四手の立派な駕籠が、横山町三丁目鼈甲問屋の『伊豆屋』の裏口へ、七ツ半過ぎのお日様が、遠い山陰へ隠れようとしている時分に到着致します。

中から、犬神家の助清さんか?!と思う、頭から真っ白の晒しを巻いた、ミイラ男の様な、黒紋付を着た男が出て参ります。

そして両親が待つ、二階の書斎へと、ゆっくりとした足取りでハシゴを上がって参ります。部屋に入ると晒しを取り、変わり果てたその面体を、両親の前に晒しますと、

母親は、余りの醜くさに驚き、声も出ず目を背けてしまいます。一方の父親は、毅然とはしておりますが、落胆の顔色は隠せず、「お帰り!」と発した切り、二の句が継げぬ様子です。

是を見た、與三郎の方はと見てやれば、道中、考えて来ました口上を、素直な気持ちで、両親へと投げ掛けます。

與三郎「さてこの度は、ご両親様より頂いた大切な身体を、この様な姿に致しまして、大変恥ずかしく会わせる顔も御座いません上は、

此の命を捨ててお詫び申すべきかと、一時は、思った事が御座いました。しかし、其れでは親不孝の上塗りだと悟り、恥を忍んで帰って参りました。

此の上は、心を入れ替えて、頭を丸め仏門に入り、仏の御心を学ぶべく、全國六十余州を廻國して参り、徳を積む所存に御座います。

又、伊豆屋にあっては、立派な養子殿を迎えられまして、行く久しく繁栄なさらぬ事を、私、一重に念じ奉ります。」

喜兵衛「與三郎!貴方は大変な料簡違いをしていますよ。確かに、伊豆屋が役者か芸人の家柄なれば、その顔の傷は致命傷かも知れない。

其れでも、実の親なら裏方の仕事だってある!と、家へ我が子には残って貰いたいもんです。ましてや、伊豆屋は商人の家です。

お前が、どんなに醜く成ろうと、商売する商人には関係有りません!確かにお前は『今業平』と呼ばれた美貌だった由、多少の落胆は在ろう、けど、いずれ慣れます、本人も周囲も。

だから、馬鹿な料簡を起こさずに、この伊豆屋の更なる繁栄の為に、今度の事は美貌が生んだ女の災難!そう思って心を入れ替えて、商売に励んでおくれ!與三郎。」

與三郎「父上様に、諦めろ!と言われ無くても、この醜い有様です。寄って来る女子は勿論、男だって居りません。ただ、折角の父上のお言葉なれば、其れに従い家業に出精致しましょう。」


こうして、與三郎は伊豆屋で再び暮らし始めるのですが、日がな一日、学問をするか?店で付けたその日の帳面への、検算の算盤入れが日課で御座います。

だから、まず、体を動かす事も、ましてや外出する事もなく、家に篭って居りますから、母親が労咳にでも罹らないかと心配致します。

そんな母を気遣って、極々偶に、夜になると、手拭いで放っ被りをし、人通りの少ない路地を散歩したりするのですが、是が返って怪しい人に見え、注目を集めて仕舞います。

與三郎が歩いておりますと、すれ違った相手が、何故あの人、放っ被り何てしているの!?と、普通思いますし、怪しい!と感じた中には、番屋に駆け込む奴が出る。

すると、岡っ引や同心が與三郎を捕まえに出て、「違います!、伊豆屋の倅で御座います!」と言う與三郎を無理矢理、番屋までしょっ引く。すると、あの顔ですから帰してくれません。

知らせを聞いて番頭が、慌てて番屋へ駆け込んで来て、店(うち)の若旦那で御座います!と言って、是を連れて帰るから、日本橋から両国界隈では與三郎は有名人に成ってしまいます。


