金保有量 (1903年 日露戦争勃発の前年から金解禁直前まで)

日清戦争の賠償で受けた金が元になり日本は金本位制になれたんです。

当たっても当らなくても納得する馬券-gold_~1929

金解禁後はあまりにも流出が激しくデータにならない。
直前で約11億8000万円の金地金があった。

アメリカは金ドル交換を停止していたことから、金解禁直前より投機筋の思惑買いによる円買いドル売りが行われ、解禁後の恐慌の深刻化に伴って貿易の決済資金確保のための需要が加わり、さらに金への兌換と正貨の海外移送が行われるようになった。このため、わずか半年間で2億3000万円もの金と正貨が国外に流れ、元から日本国外に保有していたものの流出分を加えると、2億8500万円もの金と正貨が失われてしまったのである。

1931年に入ると混乱はドル買い事件に進んでいく。
長期にわたる低金利と取引先の破綻の影響で、経営危機に陥る中小銀行が相次いだ。大手銀行は余剰資金の投資先を求めて、「為替統制売り」を利用してドルを手に入れた上で外債などに投資を行い始めた。
5月8日、オーストリアのクレジット・アンシュタットが破綻しこれをきっかけにヨーロッパの金融市場は大混乱に陥いる。
日本の大手銀行は、ヨーロッパ市場における外貨調達に困難を感じるようになり、「為替統制売り」を利用したドル買いと海外支店への送金、政府も為替相場の安定のために正貨の現送を強めた。この一連の動きは、為替相場を一気に円安に転じさせる大きな可能性を秘めていた。これに気づいた大手銀行や投機筋は、為替差益による利潤を狙った投機目的のためのドル買いを画策し始める。
9月21日には、井上が一縷の望みを託していたイギリスも金輸出を禁止して金本位制から離脱した。井上財政の根幹である緊縮財政と金本位制維持の根拠が崩れたと見た大手銀行や投機筋は、一斉にドル買いに殺到した。このため、9月末までの10日間で2億4,700万円のドル為替が買われ、その結果、金解禁以来の正貨流出は6億5,000万円にも達した。その一方で、日本国内の正貨が急速に減少し、深刻なデフレの様相を見せ始めた。
10月15日には、貿易決済の立証できないドル買いを全面禁止したが、その頃にはなお2億6000万円以上のドル買いが行われて、1ヶ月で5億円以上の金が買い占められる結果に至った

*6億5000万円 + 5億円 = 11億5000万円 ....もう帳簿上は金、正貨がない!

wikiによると
1932年(昭和7年)1月末の正貨準備は4億3055万円(金貨2億2861万円、金地金2億194万円)と激減した。となってます。

ここで競馬ネタ。
1932年4月27日は初回の日本ダービーが開催されます。歴史・時代とはこういう皮肉なものなのですね。庶民は金流出とは関係ないとも言い難いのですが。

東京卸売物価指数

当たっても当らなくても納得する馬券-cpi_~1941

金・正貨という当時の原資がない日本。もう何もできないとしょぼくれる財務省や日銀。
高橋是清守護神は、ケインズ先生よりも前に実際に国民経済を立て直すにはどうしたらよいか、を熟知しており、実行しました。不況・デフレを見事に離脱して行きます。

二二六事件、廣田内閣発足前まではインフレは進んでおらず、国民経済がまさに「再膨張・再拡張・リフレーション」しているのが明確にわかります。
でも、これは高橋是清が緊縮財政(軍事費を削減=>国債返済を進め市中から紙幣を吸い取る)によってインフレの懸念を潰しているからです。

二二六事件実行の若い将校たちは、この仕組みを勉強していない愚かな未熟な人たちと言わざるをえません。日本国を支えた守護神達を恨んでどうする!

しかし廣田内閣の馬場えい一蔵相は(もっと好景気にするのが意図だったのか、軍人が怖かったのかわかりませんが)高橋是清蔵相の公債漸減主義を放棄し、国防の充実と地方振興のため増税と公債増発を行うとする財政声明を出します。

省内の人事刷新にも着手し、山田龍雄を主税局長(のち逓信次官)に、また長沼弘毅を蔵相秘書官にし、人事策を練る。まず津島壽一次官を退任させたほか、軍部と強硬に渡り合ってきた賀屋興宣主計局長を理財局長に異動させ、石渡荘太郎主税局長を内閣調査局調査官へ、青木一男理財局長を対満事務局次長へと、それぞれ省外へ放出した。
(賀屋興宣・青木一男・石渡荘太郎は「大蔵省の三羽烏」とまで言われた人達です)

みごとにインフレが進み歯止めが効かなくなって、太平洋戦争へ突入してます。

馬場・(えい)一
1903年東京帝国大学法科大学政治科を卒業。卒業順位は、一位・小野義一(のち大蔵次官心得)、二位・小川郷太郎、三位・上杉慎吉で、馬場は四位だったが、高等文官試験に首席合格(二位に小野義一)し大蔵省に入省する。
1927年に銀行家でも実業家でもなかったが政友会の人事により日本勧業銀行総裁に就任した。1936年まで務める。在任中は特に農村金融の充実に尽力した。馬場はもともと正統的な均衡財政論者であったと言われており、井上準之助の金解禁政策も支持していたが、勧銀総裁として金解禁後の不況による農村部の疲弊をつぶさに目にし、また満州事変で国防の重要性を再認識したこともあり、重要政策については積極的に予算を投入すべきとの考えに変わっていったようである。
(ん~。「信念の人」というよりは例の「反応的な人」という印象です)

今日、これに学ぶべきことはたくさんあります。

出処:日本銀行