1 荒筋

 

 時流に抗わず、ただ流されていく人々。一見無力で取るに足らない存在に見える彼らの生き方は、泳ぐための力を温存する賢いやり方なのかも。この映画の主人公、キム一家は、文字通り社会の底辺という領域(下町の通りに面した建物の半地下)で息をひそめて生活している。キム・ギテクとチュンスクの夫婦、娘のギジョン、息子のギウという四人家族。ギウが、友達のつてを頼って、ある娘の家庭教師に収まったのをきっかけに、残りの三人も、運転手や家政婦としてその裕福な一家に取り入り、寄生(パラサイト)していく。

 

 この金持ち一家(我ながらまるで教養の感じられない言い回しだ…)は、IT分野の起業家として成功したパク・ドンイク、美しい外見と凡俗な内面を併せ持つ妻ヨンギョ、大学受験を控える高二の娘ダヘ、落ち着きがないがアートの才能を母親に見込まれてる末の息子ダソン、の四人家族。彼らに仕えていた家政婦と運転手は、゛半地下の家族゛ことキム一家に不祥事を捏造され、屋敷を追われる。貧乏人には学がないという観客の先入観に反して、キム一家は高級車の運転手、芸術療法の先生、家政婦、英語の家庭教師という役回りをそつなくこなしていく。

 

 僕は、追い出された二人が舞い戻ってきて、キム一家に反撃する、というありがちな展開を予想していた。まあ大筋はその線に沿ってるんだけど、そこは脚本家としても定評のあるポン・ジュノ、巧妙なひねりが加えてあった。

 

2 作品を貫く階層構造 (以下重要なネタバレあり)

 

 パク一家の住む二階建ての豪勢な屋敷。そこには住民も知らない地下室があり、主人公たちに屋敷を追い出された家政婦の夫が、そこで人知れず生活していた、というびっくりな展開。この夫は経営していたカステラ店がつぶれ、借金取りの目を逃れて四年以上もここに隠れているうちに、精神に異常をきたしていた。今の家主、パク・ドンイクに異常なほどの敬意を払い、彼の帰宅時に玄関の照明を手動で点けてさし上げることが生きがいのようになっている(パクたちはセンサーが反応して照明が点いていると思い込んでる)。たまに家主たちが旅行などで家を空けている時だけ、妻に手を引かれて階上に出て、屋敷の庭を眺めたり上手い食事を味わう位しか楽しみがない。

 

 監督、脚本、絵コンテまで手掛けるポン・ジュノは、二階建ての高級住宅という縦の構造に、テーマである『格差』を巧みに反映させている。これはこの映画についてよく指摘される特徴だ。パク一家がキャンプに出掛けると、その隙にキム一家が一階のリビングで酒をあおり、ごちそうを貪る。一同がちょっとした宴を楽しんでいる所に、元家政婦・ムングァンが現れ、地下に隠れていた逃亡者の存在が明らかになる。だが大雨に降られキャンプから急遽パク一家が戻ってくる。あわてて飲み食いした後を片付け、ムングァンとその夫は地下に閉じ込め、テーブルの下に隠れるキム一家の三人。パク夫妻が快適なソファーの下でセックスになだれ込む頃、降り続く大雨が町中の汚濁を運んでキム一家のアパートがある低地に流れ込んでくる。そんなことも知らず、キム達は冷たい床に仰向けになり、狭いテーブルの下に閉じ込められたまま。

 

 

 柔らかいソファ、冷たい床、地下という三つのエリアに富める者、貧しい者、逃亡者、という三つの階級が振り分けられていて印象的だった。そして高台に建つ屋敷と、海抜の低い下町に埋もれるアパートという立地上の対比も分かりやすい。縦に展開するこの社会的格差は、物語の中心的テーマになる。キム家のトイレの下水が大雨で逆流し、便器から迸しった時、便座に腰を下ろしてそれを押さえつけ、悠々と煙草を吹かすギジョンの姿は、この映画最大の名シーンかもしれない。

 

 

 豊かさの有無次第で人生が天国にも地獄にもなる。それは、世の東西や時代を問わない不変の真理なのだろうか。いや、事の本質は、富を得なければ幸せにはなれないという思い込みにあるのかもしれない。

資本主義の源流を生んだ西洋を無批判に崇めてたまつる滑稽さ。それを、ポンコツな英会話をこれ見よがしに口走る家主の妻、ヨンギョが象徴している。彼女は両親の気を引くために息子が「天然」を演じていることに気付いていない。

 

3 貧しさを、笑っていいのは当人だけ

 

 さて、最近話題になった映画で貧しい人々を描いたものには、ほかに「万引き家族」がある。が、二つの作品には一つ決定的な違いがある。子供たちが、ある程度の教育を受けているかどうかだ。「パラサイト」が、コメディーとして成立しているのは、二人の子供が比較的高いレベルの教養を身に着けてるから。何度も大学受験に失敗しているうちに習得したギウの英語やギジョンの美術の知識が、この稚拙さな発想と高度な技量で成り立つ詐欺を成立させている。また、教養は彼等の将来を明るいものにさせ得る希望でもある。貧しくとも学があれば、生活の悲壮感は軽減される。自らの窮状を客観的に眺め、そこに可笑しさを見つける…いわゆる「ユーモア」は知性があってこそ生まれるものなのだから。それがコメディーとしての笑いを支える心理的な土台となる。