甲「おい!あそこを歩いている放っ被りの若い男!!あれを誰だか?!お前、知ってるか?!」

乙「知らないよ!放っ被りしていたら、顔は分からないし、誰だか分からないよ!!」

甲「馬鹿!アレが謎の放っ被り男として、巷では有名なぁ、伊豆屋の若旦那!與三郎だよ。」

乙「アレが噂の『斬られ與三』かぁ!!」

甲「そうよ!アレが『向こう傷、天下御免の與三郎』だよ。」

乙「何だから、旗本""退屈男って感じの劣化版に聞こえるなぁ、その與三郎。」

甲「劣化版でも、廉価版でも結構だが、アレが正真正銘、喧嘩版の與三郎!斬られ與三だ。」

乙「今業平と呼ばれていた色男が、木更津の長脇差の女房に姦通(まおとこ)して、二目と見られぬ顔に斬り刻まれたんだって?!良かった色男じゃ無くて。」

甲「良くないだろう?!斬り刻まれた與三郎より、貴様は劣る顔なんだから!?」

乙「冗談言うねぇ〜!アレよりはマシさぁ!」

そんな噂が、與三郎の耳にも入りますから、又、外へは出なくなります。そして、與三郎の噂には尾鰭が付いて、

『斬られ與三』『向こう傷ノ與三郎』と二つ名で呼ばれますから、悪名伝説が知らず知らずに江戸中へと広まります。


やがて三年の歳月が流れて、宝暦七年の夏。六月十日、この日は薬研堀の金毘羅様の縁日で御座います。

毎日毎日、二階の部屋に篭ってばかり居る息子を不憫に思った伊豆屋喜兵衛は、女房に声を掛けて、與三郎を自分の部屋に呼んで来させます。


與三郎「父親さん!何か御用ですか?」

喜兵衛「與三郎!いい若い者が、まだ暑い時分から部屋に蚊帳を釣って、行灯を点けて本を読むなんて!不健康の極みだ!?

今日は、薬研堀の縁日です。両国では花火も上がる。小遣いに十両差し上げますから、花火を見て縁日にでも行って、大黒屋で鰻なんぞを食べて来なさい。

帰りは柳橋で、久しぶりに芸者でも挙げて、騒いで来なさい。泊まりに成って構わないから、憂さを晴らしておいで!宜いねぇ!!」

與三郎「父親さん!有り難いお言葉ですが、與三郎!此の顔で放っ被りをして表に出ますと、又往来の人に後ろ指を刺されます。どうか!家ん中に居る事をお許し下さい!」

喜兵衛「イヤ!イヤ!そんな事を言わず、縁日へ行って来なさい。気鬱から労咳にでも成ったらと。。。私も母さんも心配しておる!

娘ッ子じゃあるまいし、顔の事は気にするには、及ばない!お前さんは男だ、顔の事は忘れて遊んで来なさい!!」


忘れられたら、三年もの間、引篭にはならない!!


そう言いたい気持ちを飲み込んで、與三郎は新しい薩摩飛白の単衣に、今流行りの茶博多の巾廣の帯を付け、紙入れに十両を仕舞い、ハシゴを下りて伊豆屋の店先へ。

店の若衆が、めかし込んだ與三郎を見て世辞で、「後ろから見ると若旦那!昔と変わらぬ、粋で鯔背なお姿ですよ!!」と声を掛ける。

是には與三郎、苦笑して、「後ろからはそうだろう!亀吉。だが、前から見たら、百年の恋も覚め、愛想もこそも尽きるこの姿!あぁ〜面目ねぇ〜!!」

最後は、芝居仕立てに戯けて見せて、虚しい気持ちを悟られまいとする、與三郎の優しさなのかもしれません。

「行って参ります!」「行ってらっしゃい!」と、声掛けて合って、與三郎は両国から薬研堀へと花火と縁日を楽しみに出掛けます。


家を出てすぐ、手拭いを深く放っ被りして、橋の袂よりやや遠い位置から、花火をニ、三発見るのですが、全く心が晴れませんから、

花火は宜しにして、薬研堀の縁日の方へと足を向けます。鋳物の風鈴の音が、與三郎の裂けた耳にも美しく響いて来ると、

風鈴の音は、昔のまんまなのに、それを聞いている俺の耳は、醜くく三つに裂けてしまった。この現実を思うと、何て人生ッて不条理なんだ!!そう思う與三郎。


其れに、付けても最近は、死んだお富の事ばかり考える。木更津の海へ飛び込んで死んだお富、夢で宜いから逢いてぇ〜。

そうだ!昔、漢の武帝という王様は、李夫人という女性と別れ、恋しい余りに反魂香を焚くと、其の李夫人の姿が煙の中に現れて、

その煙の中の李夫人は、生身の人間の様で、武帝の心は、大変慰められたと言うが、そんな反魂香が有るならば、私も一度炊いて、煙の中のお富で宜いから、もう一遍!見たいものだ。

そんな唐の古い小説を思い出して、こんな面下げて柳橋で芸者遊びをしても楽しくなかろう!今日はこのまま家へ帰り、香を焚いてお富の夢でも見たい物だと考える與三郎でした。


南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!


