宝暦7年十月十三日、與三郎は横山町、両国本町通りを、我が家、鼈甲問屋の伊豆屋を目指して西へ西へと足を早めていた。
逸る気持ちを抑えつつ、真っ暗闇の本町通り、夜の五ツを過ぎると商家を集めたこの街は店が閉まると、灯りの一つも無いので、人っ子一人、いやいや野犬すら通っておりません。
ですから、この様な時間に出会す(でくわす)としたら、強盗か?火の用心の二番煎じの皆様ぐらいのものなのです。
横山町三丁目、伊豆屋の前に立った與三郎ですが、躊躇いながら佇んで居ります。戸を叩いて家人や奉公人を呼び出す訳にもいかず、ただただ、外から中の様子を伺っております。
両親に一目で宜いからお逢いして、是までの親不孝の数々を謝りたい!!ただ、その一心で島抜けまでして、此処までやって来ましたが、いざ家の前に来ると、きっかけが御座いません。
そうこうしていると、家の中から、浄土宗の仏説観無量寿経が聴こえて参ります。「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨。。。。。」
今日は誰か、命日だったのか?!
やがて中から誰か外へ出て行く気配!慌てて、天水桶の陰に隠れる與三郎!すると、出て来たのは、小紋の羽織に、極々質素な木綿のめくら縞の袷に雪駄履き、是は母親方の叔父、田所町の佐兵衛で御座いました。
佐兵衛「いいから!いいから!提灯さえ借りられたら一人で帰れますから。」
そう言うと、見送りに出た番頭の善右衛門らしき人影と小僧に、二言、三言噺をして、弓張提灯を右手に持って、フラッカ!フラッカ!歩き出します。
その背後から與三郎が、頬冠りをした態(てい)でこっそり追って行くのですが、如何せん!誰も人通りの無い夜道を、気付かれずに付けて行くなど、到底不可能で御座いまして、直ぐにバレてしまいます。
佐兵衛「誰だ!!ワシの跡を付けて来るのは?!」
與三郎「田所町の叔父さん!私です。」
佐兵衛「叔父さんだぁ〜?!ワシは盗っ人の様に頬冠りして、夜中に人を付け廻す奴を、甥に持っとらん!!誰だ、貴様は?!
近付いたら、いきなりその腰の刀で、ワシを斬り捨てるつもりであろう?!それとも、叔父の佐兵衛なだけに、『佐兵衛の女房(カカぁ)は引き摺りでぇ?!』とか言って馬鹿にするつもりだなぁ?!この牛ほめ野郎!!」
與三郎「ちょっと!ちょっと!ちょっと!」
佐兵衛「今度は、ザ・タッチか?狩野英孝か?その『ちょっと』は?実に油断ならん!!」
與三郎「違います、佐兵衛の叔父さん!私です、横山町の伊豆屋の倅のぉ、與三郎です。」
そう言って頬冠りを取るので、佐兵衛は高張り提灯を近付けて、その顔を照らし確かめます。
佐兵衛「おぉ〜、正しくその顔、天下御免の向うギス!早乙女主水丞なんて生優しいモンじゃない、三十四箇所の化け物キズは、與三郎!!