 

4 本当の貧しさとは~「万引き家族」との比較

 

 一方の「万引き家族」では、幼い子供たちは小学校にすら通わせてもらえない。卑屈な薄笑いを浮かべた「父親」から、ちんけな万引きのテクニックを伝授されているだけだ。学がなければ出世はできず、先天的に生まれ持った才能やガッツに余程恵まれていない限り、将来の見通しは極めて暗い。悲壮感しかない。だから、「パラサイト」に出てくる二人の子供は、内面的にはそれ程貧しくない。人の身体が飢えるのは腹ペコな時だが、人の心が飢えるのは、生まれもった知性や感性を伸ばせない時だ。

 

その意味で「万引き家族」は悲劇でしかない。学校教育も文化的な活動とも無縁な二人のみすぼらしい子供が、大人しか歩いていない平日の街中を当てもなく彷徨う姿。空っ風に舞い散る、読み捨てられたチラシのようだ。だから見ていて辛いのだ。コメディーになどなりえない。

 

5 「貧しさ」というテーマの難しさ

 

 

 ただ、貧しさについては雄弁に語っていても、その対極にいる人々の内面にはほとんど触れていないのがこの「パラサイト」という映画だ。成功した企業家にもそれなりの悩みや苦しみはあると思うのだが、そこには一切触れてない。一般的に、ビジネスの成功者には仕事に没頭するあまり家族との関係が希薄になったり、成果を求めて部下につらく当たったり、ストレスのはけ口に立場の弱い者に当たったり、といった反動も出てくることがしばしば。だが、この物語にでてくるパク・ドンイクというキャラクターは、IT企業を切り回し、夫婦仲も良好、温厚な性格で子供たちへの面倒見もいいという、ほぼ完璧な人物。   悩みも葛藤も個性もない彼には、観る者の興味を引く要素が何もないため、観客の意識はキム一家の奮闘ぶりに集中する。

 

 だが、パク・ドンイクの理想的な成功者像は、それゆえ現実味に欠け、この物語を真剣に受け止めようとする動機を観客から奪ってもいる。映画の序盤から、底辺の人々の内面が深く掘り下げている一方、金持ちは他者の痛みに無頓着で利己的、という表面的な解釈に留まっているからだ。貧富の格差を描く上で、極めてバランスを欠いていると言わざるを得ない。

 

 この映画がただのコメディーに収まっているならそれでもいいが、そうではない。物語の終盤、格差の軋みが暴力となって弾け、ドンイクとギジョン、そして地下に隠れていたムングァンの夫という三人が者が命を落とす。富める者と貧しい者、そして逃げる者が一人ずつ犠牲になっている。観客はその責任が何処に、そして誰にあるかという疑問を抱く。ここで物語は完全にコメディーの領域を逸脱する。

 

 ドンイクを公衆の面前で刺したギデクは屋敷の地下に逃げ込み、新たな逃亡者になる。皮肉な展開だ。壁に張られたドンイクの写真を前に、涙ながらに謝罪するが、彼の非は明らかだ。ここで僕は白けた気持ちになった。なぜ家族を養うためにまともに働かなかったのか。寄生した相手を逆恨みし、包丁で刺し殺した男に共感するのは難しい。

 

 貧者の悲哀を訴えたいなら、富者の欺瞞や空虚さも伝えるべきだ。他者を踏み台にせず競争社会を勝ち抜ける成功者などめったにいない。成功して敵を増やすか、失敗して友を増やすか。富とはたいていの場合、何かを犠牲にしなければ掴み取れない。その犠牲を描いたときに初めて、貧者と富者を平等に対比でき、観客が、ギデクに刺されたドンイクの死を悼む気持ちにもなれるはずだ。

 

だがパクの人物描写が浅いため、彼が死んでも観客にとっては何処か他人事だ。そしてパクを殺したキムの罪深さも観客は実感できない。パクが血の通った人間として描かれていないからだ。彼を善人にする必要は全くない。彼が成功を手にするために何を犠牲にしたのかをきっちりと描くことが必要だったのだ。

 

6 頭のいい愚か者

 

 

 この映画の欺瞞は、観客を主人公の味方につけようとしているところ。

ギデグの娘のギジョンは美大志望、息子のギウは学費がなくとも大学受験を諦めない。二人の子供は、詐欺を行うために、身分証を偽造し、架空の履歴を緻密に創り上げ、前途有望な高学歴の若者を巧みに演じてみせる。これだけの能力とガッツがあるなら、法を犯さずに生きた方がよほど手っ取り早く成功を掴める。

 

 だが彼らは大学に行く学費欲しさに人のいい金持ちを騙すという不自然な選択をし、怠け者の両親を巻き込んでいく。このどうしようもない両親がまともに働いていれば、二人の子供はまっとうな道を歩めたはずだが、それではこの映画の企画が成立しない。だが彼らは主人公でもあるから、あまり悪どさや狡賢さばかり強調すると観客にそっぽを向かれる。だから物語の最後には、彼らをさも理不尽な運命の犠牲者のように描いて、共感を誘っている。

 

 だが、すべては自分で選んだことだ。

彼等のせいで父親を失った家庭はどうなるのか。

血に染まった指で頬の涙を拭っても、罪の証が顔に残るだけだ。