お富と與三郎が、悪い算段をいたしておりました。同じ七月の或る日の事、改築普請をして、亀清楼から代替わりをして、店名も『萬八楼』と名を変えた料理屋で、江戸の荒物屋の寄合が盛大に催されました。
江戸の職業組合、当時は『座』と申しましたが、その会員五十七名もの荒物屋、荒物問屋が一同に集まる会ですから、其れは其れは盛大で賑やかな宴会で御座います。
そして、この『萬八楼』での宴会には、柳橋から芸者衆が三十人以上呼ばれまして、華やかな宴席となりますが、勿論、その後、旦那衆は『萬八楼』から吉原へと流れて行くのがお定まりに成っております。
ですから、店の事情によっては、若い主人が寄合に出ると毎月毎月、それを口実に吉原や深川へと繰り出されては困る店側は、主人ではなくその父親のご隠居様が寄合に出る事も多々御座います。
そんな荒物屋で、茣蓙(ござ)を扱う量が当時の江戸でも三本に数えられる屋号を『松屋』と申す店が芝田町に御座いまして、江戸に『松屋』と名の付く店が数多在ります関係から、
誰が付けたか?茣蓙の松屋、是が詰まって、『茣蓙松』と呼ばれる様になります。その茣蓙松が、主人は今年三十七に成る当主安兵衛と申しますが、寄合へ出席しているのは隠居の楽斎で御座います。
隠居の身で還暦過ぎの爺さんが、当主の名代で寄合へと来て見たが、意外と隠居の参加が多く、馴染みの顔を見付け見付けられて、昔噺に花が咲いておりました。
上州屋「イャぁ是は、茣蓙松のご隠居!お久しぶりです。お元気そうで、何よりです。お幾つになられましたか?本に、肌艶も宜く羨ましい!」
楽斎「いえいえ、もう行けません。私は今年で、もう六十三に成ります。代を譲った息子は三十七に成りますし、孫も二人です。」
上州屋「其れは結構な事で。しかし、ご隠居はお若い、六十三には見えない!!髪を下ろしてさえ無くば、厄そこそこに見えますよ。」
楽斎「上州屋さん!そんな世辞で丸ろめて、油を掛けても、祝儀は切れませんよ!今日の割前しか、出すつもりは在りません。」
上総屋「刻にご隠居、今日は久しぶりに老人仲間で一番、浮かれ倒してみては?
堤(ドテ)の茶屋 兎角、薬缶が沸切れず
なんて川柳が御座いますが、彼処まで行って戯れ呆けないのは野暮。大川の上ッ手に一葉(一艘)浮かべ、待乳山沈んで今宵乗り込む今戸橋。
山谷へ上がって堤八丁を鼻唄で、見返り柳にえもん坂、大門潜れば仲ノ町!野暮な遊すびに出掛けようじゃぁ!在りませんか?!」
そんな誘いを受けた松屋の隠居楽斎は、倅が仲へ行って散財せぬ代わりに寄合へ来て、その自分が吉原へ船で送り込まれては、本末転倒。
其れに、何より六十過ぎの老人が、廓遊すびするのも気が引けて、薦める人が来ると、此れに乗っかるフリをして、
当の楽斎は萬八の土産の折詰を持って、こっそり履物を出させ、外へと逃げる様に萬八楼を跡に致します。
さて、外へと出た楽斎でしたが、にわかに起きた雨雲が、黒く天を覆う空模様、遠くの方でゴロゴロしたかと思ったら、
まだ、柳橋の船着場を越えたかどうかの所で、大粒の夕立が、車軸を流す様に降って参ります。
更には、時折り空が光まして、先程より、ピカッと光る稲妻と、ゴロゴロと鳴る雷様の間隔が、明らかに近く成って来ております。
夕立や 法華駆け込む 阿弥陀堂
柳橋の船着場から少し行った此処は同朋町。突然の夕立に、雨具を持たない道灌が、東西南北、蜘蛛の子を散らすが如く、雨宿り先を探して駆けて行きます。
件の隠居楽斎も、芸者新道の方へ、雨が通り過ぎるまで雨宿り出来る軒を探しておりますと、在りました!!