と、與三郎はお富への念仏を唱えて、フラッカ!フラッカ!縁日の夜店の脇を通り、横山町の自宅へ帰ろうとしたその時。

前の路地から、白い着物姿の女が、やや早歩きで下駄を鳴らしてやって参ります。手には縁日で求めた物なのか?鬼灯(ホオズキ)の植木鉢を下げている。

スレ違い様、與三郎は、前から来たその女の顔をチラッと見ます。ゾクゾクッ!と、又電気が走るので、是は?!昔、何処かで味わった感触!!

そうだ!木更津の吾妻権現のお祭だ!!あの時、お富とスレ違った時と、全く同じ感触だ!まさか!あの女、お富なのかぁ?!

イヤイヤ、お富は死んだと聞いた。江戸金が赤馬源左衛門から確かに聞いたと言うからには、嘘じゃないはずだ。ならば、あの女は誰だ?!反魂香のご利益で、一度だけの幻か?!


気になる!!


狐、狸は、人をばかすと言う。私があんまりお富!お富!と、恋焦がれて居たから、狐か狸が化けて出たのか?

でも、ここは横山町の裏通りだ!江戸のど真ん中で、狐狸が出て来る訳が無い。とすれば、他人の空似。そっくりな奴が世の中には、三人居るそうだから。。。

其れなら其れでも宜い!此の女の跡を付けて、何処のどんな女(あま)か、俺が突き止めてやろう!誰の女房?持ち物なんだ?!

年増盛りの粋な風態姐御肌、どんな野郎の手活け(ていけ)の花かは知らないが、何処へ入るか、暫く尾行(つけ)て、心の慰めにしてやろう!と、與三郎は思います。

にべもなく此のご新造からはされ様と覚悟の上で、跡を見え隠れして付けて来たのは村松町、橋を渡ったその先を、左に入ると其処は玄冶店。

ここは、芸者や女郎が身請けされ囲われ者の妾と成って住む所。道理であの女!お富に似ている訳だ!!

そんな事を思いながら付け来ました玄冶店。そして、女が入った家を見てやれば、船板塀に、見越しの松、庭には鎌倉檜葉が二本植えられた、それはそれは立派なお屋敷です。


女は玄関格子の前に立ち、家の方へ声を掛けます。

女「お滝!開けておくれ!?今、帰った、早く開けとくれよ!! 。。。 困ったねぇ〜、出掛けたのかしら?鍵したまんまだワァ!」

女が、玄関格子の前でウロウロしながら、お滝!お滝!と、騒いでいると、斜向かいの九尺二間の長屋から、飴売りのお斯(かく)という婆さんが鍵を持って出て参ります。

お斯「ご新造さん!今、お帰りで。お滝さんから頼まれて、家の鍵はアタシが預かっております。

お滝さんの浅草のお母さんが亡くなったとかで、今さっき、弟が呼びに来て、慌てて飛び出して行きました。今日は、戻らないそうです。」

女「それはすみませんでした、ご丁寧に。是はお礼です。」

お斯「是は是は、二百も!!すみませんねぇ〜、ご新造にこんなにして頂いて。」


女が家の中に消えても、與三郎は放っ被りのまんま家の前の船板塀の影に隠れて、家の中の様子を伺っております。

中へと消えた女は、この温気(うんき)ですから直ぐに来ていた白縮の単衣物を脱いで、浴衣へと着替えて緋縮緬のシゴキをグルグルと巻き付けます。

手鏡を出して、頭の横櫛を取ると、後れ毛の髪を悩ましくかき上げて、仏壇の前の新しい位牌に手を合わせて、なりやらぶつぶつ言い始めます。


思えば、三年前の秋、吾妻権現のお祭で、アタイが與三さんに一目で惚れて、付け文なんか出して、あの人を引き摺り込んじまった!!

其れが、亭主だった赤馬源左衛門にバレて、あの人は、寸刻みの嬲り殺しの目に合って。。。アタシゃ見てらんなくて、海に飛び込んで死ぬ気だったけど、

直ぐに通り掛かった船に助けられ、死ねず仕舞いで、その船に乗っていた優しい今の旦那に囲われて、今では玄冶店のご新造さんだ!

其れにしても、さっきは驚いたねぇ〜、薬研堀でスレ違ったあの男!!背格好や衣装(なり)が與三さんにそっくりだったから、

アタシもつい近付いて、顔を見ようとしたその時!向こうが先に、チラッとこっちをら見て来るから、手拭いん中の顔を覗いたら、化け物かね?何んだろうあの傷だらけ!


女は言わずと知れた横櫛お富。與三郎の位牌を作り、南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!と、念仏を唱え続ける、暑い暑い夏の夜の出来事でした。



つづく