安政の大獄は凄まじい「反幕府、反日米修好通商条約への弾圧」とあります。

しかし、死罪に処されたのは8人。また獄死は6人。

安政5年(1858年)6月19日、日米修好通商条約調印。

吉田松陰は、安政6年(1859年)10月5日に取り調べが始まり、10月27日に斬首刑にて終生。(満29歳)

緊張は首の筋肉を硬くするらしいのですが、松陰先生の場合は「とてもすっぱり斬れた」と首切り役人が申されていたと聞きます。




江戸幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。


吉田松陰………長州毛利大膳家臣、斬罪
橋本左内………越前松平慶永家臣、斬罪
頼三樹三郎……京都町儒者、斬罪
安島帯刀………水戸藩家老、切腹
鵜飼吉左衛門…水戸藩家臣、斬罪
鵜飼幸吉………水戸藩家臣、獄門(梟首、晒し首)
茅根伊予之介…水戸藩士、斬罪
飯泉喜内………元土浦藩士・三条家家来、斬罪

梅田雲浜………小浜藩士、獄死
日下部伊三治…薩摩藩士、獄死
藤井尚弼………西園寺家家臣、獄死
信海……………僧侶、月照の弟、獄死
近藤正慎………清水寺成就院坊、獄死
中井数馬………与力、獄死


死罪にならなかった人たち

隠居・謹慎
一橋慶喜………一橋徳川家当主(徳川慶喜)
徳川慶篤………水戸藩主(9月30日に免除)
徳川慶勝………尾張藩主
松平春嶽………福井藩主
伊達宗城………宇和島藩主
山内容堂………土佐藩主
堀田正睦………佐倉藩主
太田資始………前掛川藩主
川路聖謨………江戸城西丸留守居
大久保忠寛……江戸城西丸留守居
中山信宝………水戸藩家老(9月27日に免除)
松平忠固………上田藩主
本郷泰固………川成島藩主・若年寄(1万石から5千石へ減封、川成島藩は消滅)
土岐頼旨………大目付・海防掛
石河政平………一橋徳川家家老


隠居・差控
鵜殿鳩翁………駿府奉行
浅野長祚………小普請奉行


御役御免・差控
板倉勝静………備中松山藩主
平岡円四郎……一橋徳川家家臣
黒川雅敬………一橋徳川家家臣
佐々木顕発……勘定奉行
高須鉄次郎……外国奉行支配調役


永蟄居
徳川斉昭………前水戸藩主
岩瀬忠震………作事奉行
永井尚志………軍艦奉行


譴責
松平頼胤………高松藩主
松平頼誠………守山藩主
松平頼縄………常陸府中藩主


甲府勝手

甲府勤番への左遷
平山敬忠………書物奉行
木村勝教………評定所組頭


遠島
鮎沢伊太夫……水戸藩士
小林良典………鷹司家家臣、獄死
六物空満………大覚寺門跡家士、獄死
日下部裕之進…薩摩藩士・日下部伊三治の子、獄死
勝野森之助……旗本家来・勝野正道の子
茅根熊太郎……茅根伊予之介の子
太宰八郎………松平信古家臣


重追放
吉見左膳………宇和島藩家老、伊能友鴎に改名


中追放
池内大学………儒者
近藤茂左衛門…信濃国松本町大名主
丹羽正庸………三条家家臣
森寺常邦………三条家家臣
三国大学………鷹司家家臣
伊丹重賢………青蓮院宮家臣、通称蔵人
入江則賢………一条家家臣
藤森恭助………古賀謹一郎家臣
とき……………宝寿院修験者


所払
宇喜多一蕙……画家、所払中病死
宇喜多松庵……画家
蒲市正…………二条家家臣


永押込
鮎沢力之進……鮎沢伊太夫の子
鮎沢大蔵………鮎沢伊太夫の子
山科正恒………御倉小舎人
春日仲襄………久我家家臣
森寺常安………三条家家臣
長谷川宗右衛門…高松藩士
長谷川速水……長谷川宗右衛門の子
山国喜八郎……水戸藩士
海保帆平………水戸藩士
加藤木賞三……水戸藩士


国許永押込
横山湖山………松平信古家臣
菅野狷介………姫路藩士
大郷巻蔵………鯖江藩士
林某……………鯖江藩士
小南五郎………土佐藩士
大山綱良………薩摩藩士
大久保要………土浦藩士、幽閉中病死
舟橋亘理………関宿藩士