軒に深く屋根が突き出した二階建ての一軒家。その軒下へ楽斎は飛び込みます。びっしょり濡れた上布の帷子を恨めしそうに見ている楽斎。
すると、背中の二枚ある細い格子戸の向こう、家の中から粋な一中節の渋い声が致します。
誰だ?格子の目が細く影しか見えぬが、中で唄うは此の家の年増、流石、場所柄、江戸一番の粋な街だ!其れにしても、誰の家だ?!芸者置屋には見えない器用な造り。。。
そんな事を考えながら、綾戸越に中をチラチラ気にしていると、中の年増、勿論、横櫛お富も、誰か門付に立って居る事に気付きます。
そして、綾戸を少し開いて見てやれば、絽の羽織を脱いで片手に持って、もう片方には萬八と分かる折を下げ、薩摩上布の帷子に、茶献上の博多の帯に、白い足袋の雪駄履。
そんな姿の坊主頭のご隠居が、篠が束ねて突く様な雨に難儀しての雨宿り、是はカモに違いない!!と、思いますから、声を掛けて中へと引き入れます。
お富「貴方!萬八の折をお持ちの貴方です。雨が強くて跳ねた飛沫が足元に掛かっています。どうぞ!遠慮なさらず、中へどうぞ、立派なお召し物が濡れてしまいます。早く!どうぞ。」
楽斎「是はご新造!お声掛けもせず、勝手に軒下をお借りして、失礼致しました。通り雨ですし、既に濡れています。折角のご好意ですが、この軒下で十分です。」
お富「いえいえ、遠慮なさいますなぁ、ささっ、中へどうぞ。」
と、お富は門口をガラガラっと開けて、楽斎を中へと誘います。そして、雨宿りの隠居の顔を見てハッ!と、致します。
お富「アラァ!もしや、芝は田町の松屋の旦那じゃぁ、御座んせんかぁ!?」
楽斎「へぇ、松屋安兵衛、まぁ、今じゃ隠居の身で頭を丸めて楽斎と名乗っております。」
お富「おやおや、お久しぶりです。ちょいと!芝の茣蓙松の旦那!ささぁ、お上りになって、濡れた着物を脱いで下さい。私の女モンの部屋着の浴衣と着替えて下さい、濡れたお着物は乾かしますから。」
楽斎「お前さんは、年増になっていなさるが、その面差しは。。。深川だ!仲町の梅本に居た、お富さんだ!!忘れもしない、横櫛のお富さんだ!、いやぁ、懐かしい。」
そんなちょっと偶然な再会に、お富は、此の家から與三郎の気配を上手く消して、新商売の第一号のカモに、此の芝の茣蓙松の隠居楽斎を、罠へと誘うのです。
お富「ハイ、お富で御座います。でも『横櫛お富』はよして下さいよ、七年も八年も昔の事ですから。其れにしても、旦那はお若くてお変わりに成りませんねぇ!?」
楽斎「もう若くは無いさぁ!頭は此の通りの坊主栗だし、身代は倅に譲り今は隠居の身だ。それよりお富さん!お前さんは、なぜ、こんな所に居なさるねぇ?!」
お富「ハイ、私はその八年前に、上総の國は木更津の方へ嫁ぎました。」
楽斎「聞いている、何でも五千両で身請けされたって、仲間内でも評判だった。」
お富「旦那、話は尾鰭が随分付いています!二千五百両です。」
楽斎「其れでも凄いぞ!二千五百両。」
お富「赤馬源左衛門って無職渡世の長脇差だったんですが、旅先で急に死なれて。。。女の私が一家を引き受ける訳にも行かず。
結局、江戸へ戻って来たんですが、身寄り頼りも在りませんから、一人でこうして暮らして居るって訳なんです。」
と、楽斎の顔を流し目に見て、その目をうるうるさせるお富。そして時ならぬ季節ハズレの紅葉をば、顔の中に見せまして、ほんのり紅く火照らせる。
是ぞ即ち松屋の隠居楽斎が、魔物に取り憑かれて引き摺り込まれた、此処が地獄の一丁目!それをやがて後から思い知らされる事に成ります。
地獄に引き込まれた楽斎ですが、そうとは知りませんから、紙入れから小判を一枚取り出して半紙に包みお富に差し出します。
楽斎「お富さん、少ないが私のほんの気持ちだ、是を受け取って呉れ!」
お富「旦那!そんな事をして貰っては困ります。と、申しますかぁ、厭です。私は、お金が欲しくて、着物を乾かし旦那を雨宿りさせたんじゃありません!