『あぁ〜、久しぶりだなぁ〜。』ってお前、お前は佐渡に島流しになったんじゃぁ!?大赦、特赦でもあって島を出られたのか?!」
與三郎「違います。命を捨てる覚悟で、島抜けをして、江戸まで逃げて参りました!!」
佐兵衛「何ぃ〜!島抜け?!この大馬鹿者がぁ〜、まだ罪を重ねて、親不孝するつもりかぁ〜!!」
與三郎「違うんです。」
佐兵衛「どう、違う?!」
與三郎「いいえ、佐渡って所は、この世の地獄。あんな所でのたれ死ぬくらいなら、捕まりゃぁ瓢箪責めで殺されると、分かってても、命を賭けて島抜けし、
最後に両親の達者な姿を、此の目に焼き付けたなら、公儀にお恐れながらと訴え出て、三尺高い獄門台へ、上がる覚悟で逃げて来たんです。」
佐兵衛「其れは大層な覚悟だが、残念だったなぁ、もう、お前には二親ともおらん!!」
與三郎「エッ!二親ともおらんって。。。まかさか?!」
佐兵衛「そのまさかの坂だ、親父の喜兵衛さんは、貴様が佐渡へ流されると聞いて、心労の為かドッと病に伏せりそのまま逝った。
ワシの姉様、お前のお袋は、其れから一年後、跡を追う様に亡くなり今日が一回忌の法要だ。去年の十月十四日が命日だ。」
與三郎「そんなぁ!二人とも、逝っちまうなんて!!俺は、本に親不孝モンだ?!」
佐兵衛「その通りだ。店の跡目も、喜兵衛さんの遠い親戚で、川越から来た婿養子が、取るには取ったが、二人共、嬉しそうにはしとらんかった。
世間や奉公人の手前、店を潰す訳にもいかず、番頭の善右衛門さんにと言う意見もあったが、それは、善右衛門さんが断った様だ。
其れにしても、與三郎!貴様、島を抜けて逃げて来たにしては、身なりはさっぱりしているし、立派な大刀を落としてやがる?!どっかで、盗みでも働いたのか?!」
與三郎「違います。島抜けして越後の地蔵ヶ原って浜に打ち上げられて、瀕死のところを、弁慶ノ又五郎って親分に助けられ、
着る物や、路銀、そして護身用にと、刀を頂戴したんです。決して、盗んだ品では、御座いません!!」
(と、嘘も上手くなった與三郎。)
佐兵衛「そうかい、世の中には、色んなお方が居なさる。ところで、是からどうする?與三郎。両親はもうこの世に居ないぞ?!」
與三郎「へぇ、薬研堀の源八親方と、裏長屋の関良介先生にだけご挨拶して、元の住まい、柳橋で借家を借りた時の大家さんに暇乞いをしたら、その足で奉行所へ自訴して出て、お縄になる覚悟です。」
佐兵衛「そうかぁ、だが、裏長屋は昨年、貰い火で取り壊されたんで、関先生夫婦は武州川越に帰れられたよ。それと、是も辛い事故だったが、源八親分は、その火事に巻き込まれて亡くなった。これも今年の春先だ。」
與三郎「そうでしたかぁ、お二人には、板橋宿で、島へ行く間際にお会いして。。。それで、改心出来たから、そのお礼を言いたかった!!
では、叔父さん、達者で暮らして下さい。そして、こんな馬鹿でヤクザな不孝者の甥が居たと、偶に思い出してやって下さい、御免なすって!!」
佐兵衛「待て!與三郎。貴様、本当に奉行所に駆け込んで、死ぬつもりか?!叔父さんは、流石に、其れを聞いてしまちゃぁ〜、知らんぷりは出来ねぇ〜よ。
お前、生まれ変わって一からやり直す気は、有るか?!辛い暮らしに耐えて、生きるつもりは、無ぇ〜かぁ?!お前が死ぬ気で働くんなら、叔父さんが、働き口を世話してやろう。」
與三郎「両親も此の世に無く、生きる望みが御座いません。其れならば、一層、公儀に自訴し果てた方がましです。」
佐兵衛「そんな!自暴自棄になりなさんなぁ。それに、甥のお前を此処で死なせては、姉さんに怨まれる。お前が真人間に生まれ変わると言うのなら、
私の伊豆の炭焼小屋で、働かせてやっても構わん!仕事はきついかも知れぬが、佐渡よりは何百倍もマシなはずだ。其れに人の出入りも少なく公儀に見付かる気遣いはまず無い。
どうだ?炭焼の職人として、伊豆て働く積もりがあるなら、ワシが、今、この場で紹介状を書いてやるから、其れを持って伊豆へ飛べ!與三郎。」
田所町の叔父、佐兵衛から紹介状を貰って、伊豆で新しい暮らしをしてみようか?!と、思う與三郎でしたが、其れなら尚更、最後にお富にも逢いたい。
