秩父の日野山中から、野宿を重ねて飯能へと入った丑松。本来なら青梅から現在の中央線沿線沿いを、拝島、立川、国分寺、荻窪、内藤新宿と進む方が開けておりますが、

凶状持ちの丑松ですから、山沿いの険しい道を、飯能から清瀬、そして所沢を通り練馬へと入ります。更に、練馬からは池袋へと南下するのではなく、あえて北ルートを選択し、赤塚から板橋宿へと進みました。

夕方暮れ六ツ前、何とか板橋宿に掛かった所で、正に車軸を流す様な横殴りの雨に見舞われた丑松、飯盛女郎を抱えて居そうな旅籠、所謂、岡場所の『加賀屋』の軒へ入り雨宿りをしております。


『困った雨具も無いのに、この降りだ。少し早いが、此処らで宿を取るか?』


そんな事を考えていたら、加賀屋の若衆が、蓑を着て菅笠を被り丑松に声を掛けて参ります。

若衆「お客さん!どうですか?お遊びなど、此の雨で今日は暇だ。宜い女(いいこ)が揃っていますから、どうぞ!お泊まり願います。」

丑松は思います。この岡場所に泊まれば、宿帳を書け(つけろ)だとか言われずに済むし、役人の見廻りなどもまず来ない、と。雨の降りも激しいし、此処『加賀屋』を宿に選びます。

丑松「雨に難儀して、ちょうど旅籠を探しておった。此処は飯盛込みで幾らだ?」

若衆「へぃ、一分二朱で御座います。」

丑松「此の雨だ、一分に負けろ!負けるなら、泊まってやる。」

若衆「えぇ、もう!此の雨ですから、一分で結構です。ハイ!お客様、一名様ご案内!!」

若衆に、宿代の一分とご祝儀を一朱渡すと、若衆が恵比寿顔になり、「お客様だ!足を綺麗にお濯ぎして!!」と女中に命じてくれます。

丑松が昇口の隅に腰掛け、草鞋を脱いで其処へ揃えて置くと、女中が足を指の間まで綺麗に洗ってくれます。


さて、今日の丑松は旅客なので、草鞋履きですが、下駄履きのお客は、下駄の脱ぎ方とハシゴの使い方で、遊び慣れているか?いないか?が分かると言います。

まず遊び慣れていない客は、下駄を大股に脱ぐが、遊びつけている客は、下駄を必ず揃えて脱ぐそうです。

又、ハシゴは、遊び慣れている人は静かにそっと昇がりますが、遊び慣れない人は音を立ててけたたましく昇がるんだそうです。


足を濯がれた丑松、そっと音も立てずに忍び足でハシゴを二階へと上がり、引付の前に居る遣手婆にも一朱の祝儀を渡すと、是また笑顔に変わります。

遣手婆「どうも、有難う御座います。いけない時分に降り出した雨にも関わらずのお越し、重ねて御礼申します。さて、お馴染みはどの女(こ)です?」

丑松「馴染みは無い、初回だ。雨に降り込まれて雨宿りしてたら、若衆に引かれて来たんだ。見立てるから、少し待ってくれ。」

遣手婆「そうでしたか、では、ゆっくり見て下さい。」

丑松は、大して格子の中をろくに見もせずに、適当に相手を選びます。

丑松「其れではなぁ、向かって一番右奥の斜め(ハス)に座っている女郎(おんな)だ。頬っぺたが異常に膨れている、喩えるならまるで横木瓜(よこもっこ)みたいな面の、あの女郎だ!」

遣手婆「まぁ、口の悪い。」

丑松「いいから、あの女郎を出してくれぇ。」

遣手婆「畏まりました。陽炎さん!お二階へ、お客様がお見立てです。」

遣手婆は、ニコニコ笑いながら思います。『横木瓜なんて洒落た見立てをするじゃないかぁ、粋だねぇ。

ただ、本当に雨宿りで入っただけで、居続けしたり馴染みになる気は無いんだねぇ、だから、横木瓜なんだろうねぇ。』

丑松が待っていると、相手の陽炎と言う女郎が手を着物前に置いて現れます。格子の中を二階から遠目に見て、横木瓜だった顔を間近に見るといやはや醜い!!おたふくその者。

陽炎「今夜はよく、足元のお悪い中、お越し下さいました。有難う存じます。ササッ、中へお入りなさいまし。」

横木瓜、容姿だけに留まらず、声がまたゾッと致します。しかし、通された部屋は広く小綺麗なので安心する丑松。

其れにしてもこの店は、なぜ、こんな器量の女郎に、こんな素晴らしい部屋を充てがっているのか?と、考えた。

もしかすると、女郎の器量と部屋が、両方足して玉代になる仕組なのか?!もし、器量良しの女郎を見立てていたら、ボロボロの小さな部屋へ案内されたのかもしれない。良かった!横木瓜を選んで。

