそも塔原氏の滅亡が原典でどのように記載されているのか、私自身、確認していませんので、今後の課題としたいと思います。

 

今回は塔原城訪城記ということでご容赦ください。

 

次の写真は、本丸(Ⅰ郭)と尾根筋を断ち切る堀切です。右側が本丸側、左側が山頂から下りてくる尾根です。

堀切とは、もともと平坦だったところを掘って溝にして、尾根伝いに攻め込まれないようにする防御施設です。

 

次の写真、奥に見える、少し盛り上がっているのが土塁の残骸です。本丸(Ⅰ郭)を北側から見ています。堀切を作るときに掘った土を盛り上げて堤防状にするわけです。それが土塁です。

 

私自身、山城巡りを始めてようやく2年。天守閣のある城もいいですが、何もない山城を見て想像を働かせて見ませんか。いい汗をかけますよ。

何もないどころか誰もいません。本日15時頃、松本城は天守に登るまで120分待ちとのことでしたが、この塔原城では誰にも会いませんでした。ですが、道らしきものがあるってことは来ている人もいるってことです。

 

今、私の目の前に「新編信濃史料叢書第五卷」があります。

この中に、信府統記の卷一から卷十六までが収められています。残念ながら、活字本です。

 

信府統記は享保九年(概ね1724年)に書き上げられたと見られますが、その原本は不明であり、また主な写本とされる戸田家写本、朽木文庫本は所在不明となっています。また、肉筆本としては「寛政八辰年 写之」を記した写本があります(長野県立図書館のアーカイブで見ることができます)。活字本としては1884年(明治17年)の吟天社本があり(これは国立国会図書館のアーカイブで見ることができます)、これを基に新編信濃史料叢書第五卷と第六卷に信府統記が成り立っているものと思われます。

 

当面は手元にある「新編信濃史料叢書第五卷」および「新編信濃史料叢書第六卷」に収録されている「信府統記」を基に内容を紹介していきたいと考えます。

 

卷第一は「松本城開起」「松本ヨリ近国江道程並当国中諸城下方角・道程・領地境等大都」からなります。

 

そのうち、「松本城開起」においては、今の松本城がいかなる過程で成立したかが、中央の政治情勢に対応するように記されており、非常に興味深いものがあります。松本市街の成立に限って、主な記載を整理してみます。

 

・天正十年(概ね1582年)

 「其後深志ヲ改メテ松本ノ城ト号シ、大二普請ヲ行フ」とあります。

 ですが、正確には、天正十年の記述の後に、わざわざ段落を変えてこの記載があり、次の記述は天正十三年であるため、「松本」と号したのは必ずしも天正十年とは言い切れないと思われます。

 

・天正十三年(概ね1585年)

 同十五年(概ね1587年)までに「市辻・泥町(今の柳町付近・市役所付近を指します)辺ノ町家残ラズ本町江引移シ、東町・中町ヲ割リ、(中略)安原町ト改メ、(中略)伊勢町ト名ツケ」とあります。

 

・文禄二年(概ね1593年)

 「天守ヲ建、惣堀ヲサライ」とありますから、松本城天守はこの時の創建と考えることができます。「渡リ矢倉ヲ築キ」ともありますので、乾の小天守をもこの年の創建でしょうか。「黒門・太鼓門ノ門楼ヲ立」ともあります。「三ノ曲輪ノ大城戸五ケ所共二門楼ヲ造ル」とありますから、大手門を含めた城内への入り口が整備されたと思われます。

 

 まだまだ記載したいことはありますが、松本の町割が大きく変更されていないことを考えた時に、16世紀終盤に形造られた街並みがいまだに機能していることを考えると驚嘆せざるを得ません。

 

 このようなことを読み解くことができるということを鑑みると、原典に当たる、ということはとても大切なことと思います。

 私はまだ、古文書を読める水準にありませんが、こちらの読解にもエネルギーを使っていきたいと思います。

 

 感謝

おととい(9/16)午前、佐賀城の前に吉野ヶ里に登城してきました。

吉野ヶ里といえば弥生時代の環濠集落の遺跡なんですが、日本100名城に選定されていてお城でもあるわけです。


そもそも私の年代は、吉野ヶ里も三内丸山も学校では習っていません。どちらも1980年代後半以降に調査が始められ、遺跡があるということはわかっていたものの、発掘してみたら予想をはるかに超えた規模のものが出てきたということのようです。


環濠集落ですから堀で囲まれてるわけですが、その堀がこれです。左方向が集落の外側、右方向が内側です。たしかに立派な城です。


南内郭です。政治の中心だったとのことです。これ以外に、北内郭があり、祭祀の中心とされています。

展示全体として、何となく、吉野ヶ里=邪馬台国という関係をイメージづけようという意図が感じられますが、そこはさておき、吉野ヶ里がこの周辺における中心都市であったことは間違いないものと思われます。


ちょうど彼岸花が見頃でした。
昨日(9/16)午後、佐賀城に登城してきました。
佐賀といえば、薩長土肥のうちの肥前佐賀藩、上野の彰義隊に立ち向かったアームストロング砲の自作、志士というよりは技術者集団といったイメージがあります。


