僕がこれからの健常者と障害者、
若者・中年と高齢者の在り方や
所得の再分配を考える時に、必ず思い出すストーリーがある。

星新一の「生活維持省」というショートショートだ。

簡単なあらすじを紹介すると、
人口爆発により人が増えすぎた世界で、争いが絶えず土地の十分な確保ができなくなったため、生活維持省という公的機関が、年齢・性別等々問わず無作為に殺処分を行い、一定の人口を維持するという内容である。

話のオチは、無作為に殺処分される対象にはその殺処分を行う張本人、つまり政府の役人も含まれ、最後に相棒に殺される。

この話の中で僕が最も面白いと思う部分は、殺処分される子供の母親と政府の役人のリアクションの違いだ。

母親は子供が殺処分されることを知ると、「死神…」と呟いた後抵抗する。
それを役人は公益の為だと諭す。
母親は勿論分かっていながら、それでも家族の死が目の前に迫ると感情を抑えられなくなる。

対して役人はどういう反応をしたか。
自分が殺処分の対象と分かるや、「景気の良い場所がいいな」と運命を受け入れるのだ。

僕にはこの反応の違いが現代人と近未来人の差に見えてくる。
公益の為なら理不尽な死も受け入れる。
公益の為である以上理不尽と考えない人もいるとは思うが。
更に言うと、これはただの公益ではない。
経済的に合理的な公益だ(厳密にいうと作中の政策は、真に経済的に合理的ではないが)←これは後ほど。

経済的に合理的でないのに公益の為と称される政策は多く存在する。
例えば、年金や生ポ、採算性のないエリアにバスを走らせたり、それを税金で賄う。
勿論これは公益の定義に人の感情や道徳を含めているからだと考えれば容易に理解できる。
しかし、僕の考える公益は非常に唯物的なものだ。
何故僕がそうも感情を排して物質的な考えをするのか。
その理由は、また今度。

ところで先ほど作中の政策は真に経済的に合理的ではないと言ったが、それは作中の政策が年齢や性別等々を一切考慮せず殺処分という点である。
子供を殺すのは勿体無いし、バリバリ働き盛りの中年を殺すのも経済ではない。
ボケた老人や補助の必要な障害者をから殺してゆけばいい。
社会の構成員全員を対象とする事で国民に政策を受け入れさせるという意味もあるだろうが。

話は戻って現代人にはこの死を軽んじる意識、受け入れる度量が足りない。
死というのはもっと身近なものだ。
森羅万象のいち出来事である。
地震、雷、交通事故、終電逃し、朝のティーブレイク、人の死。
これらを同等の出来事として受け入れられる度量を身につけるべきなのだ。

そうすればより豊かな人生が送れるだろう。

P.S.
究極の二択
あなたは原始人になりたいですか?
感情のないロボットになりたいですか?