本当に、懐かしくて、嬉しくて。。。まだ、娘時代の私を知る旦那に逢えて、自分を取り戻せた様に思えたのに、その金子を私が受け取ると。。。御免なさい!生意気言って、女の分際で。」
楽斎「いや、宜い。私が悪かった。商人って奴は、礼の気持ちを、安易に銭で形にしたがる所がある。悪い癖だ。其れにしても、雨が止まないねぇ〜。」
お富「旦那、雨は止む気配がありません。どうです?二階に婆やが居て、婆やに酒の支度をさせますから、口を濡らしてって下さいなぁ。」
楽斎「そんな!昔の嘉で雨宿りさせて貰っているのに、酒何んてご馳走になるのは、心苦しいよぉ〜。」
お富「何を野暮な事を、昔から言うじゃありませんか?たとえ仇であっても、家に上げた相手なら、口を濡らして帰すもんだって。
その代わり、肴は何も有りませんよ、酒しかないけど。。。そうだ!旦那は、萬八の折をお持ちでしたね?!アレを肴に頂きましょう?!
旦那が肴に折を出し、アタイはお酒を提供する。其れなら宜いでしょう?五分と五分で?!」
楽斎「五分と五分かぁ?!ヨシ、雨が止むまで、差しつ差されつつ、少しやろうか?昔の噺も肴にして。」
噺が纏まりお富は、ハシゴの下へ行って、二階に居た婆やに声を掛けます。
お富「お婆さん、お兼さん!二階を片して、酒の支度を頼みます。下に萬八の折があるから、適当に、皿に盛って膳部にして下さいなぁ。」
お兼「ハイ、お姐さん!!」
婆さんのお兼が、二階に御膳を据えて、座布団を敷き、取り敢えず、冷を二合用意してくれます。
楽斎を二階に上げて、お兼が折を詰め替えた二膳の膳部を持って来た所で、お富は一杯、楽斎に酌をすると、一階の締まりをお兼としますと、言って一旦ハシゴを下りて行きます。
確かにお兼には、一階の締まりをさせて、来客が有った場合は、與三郎以外上げるなぁ!と、言って、自分は與三郎への示し合わせて置いた目印を門口に結び付けて置きます。
更に、その結び付けた印の中に、『カモは芝田町の茣蓙松の隠居で、深川芸者時分の贔屓客』と短い文を仕込みます。
是で、與三郎が夕刻戻ると、二階で蚊帳が吊られるまでは、一階でアジ切り包丁を握り締めて、『支度中』の札をぶら下げて、與三郎は、お富からの合図をひたすら待つ段取りです。
そして、お富は何食わぬ顔で、ハシゴを上がり楽斎の元へ、一方、一階の締まりが済んだお兼婆は、ハシゴの下で酒のお代わりに備えて居ます。
お富「さぁ〜さぁ〜、旦那、もう一つ。」
楽斎「済まないねぇ、いやぁ〜、又こうして五千両芸者の横櫛お富の酌で、酒が呑めるとは、思わなかったよ。」
お富「もう、酔ったんですか?それに、五千両じゃなく二千五百両だし、横櫛お富はよして下さい!もう、二十九、大年増のお婆ちゃんですから、
こんなお婆ちゃんの酌では、折角の萬八のお料理が不味くなるかと思いますが、一つ、お酒をどつぞ!!」
楽斎「いやいや、お富さん、お前さん位の器量宜しなら、まだまだ老け込む歳じゃない!男が放っては置くまい?宜い旦那が居るんだろう?!」
お富「旦那ですから、全て本当の事を言いますが、確かに江戸へ戻った五年半程前には、玄冶店に囲われた時期もありました。しかし、其れも長くは続かなくて、その家を出されて。。。
少しばかりの手切金を貰えたんですが、今度は体を患って箱根に湯治に出て、漸く先月動ける体になり、こうして江戸に舞い戻り、偶々見付けた、此の家に住んで居るって訳なんです。
最初(ハナ)は、また芸者に戻ろうとしたんですが、大年増の出戻りが、深川、赤坂、柳橋、ましてや金春なんぞの一流所へは戻れません。
それで、飯盛女郎が居る様な旅籠の御座敷に、何度か声が掛かって出てて見たものの、芸だけ売ってのお勤めでは厳しく、身も売れと言われますんで止めてしまいました。
そんな訳で、今は、幸い一中節がそこそこ出来ますから、同職の芸者衆に、稽古を付けて、幾らばかりかの月謝を頂戴して暮らしている次第です。」
楽斎「そうかい!お前さんも苦労しまねぇ〜、そうだ!!それなら、一中節を私も買おう!!其れなら、この一両を受け取ってくれるよねぇ?お富さん。」
お富「勿論、芸はお売り致します。もう、徳利が空の様ですね、次はお燗にしましょうか?! お兼、二合徳利で二本、今度は燗にしておくれぇ。上燗だよ、上燗!!