押込
津崎矩子………近衛家家臣(9月28日に免除)
飯田忠彦………有栖川宮家臣
豊島泰盛………有栖川宮家臣
高橋俊璹…………鷹司家家臣
山田時章………青蓮院宮家臣
富田織部………三条家家臣
大沼又三郎……下田奉行手付出役
飯泉春堂………飯泉喜内の養子
大竹儀兵衛……水戸藩士
岩本常助………幕臣
藤田忠蔵………幕臣
筧承三…………岡部豊常家臣
勝野保三郎……勝野正道の弟
勝野ちか………勝野正道の妻
勝野ゆう………勝野正道の娘
三木源八………水戸藩士
荻信之介………水戸藩士
菊池為三郎……水戸藩士


急度叱り置き
山本とよ………山本貞一郎の妻
山本さい………山本貞一郎の娘
山本うめ………山本貞一郎の娘


手鎖
伊十郎…………江戸小網町名主
源助……………江戸神田町の町人
源左衛門………信濃国松本町の町人


その他
若松永福………三条家家臣、洛中洛外江戸構い(追放)
世古恪太郎……伊勢松坂の酒造屋であり、紀州徳川家の御用達を務めた豪商の息子。江戸構い(追放)、紀伊殿領分所払い


捕縛前に死去
梁川星巌………漢詩人
月照……………僧侶
山本貞一郎……浪人(旗本・近藤石見守陪臣)
勝野正道………陪臣


朝廷への処分
尊融入道親王……青蓮院門主、隠居・慎・永蟄居
一条忠香…………内大臣、慎十日
近衛忠煕…………左大臣、辞官・落飾
鷹司輔煕…………右大臣、辞官・落飾・慎
鷹司政通…………前関白、隠居・落飾・慎
三条実万…………前内大臣、隠居・落飾・慎
二条斉敬…………権大納言、慎十日
近衛忠房…………権大納言、慎
広橋光成…………前権大納言、慎
万里小路正房……前権大納言、慎三十日
正親町三条実愛…権中納言、慎十日
久我建通…………右大将、慎


松下村塾
1857年(安政4年)に藩校明倫館の塾頭を務めた吉田松陰がこれを引き継ぎ、1858年(安政5年)に松陰が野山獄に再投獄され廃止された。

短期間しか存続しなかったが、尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出した。塾生名簿は現存しないが、塾生は約50名ほどいた。著名な門下生には、尊王攘夷、倒幕の全国志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎、この人々の死んだ後を受けて藩論を倒幕にまとめ、征長の幕府軍を打ち破った高杉晋作がいた。高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた。また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された。

これら直門の高弟の衣鉢を継いで、末弟子の伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵らが、明治政府の最高指導者を担った。他の門下生には、萩の乱を起こした前原一誠や飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、宍戸璣(山県半蔵)らがいる。

桂小五郎(後の木戸孝允)は塾生ではないものの、明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けている。井上馨はよく松下村塾の塾生と間違えられることが多いが、高杉・久坂らと関わりは深いものの松陰の教えを直接うけたことは無い。



安政5年(1858年)6月19日、日米修好通商条約調印。

吉田松陰は激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。

その後、安政の大獄で、江戸に檻送される。

吉田松陰は、安政6年(1859年)10月5日に取り調べが始まり、10月27日に斬首刑にて終生。(満29歳)


日米修好通商条約
第5条
外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用する。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。
取引は日本通貨、外国通貨どちらでも行うことができる。
日本人が外国通貨になれていないため、開港後1年の間は原則として日本の通貨で取引を行う(従って両替を認める)
日本貨幣は銅銭を除き輸出することができる。外国の通貨も輸出可能である。
=>幕末の通貨問題

1859年6月30日(安政6年6月1日)より、量目がほぼ1ドル銀貨の半分の貿易専用の通貨である安政二朱銀(一分=四朱)と、天保小判の量目の4/5倍に低下させた安政小判を発行し、これにより1ドル=一分に誘導し、かつ金銀比価を国際水準に対しやや金高に設定された17.2:1に是正しようと試みた。開港場では7月1日(6月2日)より1ドル銀貨との引き換えが始まったが、この二朱銀は開港場のみでしか通用せず、交換された貨幣が日本国内において一般に流通するものではなく、かつ1ドル銀貨の日本国内での購買力を1/3に低下させるというこの政策にハリスおよびオールコックら外国人領事は条約違反であると強く抗議し、7月21日(6月22日)、結局幕府は1ドル銀貨を一分銀3枚で引き換えるよう開港場奉行に申し渡し翌日に通用が停止された。したがって安政二朱銀の通用は僅か22日間で終わり、安政小判についても4ヶ月足らずで鋳造停止となるに至った。一方、小判入手を目的とする洋銀の一分銀への両替要求は一日16000枚にも上る。

幕末の金流失

一分銀12枚をアメリカのメキシコドル(銀貨)4枚ですから、5333ドルが3倍の16000ドルになった。1日で。日本から見れば10667ドル分の金貨(正貨)が流失したと計算できます。