今生の別れをしてから、伊豆へと旅に出たい!そう願う與三郎でしたが、お富の消息を掴むのは、容易では御座いません。
取り敢えず、伊豆へ旅立つ事を、大家の萬兵衛に告げで、更にはお富の消息の手掛かりを知っていないか?!微かな望みを抱いて、横山町から柳橋へと向かいます。
両国への大通りを、川端堤伝いに入り同朋町へ。其処から芸者新道を抜けると、三年前に住んだ借家が今も御座います。貸家札が『入』と成っております。
更に其処を四軒先、格子の立つ家が大家の萬兵衛の家です。幸い灯りが点いております。話し声がして、誰か!?来客でもある様子です。
時刻は五ツ半から四ツになろうとしていて、與三郎、少し遠慮がちに戸を叩き、中に声を掛けます。
與三郎「御免下さいまし!夜分に申し訳ありませんが、萬兵衛さんはいらっしゃいますか?!御免下さいまし!!」
「ハイ!」と、萬兵衛の女房の声がして、戸が開いた。「アラ!珍しい與三さん!お久しぶり。」と、何ともノー天気な女房である。
直ぐに通されると、萬兵衛が居て、もう一人、見た事有る様な?!無い様な?!どーう見ても堅気ではない男が、酒を酌み交わし噺をしている様子であった。
萬兵衛「與三さん!!お前さん、どうして此処へ!?」
與三郎「島を抜けて、参ぇ〜りやした!!」
萬兵衛「島抜けして、来たってかい!!こいつぁ〜驚いた。ささぁ、上がっておくんなぁさい。逢わせたい客人も居るし。
久次の親分!この人だよ、お前さんに逢わせたいと言っていた御人は、斬られ與三の與三郎さんだ。何でも、佐渡を島抜けして来たそうだ。
與三さん!こちらが、お前さんも顔ぐらいは伝馬町の牢屋で見ただろう?牢名主の観音小僧ノ久次親分だ。」
久次「顔は、牢屋で見掛けたがぁ、こうして面と向かって話をするのは初めてだなぁ〜、與三郎さん。」
與三郎「こいつは、本当にお世話になりました。親分さんの口添え、あの紹介状が無かったら、アッチは今頃生きては居ません。
佐渡の金山の悪水地獄ん中で、野タレ死にしていたに違いないです。本当に感謝をしております。」
與三郎が米搗バッタの様に、頭を畳に擦り付けて感謝致しますから、観音小僧ノ久次も悪い気持ちは致しません。
久次「其れにしても、佐渡からよく生きて逃げて来れたなぁ?!お前、一人で逃げた訳じゃあんめぇ〜、仲間は一緒なのかい?!」
與三郎「其れが、逃げる途中、船が転覆して仲間とは散り散りに成って、翌朝、一人で浜に打ち上げられていて。。。地元の元長脇差の親分で、今は隠居の身分の御人に助けられて、本当に運が良かった。」
萬兵衛「仲間ってのは、罪人の頭かい?!」
與三郎「そうです。越後の在で長岡無宿の権十って人と、もう一人は奥州は山形無宿の政吉さんです。二人共生きているやら、死んだやら、とんと行方は分かりません。」
久次「其れで、お前さん、この後はどーなさるおつもりだい?!」
與三郎「ハイ、実家に戻りました所、一目逢いたい!逢って是までの不孝を謝りたい!!と、思っていた両親が、既に他界していると、田所町の叔父にたった今聞かされて。。。
島抜けまでして娑婆へ戻った最大の目的が、叶わぬ夢と知り、もう、生きる望みもありません。其れに、もう一つの願いである、女房のお富に一目逢いたいと言うヤツも、
この広い江戸の何処かに居るとは思うのですが。。。是又、叶う可能性はゼロと申しても、宜いくらいに雲を掴む様な噺で。。。
もう、全てを諦めて生きる望みも、気力も失い、公儀に自訴して鈴ヶ森か、小塚原で磔になる所存でしたが、其の田所町の叔父が、生まれ変わってやり直してみろ!!と、申しまして、
伊豆の炭焼小屋の仕事を世話してくれると言うんで、その紹介状を持って、伊豆へ行ってみようかと思います。」
久次「お前さん、凶状持ち、しかも島抜けの追っ手の掛かる身で、江戸からどうやって伊豆まで行きなさるつもりですか?
まさか、箱根は越えられねぇ〜だろうし、山北から御殿場へ出るにしたって、素人の一人旅じゃ、直ぐに手配の凶状持ちだとバレちまうぜぇ?!
