久しぶりに芸談と言うのではありませんが、菖蒲園さん(はじめさん)のLivedoor Blogの『天王寺詣り』と言う記事にインスパイアされて書きます。
◇ https://hajime-17.blog.jp/archives/2018136.html
江戸落語のらしい作品と言うのは、三遊亭圓朝や談州楼燕枝の作品の様な長講か連続物。あまり講釈と変わらぬ地の部分・ト書き語りが少なくない噺を連想します。
一方、上方落語らしい噺と言うのは、『天王寺詣り』や『野崎詣り』のような、漫才か?ッと思う賑やかさとハメ物と唄、そしてスピードとボケ・ツッコミの切れ!そんな噺を連想します。
この両者で、演者目線で見て、何が違うか?殆ど語られないのは、江戸落語は私の目から見ると三つの演じ方、演出のアプローチが有るのに対し、
上方落語は基本一通りしか無いのが、決定的な違いだと思いますし、是が東西の歴史的な咄家の数の違いに現れていて、
上方落語は漫才師の技術、ボケとツッコミを一人二役で演じ、更に言葉や口調は落語口調にしないと芸として成立しません。
この上方訛りの落語口調と言うのは、中々、身に付けるのが難しいと、私は素人のただのファンですが、脇から見ていて痛感します。
また、其れが出来ても、漫才師の方が需要は多く、演芸会、寄席では格上に扱われ、ギャラも高いと来たら、誰が落語をやる?!と、思います。
つまり、上方落語は漫才土壌の関西の演芸通に、笑いとして認められて一人前ですから、そりゃぁ、絶滅危惧種になります。
そんな上方落語に、一人の天才が現れます。其れは『桂枝雀』です。あの1980年代の漫才ブームの最中、枝雀さんだけは別格でした。
劇場やホールは、やすきよ、ザ・ぼんち、紳龍、サブ・シロ、のりお・よしお、そして明石家さんまにしか貸さない中、
枝雀師匠には、毎週劇場が独演会用の小屋を貸していて、当時、1980年に二千円の木戸銭で、三百人以上の其の小屋を満員に出来たのは枝雀さんダケでした。
一方、江戸落語は、上方落語とは求められる資質が違うと謂うかぁ、落語の構造、噺のストラクチャーが異なり、
先に申した江戸落語らしい噺は、講釈と同じで前半に根多振りをして、中盤では其れを徐々に回収。そして終盤は大団円への盛り上がりを創る。
そんな展開の噺を演じて客に聴かせられて、一人前の咄家と認められる訳ですから、全員が正攻法にアプローチしていては、
上方落語よりも、江戸落語の方が絶滅危惧種だったに違い無いのですが、其れを克服する技を開発した先駆者が現れます。
まずは、江戸落語も最初は上方落語と同様、基本は人を笑わせて何ぼ!笑い、笑わせる技術を切磋琢磨するのですが、
芝居や講釈は『喜怒哀楽』を取り入れて幅が有るじゃないの?!と、気付いた旗手が現れて、芝居や講釈と同じ土俵で闘い始めます。
此処が私が考える重要なポイントで、上方落語は漫才がライバルなのに対し、江戸落語は芝居や講釈だった様に思います。
そんな土壌、背景で江戸落語は、三遊亭圓朝、談州楼燕枝が現れ、人情噺、世話モノを積極的に落語に取り入れ始めます。
そんな時代から一世紀、百年以上が過ぎた現在、江戸落語は、独自の進化を遂げて、圓朝、燕枝が演じた本寸法だけが演じ方だけではなくなります。
此れは逆な見方をすると、ライバルである芝居と講釈は本寸法しか認めないやり方を続けた百年以上の中、落語は強かに新しい牙を研いでいた事になります。
さて、現代江戸落語の三つの技法を語る前に、上方落語とは違う、江戸落語ならではの特徴から解説して行きましょう。
三遊亭圓朝、談州楼燕枝に代表される江戸落語の本質は、前半に生立ち・根多振り等を仕込んで於いて、後半それを一気に回収し大団円へと盛り上げる展開で物語を進めます。
つまり、饅頭で言うと前半半分は説明的でアンコは少なく、逆に後半半分には謎解き、喧嘩・決闘など派手で面白くアンコがギッシリ詰まっています。
だから、下手糞が演じる前半で飽きて、後半は聴いて貰えず、一話完結なら途中で客に寝られ、連続物なら二話、三話以降客が入らなく成ります。
其処で、咄家も馬鹿では有りませんから、考えます。一番の本寸法の真正面からの対応は、兎に角、謂立て、口上、道中付け、啖呵、唄、歌舞音曲、蘊蓄などなど、芸で客を唸らせる。
話芸の本質を披露して、客を満足させに係る本寸法、王道芸人。橘家圓喬、三遊亭圓生の様な芸人です。現役で謂うと、××と◯◯。
まぁ、このタイプは稀で、××と◯◯も圓喬や圓生の足元にも及ばない芸ですが、その方向に向いて精進しているのは偉い!と思います。
次に、本寸法からは亜流に見えて、好き嫌いも客側から見ると評価が別れるのが、ハメ事で前半の所謂、ダレ場、伏線部分を繋ぎ、
客を退屈させる事なく、後半の謎解き、回収部分へと持って行き、一切、客に退屈だとは思わせないやり方です。
是は、伝統芸能・落語の冒涜であり、落語は師匠に習った通りにやるモノだ!って文化を、面白く無ければ落語じゃない!
