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動物は所詮動物で人間とは違って一緒にはならないという考え方がある。
確かに動物の為にも、けじめをつけて一線を引くことも必要で
幾ら可愛くても常に適当な距離を取って接することが
元気にとっても幸せなのかもしれない。
それも充分分ったうえで
寝食を共にして長年一緒に暮らしていると
たかがペットの生き死にで大騒ぎすることが理解されないかもしれない。
公園で出会う人の反応を見ても人それぞれで

喉に出来ている腫瘍が大きくなって食道を狭め
食べ物が食べにくかったみたいなので。
ペロペロと美味しそうに食べてくれるだけで
家族は嬉しいものなんです。
頑張れ元気、明日も朝を迎えような。

■長時間椅子に座ったままの姿勢が多いので腰痛はいわば職業病のようなもの。
しかし、こんな私にお構いなく犬のゲンキは散歩のときは一目散に走り出すのである。
引っ張られると私も踏ん張ることになるので腰にくる。とは言っても散歩はゲンキにとって大の楽しみで、それが分かるために私も必死で頑張るが、体力的にも元気のような大型犬を飼うのは恐らく元気が最後になりそうだ。(弱気ではなく現実は素直に認めるしかない)
元気も3歳を超えた今が一番元気だが、獣医によればアト6~7年の寿命らしい。飼い主の私もパートナーの元気も、間違いなく死に向かっているのは間違いがない。それは私達だけではなく、全てが同じ条件で進んでいるのだ。悲しい現実だが避けられない。
6年前初代の愛犬太一は娘が社会人になるのを見届けて亡くなった。小学校から変える娘のアトをついて来て、そのまま我が家の子になったが、そんな娘の成長と一緒に育ち10歳で亡くなった。
そして2年後に元気が我が家にやって来たのである。月日は流れてその娘もいつしか子供の母となった。太一が小さな娘を見守っていた様に、今度は元気が孫のよき友達になってくれている。
まだ言葉がしゃべれないよちよち歩きの孫ではあるが、やがて意思も通うようにもなるだろう。私は不思議なめぐり合わせを感じたりもする。
元気が我が家にやって来たのにもきっと訳があったのだと思うと色々と感慨深いものがある今日この頃である。

■函館産まれの我が家の愛犬"元気"は、夏の暑さにはめっぽう弱い出ようとしない。人間と違ってこのくそ暑いのに全身毛だらけでは無理ないと思うが、そんな姿をちょっと遊びでスケツチしてみた(^^ゞ愛犬との付き合いは足掛け15年ほど(先代の太一から)になるが、たとえスケツチでも描いたことは今まで一度もなかった。

■元気と孫のご対面動物好きでないと理解出来ない光景
里帰り出産の為に帰って来た娘と孫。そこにはすでに元気が居る。
とにかく大きさがあまりにも違うし、家の中を自由に動き回っているので、大丈夫かな?
小さな子供を間近で見るのも元気は初めてで、その行動が気になっていた。
ところがそんな心配は一日で消えた。
首を左右にかしげて孫を不思議そうに暫く眺めていたが、必要以上に傍に近づくこともせず、
階下で寝ている孫が起きて一声あげると、大急ぎで階段を駆け下りて様子を見に行くという『お兄さん振り』をみせる。
娘の大切な子供であることが、元気にも理解出来るのか何時もの優しい眼差しで傍にいる。
彼の目にもいたいけな子供は護らねばならないと本能的に映っているのかもしれない。
今度は孫の目に元気の姿も見え始めるだろう。はて?コレはなに?・・・ぬいぐるみかな?
どんな仕草で二人が遊ぶのだろうかと思うと楽しい。
過日家庭訪問で来られた保健師さんも、元気と孫の同居をみて『微笑ましい光景ですね』と。
動物と人間の抵抗力の無いちいさな子供と同居させることには、賛否があるかもしれないが、私はこれでよかったと思っている。
元気は名実共に我が家の家族なのだ。命の尊さという意味からも、どちらがどうと分けられるものでもない。
どうしても子供の方に意識が向くので、寂しい思いをしない様にと娘が優しく元気に話しかけると、
元気も嬉しそうにそれを聞いている。
私はそんな様々な光景を見ながら、我が家は亡くなった太一の時代から今も少しも変わっていないことを嬉しく思う。環境が変わり、みんなそれぞれに歳も年々重ねるけれども、失ってはならないものもある。
元気は元気なりに精一杯生きればそれでいいのだ。そのことを太一も見守っている。