そんな事を考える丑松に、横木瓜の陽炎は、こんな早い刻限、多数女郎がまだまだ売れ残っている時に、見立てられて客前に出た経験など有りませんから、丑松に、これでもか!!と尽くします。

しかし是が、兎に角、旅の疲れを癒したい丑松にとっては、鬱陶しく、鬱陶しくて仕方ない。有難迷惑と言うやつで、思わず其れが口に出る。

丑松「姐さん!すまない。もう、眠くて眠くて仕方がないんだ、少し寝かせてくれ!!」

そう言った丑松は、すぐに下へ降りて用をたして、部屋へ戻ってみると、キチンと絹布のフカフカの布団が敷かれている。

ヨシ!と、丑松が布団に仰向けに入ると、横木瓜の陽炎は下へと降りて行き、そのまま、丑松は深い眠りに落ちてしまう。


丑さん!丑さん!


誰かが自分を呼ぶ声がして、ハッ!!と、目が覚める丑松。「誰だ?!」と叫んで起き上がると、

部屋の障子戸を半開きにして、廊下に立って顔を覗かせている女郎が居る。「私だよ、丑さん!小半」

丑松「アッ!えぇー、小半?!お前がなぜ。。。俺は夢ん中か?!」

最初は自分の頬を抓り、しきりに、小半の体や顔を触って確かめる丑松。

小半「夢じゃないよ、逢いたかったよ、丑さん。」

丑松「な、何でお前が此処に?」

小半「話せば長くなるし、こんな所を他人に見られるとまずいから、後から、ゆっくり話します。」

丑松「そうだ!横木瓜を返して、お前に買い換えるか?!」

小半「駄目よ、必ず、また来るから、丑さん、此処で待ってて。」

小半は、障子戸を閉めてバタバタと下へ降りて行きました。『なぜ、小半はこんな所で女郎に成って居るんだろう?』と、

丑松が、布団の上にあぐらをかいて、腕組みをしながら考えておりますと、横木瓜が、ガラッと障子戸を開けて入って来ます。

陽炎「私を待って居てくれたのかい?!お前さんは、本に優しいお・ひ・と」

横木瓜は、丑松が小半の事を考えて物思いに耽っているとは知りませんから、尽くす!尽くす!尽くす。

すると、返って丑松は横木瓜が鬱陶しくなり、連れ無くする、この繰り返しですから、遂に、横木瓜が丑松に愛想尽かして、不貞腐れて下へ降りてしまいます。

ヨシ!少し眠るぞ!と、丑松は思いましたが、小半の事が気になり寝られません。布団に入りますが、まんじりともせずに、四ツ半のお引けとなります。

店がバタバタと騒がしくなる中、早い刻限の激しい雨で客足も少なく、実に早いお引けです。丑松は夜が更けるに従って、陰々とした気持ちに押し潰しされそうに成っていました。その時!次の間の唐紙が開いて、