客が求める物、客が満足する、客に理解される、其れが落語の原点だ!其れを忘れたら、能の様な末路だ!!
そう言い出した、立川談志と、落語をゼロからの発想で創り、自分の感性で楽しい物こそが真実だと落語に投影した三遊亭圓丈。
こんな鬼才二人が、足し算、掛け算的な、新しいイリュージョンな、今まで落語に混ぜた事の無いスパイスを加えて新しい落語を構築した。
そして、立川志の輔、三遊亭白鳥と謂う、独自の世界で、ダレ場を消す天才を世に送り出し、彼らを通して落語を知る新しい世代が現れます。
現に、私は『落語が聴いてみたいんです?』と謂う初体験の人に薦める場合、極普通の人には志の輔を、一寸変わり者には白鳥と決めています。
少し脇道に逸れますが、此の芝居も講釈も、そして江戸落語圓朝・燕枝の作品の様に、根多を振って、其れを回収して大団円に繋げる噺と、
上方落語の様に、ボケ・ツッコミと常に小刻みに緊張と緩和でマシンガンの様に笑いを繰り出す噺の違い、何だと思いますか?
是は、映画もドラマも、芝居、講釈、江戸落語に共通する仕掛けだと思うのは、仕込みのダレ場を無理に入れるのは、逆転の発想なんです。
ダレ場・仕込み=面白くない場面を、なぜ、あえて入れるのか?しかも、根多の回収、謎解き、大団円=面白い場面への相乗効果は薄いのに。
是は永遠の謎でしたが、実は、このギャップが本当は必要なのです。何故ならば、この後半の面白い部分で、殆どの人は作品全体を評価します。
そして、多くの人は、感動した後半をもう一度聞きたい!観たい!何のですが、初回は見逃した前半に、新鮮さを感じ、
エッ?前半にこんなやり取りが有ったのか?と、退屈なハズの前半部分で、宝探しを始める様になるのです。
是は江戸落語に限らず、根多仕込みのダレ場に始まり、根多回収の謎解き、そして大団円!ってパターンの物は、
リピーターの興味が見逃した部分を、ホジクリ返しに行く考古学者的な興味が溜まりません。映画の大作のリピーター心情が正に是。
さて、最後の江戸落語の演出方法は、更にコペルニクス的転回と謂うかぁ、逆転過ぎる発想なのです。
つまり、根多振り、仕込みのダレ場なら、意味・意図が通じる極限まで、噺を削り、削ぎ落として演じる事で客を退屈させないで済むのです。
ハメ事する足し算・掛け算とは、真逆に引き算・割り算で噺をコンパクトにして、ある意味、判り易く致します。
更に、後半の根多ばらし、謎解き、大団円も、演じる事が出来ない、演じても上手くない、必要ない難解な部分は容赦なく削り落とすのです。
発想としては、芥川龍之介の『侏儒の言葉』に在る、このビクトル・ユーゴーの評価が、言い得て妙です。
◆ユウゴオ
全フランスを蔽おおう一片のパン。しかもバタはどう考えても、余りたっぷりはついていない。
つまり、演じる原作が『パン』で演者の表現力は『バター』なんです。
圓喬や圓生は、巨大なパン、つまり圓朝や燕枝作品に塗り尽くすだけの『バター』を持っているのです。
そして、談志、圓丈の発想は『バター』に拘りません。巨大なパンを食べるのには、『バター』に拘らず、ジャム、マーマレード、チョコ、チーズ、生クリームetc
あらゆる組合せを試し、その魂は弟子にも受け継がれ、腐ったバターなら、新鮮なマーガリンたれ!みたいな格言も生まれています。
そして、最後にご紹介した削ると謂う逆転の発想は、腹を壊す消化不良になる位ならら、『パン』の大きさを削り『バター』に合わせる手法です。
此れは実に合理的で、天才的なやり方ですが、『パン』と『バター』のバランスを自らが全て決めないと駄目なのと、
完全した『パン』は、絶対、小さ過ぎては客を満足させられないと謂う。削りの神技が求められます。
因みに、『パン』が小型なのに、てんこ盛りに『バター』を塗るのを、芸が臭いと謂います。
私は現在、現役で、此の『パン』を削り、適量の『バター』を塗らせたら、右に出る人は居ないと思う天才を、二人存じております。
さぁ〜、誰でしょう。