それと、燗酒より先に、アタイの三味線を二階に持って来ておくれ!早くねぇ。」
楽斎「お富さん、この蒲鉾と出汁巻玉子がなかなかいけるぞ、ささぁ、食べて!食べて!そして、食べたら一中節をお願いします。」
お富の一中節とお酌で、酒が進む楽斎。かなり宜い感じに酔いが廻り、更に宜い塩梅に雷がゴロゴロと音を立て始めます。
お富「アラ!また、雷。アタイは本当に雷大嫌い!旦那は?どうです?雷、怖くありませんか?」
楽斎「か、か、雷かぁ〜、ワシも嫌いじゃぁ。」
お富「怖いから、蚊帳を吊っても宜しいですかぁ?!」
楽斎「蚊帳を吊る?!其処までせんでも、時期止むよ、雷なんて!?」
お富「ほらぁ〜、止むどころか激しくなる一方です、雷。蚊帳を吊りましょう。」
お富は強引に、お兼に命じ蚊帳を吊らせて、そのお兼には、雷が酷くなりそうだから、先に湯屋へ行きなさいと、お兼婆さんを外出させて仕舞います。
すると、湯屋へ出たお兼とすれ違う様に、與三郎が帰って来て、玄関口で、楽斎の雪駄を見付けて、是は何かある!と、思いますから、物音を殺して家に入ります。
そして、例の合図の目印と文を見付けて、今夜はカモが二階に来て居ると悟ります。そして、アジ切り包丁を台所から持ち出して、ハシゴの下で今か?今か?と、合図を待ちます。
一方、二階のお富と楽斎はと見てやれば、蚊帳が吊られて、傍らには布団。お膳は片付けられ、その脇で一中節を三味線で唄うお富。
楽斎は、布団の上に胡座をかいて、お猪口を持って一中節を聞いていたが、酒が少しばかり過ぎましたか?眠くなって来ております。
楽斎「お富、お前の一中節は、本に素晴らしい!だが、些か眠くなって来たぞ!」
お富「では、私の膝で、お休みになりますな?其れとも。。。そちらのお布団で?!」
楽斎「布団で寝よう。お富!お富!おとみ!zzz... zzz... zzz...」
楽斎が、寝息を立て始めたのを確認して、ハシゴの下の與三郎へ合図を送るお富!そして、素早く、自身は緋縮緬の長襦袢一枚になり、楽斎の横に添い寝をします。
そして!!
其処へ、右手にアジ切り包丁と左脇に刀を落とし差しにした與三郎が、勢いよくハシゴを掛け上がり、行灯の薄暗い光の中、
蚊帳の中で、楽斎にお富が添い寝しているのを確認すると、先ずは蚊帳の外から、あらん限りの大声で、楽斎の耳元で脅しに掛かります。
間男見付けた!間男見付けた!
突然、耳元の声で起こされ、蚊帳をひん剥いて與三郎、包丁を寝ている楽斎の枕元の畳に突き立てます。
間男め!重ねて四つにしてやる!!
布団から慌てて飛び起きた楽斎、直ぐにその場に正座します。そして、お富も、脇にならんで正座します。
さて、此処までは算段通りの展開に、心で『ヨシ!ヨシ!』と叫ぶ與三郎。果たして、この初仕事、上手く金子を手に出来るのか?次回『茣蓙松 下』を、乞うご期待!!
つづく