小半「丑さん!詳しい事は、此の手紙に書いてあるから!読んで。」

小半は、手紙を枕元に投げ入れて、スッと閉めて立ち去ります。受取った丑松、「そうかぁ!」と呟き、其れを持って行燈の側へと参ります。

恐ろしく長い手紙じゃねぇーかぁ。どれどれ、と、読み始めた丑松、見る見るうちに、顔色が蒼く成ってしまった!!其の手紙の文面は、


お前さんと、別れてから私は、本所出裏の五斗兵衛市の家に厄介になりました。初めは、市と、内儀(おかみ)さんと私の三人で上手くやっておりました。

ところが、次第に、市が内儀さんの留守に、私の袖褄(そでつま)を引いてくるように成って、嫌で嫌で仕方がないけど、

二人の心中を止めて、丑さんが江戸から逃げる高飛びの資金を出してくれたのも五斗兵衛市だから、その情に対して直接、強く拒めなくて。。。

風に柳って感じに、上手くあしらっていたら、内儀さんが女の勘で、二人の仲を怪しむ様になり、私に冷たく当たり、罵る様に成りました。

私としては、丑さんに操を立てて、市とは何も疚しい事は無い身体だから、内儀さんに正直に、市が、一方的にちょっかい出して来ると伝えたら、

その日、夫婦で大変な修羅場に成って、仕方なく私は市の家を出て、暫く、色んなツテを頼り泊まり歩いていたら、十日程過ぎて、市が私の所に来て、

『丑松が、奥州二本松の目明かしに捕まった!』と言うんです。そして、その目明かしが五斗兵衛市の懇意にしている人だから、八十両で丑松の命は繋がる。

今、八十両払わないと、代官所に突き出されて、手遅れになると言います。私が八十両なんてと思案に暮れていると、

市が、私や丑さんの知人友人の居ない板橋の遊郭に身を置いたらと言い、初めての客も、武家のちゃんとした人を当てがうからと言うのです。

結局、私は、市の其の話に乗り、此処加賀屋へ身を沈めました。

そして当日、頭巾を付けた武家の客に、初めて此処でお見立てされて、部屋に入ってその侍が頭巾を取ると、なんと!其れが五斗兵衛市で、

泣く泣く慰み者にされて、奥州二本松の丑松の話も嘘だと分かり、此の事だけは、きっと丑さんに伝えよう!伝えるまでは、死んでも死に切れないと思って居ました。

今日、丑さんに全てを語り、思い残す事はもう在りません。私は自害して果てますが、丑さん!どうか、私の仇を討って下さい。是が私の臨終(いまわ)の際のお願いです。


しまった!!


慌てて丑松が布団を跳ね退け廊下に出た時には、「小半!しっかり」「小半!小半!」と、叫ぶ声がして、加賀屋は騒然としておりました。

丑松「若衆!騒がしいが、何か有ったのかい?!」

若衆「是は旦那、いやぁね参りました。うちの女郎の小半ってのが、剃刀で喉突いて自害しまして、部屋が血の海で。。。此の騒ぎです。」

丑松「俺は、女の変死体なんてモンを見た事が、ねぇーんだ。よかったら、一目だけでも、拝ませて貰えないかい?」

若衆「ご冗談を。そんなモン見ないに限りますよ。それに、もう時期、検死のお役にが見えますし。」

お半!早まった事をしやがって、幾らでも他に手立ては有っただろうに。。。死に急ぐとは。丑松は、小半の手紙を懐中へ大事に仕舞い、声を殺して明け方まで涙を枯らしました。

烏カァ!で、夜が明けても、晴れぬ悶々とした気分でお勘定を済ませると、加賀屋を出て、練塀小路の河内山宗俊の屋敷に来た丑松、直ぐに小半の遺書(かきつけ)を宗俊に見せます。


丑松「最期に死に顔を見てやれなかったのは、残念でしたが、その前に二言三言言葉を交わし、あいつの頬を触る事は出来ました。

ただ、死なせてしまった事は、無念で無念で。。。心ん中のモヤモヤが晴れません、河内山の御膳!分かりますか?」

宗俊「丑松!貴様と小半の仲を良く知る俺だ、分かるぜ、貴様のそのモヤモヤ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。其れで、どうする心算だ?」