芸術的とも思える本丸南西隅櫓台ですが、石垣よりも土塁が多く用いられています。


平成16年に(一部ではありますが)復元された本丸御殿。


ここはなんと、無料で見学ができます。
天守よりも本丸御殿の復元を先に実行するというのは鍋島閑叟公にあやかったのでしょうか。


閑叟公が再建した本丸御殿と同時期に建てられたのが、この鯱の門です。鯱の門は佐賀の乱での焼失を免れて現存しています。(門扉は銃痕だらけです。)

展示を見る限り、佐賀藩が志士というよりは技術者集団というイメージになるのは、やはり鍋島閑叟公による上からの改革、教育の成果なんだろうかと考えさせられました。薩摩における島津斉彬公と同じですね。


佐賀城址の南東に水ヶ江城があるのですが、その隣に官軍墓地があります。すなわち、佐賀の乱で官軍兵士として戦い戦士された方々の墓です。
手を合わせてきました。

昨日(9/15)、唐津城に登城してきました。


残念ながら、この天守は昭和41年に建設された観光目的の模擬天守です。
そもそも唐津城に天守があったという記録はなく、正保年間(1645〜1648)に描かれた絵図にも天守は描かれていないとのことです。


一説には、唐津城を築城した寺沢広高は、当時不要となっていた名護屋城の天守を移築しようと考えていたとか。(寺沢広高は名護屋城の普請奉行でもあり思い入れもあったのでしょう。)
ですが、関ヶ原の合戦後の政治情勢の中、豊臣秀吉が作った城を移築するなどは難しかったに相違ありません。


天守最上階から見た虹の松原です。

この前後に城下を散策しましたが、当時の町割りがよく残っており、江戸時代のおもかげを感じることができました。

城巡りをしていて、ここは結構大切な点だなと思うようになりました。
市街化の過程で石垣や堀などの構造物が徹底的に破壊されてしまった城下町もあれば、不思議と破壊されずに残っている城下町もあります。
ですが、残っているところに限って、地元のみなさんがその価値に気づいていないように思います。

ちなみに私が宿泊したビジネスホテルは堀を埋め立てた場所でした。


今朝一番で、小雨がパラつく中、福岡城に登城してきました。


地下鉄、大濠公園駅から少し歩くと、潮見櫓、下之橋御門が見えてきます。


近づくとこんな感じです。この潮見櫓は、本丸内にあった櫓が、二度ほど移築されていまこの場所にあるのだそうです。

この門から入ったところが三ノ丸、平和台陸上競技場やラグビー場、テニスコートなどのスポーツ施設が集中しています。平和台球場も以前ここにありました。


裏御門から見た天守台です。
福岡城にかつて天守があったかどうかについては議論になっているそうです。こんな城は珍しいと思います。


二ノ丸から三ノ丸に抜けるところにある東御門跡です。
この後、鴻臚館展示館で100名城スタンプをGETです。
昨日の夜から東京に来ています。
今朝、品川台場に登城してきました。ここは今年の4/6(城の日)以来です。


レインボーブリッジの手前が公園として整備されている第三台場、左側奥に第六台場が見えています。


石垣はこんな感じです。


石垣の上から中を見たところですね。大砲の位置が外から見えないように、中の方が低くなっています。


第三台場の西にある第六台場です。レインボーブリッジのすぐ近くにありますね。ここは現在立入禁止と聞いています。


台場内部にある施設です。溶鉱炉でしょうか、砲弾を作るためのものかも知れません。


これも台場内部の施設です。陣屋跡でしょうか。

溶鉱炉跡にしても、陣屋跡にしても、攻撃されにくいように、石垣の近くに、かつ、南からの攻撃、西からの攻撃に備えて、台場の南あるいは西に寄せて作られているのがわかります。


最後は、第三台場から見たフジテレビです。

今日は暑さも控えめで、秋の気配が十分に感じられる日となりそうです。
おはようございます。

今日午前、人間ドックを受診します。というわけで朝食抜き、コーヒーを飲む☕️わけにもいかず、手持ち無沙汰もあって、朝の松本城を見てきました。

あえて逆光にしたんですよ。
こんな写真、投稿する人はそうはいないでしょうからね。

受付が始まったようです。
去年の受診時より、5キロほど減量に成功して臨みます。

いってきます。

今回は松本城下の東西の範囲です。

信府統記第二十三には次のようにあります。
「西伊勢町木戸口ヨリ中町通餌差町十王堂マテ町間都テ十一町拾一間一尺」
何度も出てきていますが、1町=109.09メートル、1間=1.81メートル、1尺=0.30メートルですから、1,220メートルとなります。
これを地図上で測ってみますと、直線距離で1.26キロですので、これはほぼあっている感じでしょうか。

逆に言うと、伊勢町より西にある巾上や渚は松本城外ですし、餌指町より東にある清水も松本城外となります。
東西は意外と狭かったとも言えるでしょう。

次回は伊勢町西の境界について説明します。