もし、そうなると、その紹介状とやらから叔父さんにも連座の罪が掛かって、下手をすると、伊豆屋が取り潰しになるかも知れない。
其れとねぇ、お前さんの恋女房ってのは、もしかすると、『奴』として松葉屋半蔵に出て、全盛と謳われた錦花魁!又の名を『横櫛お富』じゃないのかい?!」
與三郎「ハイ!松葉屋半蔵に売られたかは、私は知りませんが、奴女郎で三年三月勤めたはずで、『横櫛お富』がアッチの女房です。なぜ、親分がそれを?!」
久次「そのお富が、吉原の松葉屋から代変わりして、浅草の出逢い茶屋で、酌婦をしていた半年前に知り合い、直ぐに気に入って、俺の女房にしたんだ。
俺も、伝馬町の牢から出たのが、一年二ヶ月前だ。今度は、もう牢屋暮らしはつくづく厭になって、堅気の暮らしを始めたは宜いが、
昔のツテで、干物や海苔を乾物屋へ卸す商売を始めたんだが、是が、この年で独り者だと信用が付かず商売に影響しやがる。
だからってんじゃねぇ〜が、ちょうど、嫁探ししていた時にお富と知り合って、七十五両、店に借金が在るって言うから、其れを肩代わりして引いて女房に直したんだが。。。
まぁ料理は唯一少しできるんだが、跡は女房らしい事は空っきしだ!何一つ出来ねぇ〜。芸者上がりで、家事全般に仕込まれてねぇ〜から、まぁ〜使えねぇ〜
與三郎さん!ちょうどいい、お前さんに、熨斗を付けて返すぜぇ!!お富を受取ってくんなぁ?!」
思わぬ所で、お富の居場所が知れて、驚くやら嬉しいやらの與三郎。観音小僧ノ久次が、江戸っ子らしい見栄で、言っているのだろうが、與三郎は又嬉しかった。そして、お富に逢える!そう思った。
與三郎「久次親分!兎に角、お富に一目逢わせて下さい。詳しい噺は、其れからで。」
久次「勿論だ、其れから伊豆へ行く件はどうなさる?!俺は危険過ぎると思うんだが、萬兵衛さんは、どう思いなさる?!」
萬兵衛「オイラも、伊豆へ逃げるのは、あんまり宜い考えとは思えねぇ〜。仮に無事に伊豆の炭焼小屋で無事に働けたとして、與三郎さん!何処へも出られず、限られた人間とだけ付き合う暮らしになるんだぜぇ?!丸で、島流しとおんなじだ。」
與三郎「確かに、そうですが、江戸で隠れて居るったって、それこそ、寺に入る様な事をしない限り、隠れて暮らすのは無理だと思いますから。。。結局、毎日ビクビクしながらの隠遁生活になりますよ!?」
萬兵衛「其処でだ。さっきから、あれこれ俺なりに思案してみたんだが、與三郎さん、こう言うのは如何だろ?!
さっき一緒に逃げた、恐らく日本海の藻屑と消えて、生きちゃ居ない権十と文吉に、全部罪を被って貰って、公儀のお墨付きを頂いてから、江戸で自由に暮らすのはどうだぁ?!」
與三郎「エッ?!そんな上手い噺が在るんですかい?!」
萬兵衛「在る!其れはこうだぁ!!先ず、島抜けしたのは、二人に無理矢理一緒に手伝いをする様に強制されたからって言うんだ。
理由は、お前さんが上総、武蔵、江戸の土地勘に詳しく、島破りする際の特殊技能が、何か適当にこじつけて、それが在るが為に無理矢理仲間にされたと言う。あぁ、それでいい石投げでも、動物のモノマネでも特技は何でも宜い。
つまり、お前さんは嫌々付き合わされたんで、大宮辺りで連中を巻いて江戸に逃げて来て、元大家である私を頼って、自訴する為に、町奉行所まで来たと言うのさ、この月番は南だ!ポンコツの土屋越前だから簡単に騙せる。
そうすれば、島抜けの罪で斬首になる心配は先ずない。最悪再度の佐渡送りかもしれないが、五分五分か、四分六分で、いきなりの方面は無いが、寄場送りか所払いで済む可能性が高い。どうだ!?南町に自訴するか?!」
與三郎「分かりました。その前で、自由な身体に成って、やり直す事を考えてみます。取り敢えず、明日の朝、お富に逢わせて下さい。全ては、其れから決めたいと思います。」
そう言うと與三郎と久次は、その日は萬兵衛の家に泊まり、翌朝七半、まだ、暗い東雲前の両国本通りを、久次の家がある品川へと大川沿を急ぐのだった。
つづく