丑松「是から本所へ出張って、出裏の五斗兵衛市を殺して来る心算で御座います。」

宗俊「そうかい、しっかり仇を討って来い!」

丑松「へぃ!直ぐに出掛けて殺(や)って参ります。」


丑松が、練塀小路の河内山邸を後にして、本所三笠町の五斗兵衛市の家に着いた頃には、日が暮れ掛かっておりました。

丑松「御免なスッて!」

男「へーい、何んだい?」

丑松「親方いらっしゃいますか?」

男「今、湯屋に行ってるよ、時期に帰って来るから、誰か知らねぇーけんど、上がって中で待ってなさいよ。」

丑松「有難う御座います。」

内儀「何だい!無闇に名前も聞かずに、うちに上げちゃ駄目じゃないかぁ、何の用ですかぁ?何方?」

と、内儀さんが、取次に出た爺さんを叱り、間の障子戸を開けて出て来た。


内儀「お前は!丑松じゃないかぁさぁ!」

丑松「オッ、姐さん、暫く旅に出ておりましたが、漸く、江戸へ帰ってめぇーりやした。」

内儀「まぁ、こっちへ上がんなぁよ、時期にうちの人も戻るから。」

丑松「早速で悪いが、姐さん。お前さんに先に聞きたい事があるんですがぁ。」

内儀「分かってるよ!大方、小半ちゃんの事だろう?其れに付いちゃぁ、話さないといけない事が、私にも有るんだよ。」

丑松「そうですか?仰る通り小半の身の上が、知りたい事ですが、何か有りましたか?」

内儀「お前さんから、うちの人が小半ちゃんを預かったから、何か間違いが有るといけないってんで、気を付けては居たんだが、

うちの若衆に、卯之助ってのが居てね、其れと小半ちゃんが割ない仲になって、うちの人が意見して別れさせようとしたんだが、

二人して、この家の金子を持ち逃げして、何処ぞへ駆け落ちしたんだよ。うちの人も、お前さんに面目無いと言ってねぇ、謝ってたよ。」

丑松「そうで御座んすかぁ、あんな浮き草稼業を長くやってた女だ、そういう事も有りましょうねぇ。其れで、其の卯之助って野郎と、何処へ逃げたんですか?」

内儀「其れがねぇ、何処へ行ったか分からないんだよ。」

丑松「そうですかぁ、姐さん!アッシは小半の居場所を知っていますよ。」

内儀「エッ!!」

丑松「板橋の加賀屋って岡場所に女郎に成って居ますよ、小半。」

内儀「えぇーッ。。。じゃぁ、卯之助が騙して岡場所に売り飛ばしたんだねぇ。。。」

丑松「ヤイ!白を切るのも、大概にしやがれよ!!お前たち夫婦で、人の女房を騙して岡場所に沈めたくせしやがって、飛んでもない畜生だ!!キッチリ、落とし前、付けさせて貰うぜぇ。」

内儀「丑松さん!待って呉れよ、話を聞いて呉れよ、此れには色々と訳が。。。」


と、言って逃げる五斗兵衛市の内儀を、背後から髻を掴んで引き寄せると、「小半と一緒の、喉を突いて殺してやるよ!」と、耳元で呟いて、匕首の鞘を祓って一突きにします。

ギャッ!!と言って、血飛沫が障子に掛かり、直ぐに事切れた内儀さん。すると、ドスンと音がするので、丑松が振り返ると、最前、取次をした爺さんが声も出せずに腰を抜かしております。

直ぐに、市の家を飛び出した、丑松は、市が行く湯屋は知っておりますから、此方へと急ぐ事にします。

湯屋へ来て、暖簾を潜り、格子をガラガラと開けて入ります。そして下駄を見ると、八人客が入っております。

丑松「御免よ!」

番台「いらっしゃい!」

丑松「手拭いを貸してくれ。」

番台「へい。まいどどうも。」

湯銭を置いて、中へ入る。籠の脱いだ着物に五斗兵衛市の物を見付けた丑松、中に、野郎が居ると確信致します。

そして、自分も着物を脱ぎ手拭いに抜身の匕首を隠して湯殿へ。丑松は、湯煙の中、洗い場の隅で、口を濯ぐ五斗兵衛市を見付けて、その後ろへ回り声を掛けます。


丑松「市!久しぶりだなぁ〜」

市「お前は!丑松、何時、江戸に戻った?」

丑松「貴様の女房は、今、あの世へ送って来た。お前も、早く行きなぁ!!」

市「エッ!何だとぉ!?」

丑松「小半の仇!!死にやがれぇ、外道!!」


手拭いごと、匕首を脇腹に突き刺し、刃先を腹ん中で、グルグル回す丑松。「止めろ!」と叫んだ五斗兵衛市の声が湯殿に響きます。

其れでも、丑松は容赦なく、腹を二回、三回と突いて、最後は倒れた市の喉へ止めを刺します。


『人殺し!!』


自ら叫んで、匕首をその場に捨てて、驚き逃げる裸の客に紛れて、脱衣所へと駆け込みます。

そして、あらかじめ目を付けていた他人の着物を素早く着て、下駄も盗んで逃げ出します。


本所の湯屋から、再び、練塀小路の河内山邸へと戻り、宗俊に仇討ちの次第を報告致します。

宗俊「其れで?丑松、是からどうする?」

丑松「此れで、人を七人殺しました。町奉行所へ自訴して、自分がやった罪だけ、全部白状して、死罪になる覚悟です。」

宗俊「そうかぁ、今日は最期の晩餐だ。娑婆のなごりを楽しんで行って呉れ。」

丑松「御膳、本当に長い間、お世話になりました。一足先にあの世へ参りますが、悔いはありません。」

宗俊「今日は、お前の好きな鰻と、鯛にしよう。欲張りだなぁ、お前は。」


翌日、夜が白むまで二人は酒を酌み交わし、丑松は明け六ツの鐘を聞いて河内山邸を駆け出し、月番の北町奉行所へと自訴した。

上州無宿 闇の丑松、三十六歳の春で御座います。



つづく