江戸の地は、二度と踏め無いような気持ちを曳き摺りながら、丑松は秩父へと参ります。

丑松「お尋ね申しますが、この辺りは『大鹿野』でしょうか?」

村人「んだぁ!オガノだぁ。」

丑松「では、此の辺りに、『銭屋安兵衛』と言う料理屋さんは御座いますか?」

村人「銭屋さん!其れなら、彼処に杉の木が、三本在るだろう?其の隣りの松の木の横の、栗の木。栗の木は右だからねぇ、左は櫟(くぬぎ)アレではねぇ〜から。

その後を抜けて、五反二畝(ごたんふたせ)程ある大根畑が在るでしょう?そこの脇の細い道を、庚申堂の在る方に曲がって、其処からは、道なりに三丁と五間くらい進むと『銭屋』が在ります。

汚い汚い看板が出ていますし、前にはえかく綺麗な小川が流れてて、小魚がピッチピチ!ピッチピチ!跳ねてるから直ぐに分かるべぇ。」

丑松「有難う御座います!」


言われた通りに進みますと、確かに、綺麗な小川と呼んでいましたが、溝(どぶ)と呼ぶにふさわしい、水はそれなりに綺麗だが、幅の大きさと、川底の汚い感じは溝で、此れが御座います。

溝の前に、確かに在りました!銭屋の看板。物凄く時代の付いたその看板に驚く丑松は、『此れが。。。名代?』と、心で呟きます。

『営業している感じがしない。休業しているのか?』と更に呟き、門を潜って土間を通り玄関へと参りましたが、土間には、芋の皮が多数散乱しております。


丑松「御免ください!銭屋は、此方でしょうか?店主の安兵衛さんはいらっしゃいますか?」

安兵衛「ハイ!何方ですかなぁ?」

いきなり焼いた薩摩芋を片手に、其れを口でモゴモゴ噛みながら、応対に出て来た安兵衛、おいおい大丈夫かぁ?!と、些か不安を覚える丑松です。

丑松「初めまして、私は坂本の多吉の使いで参った者で御座います。」

安兵衛「坂本の多吉さん!懐かしい名前だ!婆さん!多吉さんの使いの人が来たぞ、お茶を入れなさい。さて、多吉さんはお元気ですか?」

丑松「へい、お陰様で元気にしております。」

安兵衛「多吉さんは、堅気に成られましたかなぁ?そうですか、立派な料理人に成られた。其れは誠に結構!其れで、その多吉さんが、銭屋に何の用があるんですかなぁ?」

丑松「実は、使いで参ったと言うのは、アッシ自身の事なんです。アッシは両國米澤町の菊松と申しまして、多吉ドンから旦那に話は通して有ると言われて、大鹿野へと参りました。

大鹿野の名代の料理屋『銭屋』さんを訪ねてみろ!其処で腕の良い板前なら、雇って頂けると聞いて、態々、江戸から出て参りました。どうか!宜しくお願いします。」

安兵衛「そんな話を以前した様なぁ気もするが。。。貴方が菊松さんですかぁ。申し訳ないが、もう、店は閉めてまして一年半になります。

と、言うのも、私は十五年前までは江戸の魚河岸に居て、二十五年間爪に火を灯す様な苦労をして、百五十両と言うお金を貯めました。

其れを元手に銭屋を作り、腕の良い料理人と質の良いネタの仕入れ先に恵まれて、秩父のこんな片田舎で、大いに繁盛させたのですが、

料理人が一人二人と、辞めたり独立したりと、抜けてしまい、代わりを雇って穴は埋めるのですが、腕が伴いません。

美味くて質の良い料理が自慢の店ですから、其れが月並みになると、其れ迄の贔屓の客が、一人減り二人減りして、とうとう二年程前から、店を閉めざるを得なくなりました。」

丑松「そんなぁご苦労が。。。全く多吉も知りませんから、アッシに『早く銭屋へ行って、俺の代わりに店を盛り立ててくれ!!』何んて事を言いやがるから。。。」

安兵衛「すまない事をしたねぇ。折角、大鹿野まで来たんだ、こんな芋しか無い家だが、四、五日ゆっくりして行きなさい。」

丑松「へぃ!では、お言葉に甘えて、暫く、草鞋を脱がせて頂きやす。」

安兵衛「変な事を言うね、菊松さんは、料理人も『草鞋を脱ぐ』かねぇ?!」

丑松「面目ねぇー。多助が言ってたと思いますが、堅気の料理人だったのが、無頼漢(ヤクザ)渡世の道へと踏み外し、其れを此の年に成って、

今は堅気の坂本の多吉に相談したら、野郎が、既に、銭屋の安兵衛さんに話は通してあるからと、俺の背中を押してくれたんです。」

安兵衛「其れで、わざわざ、秩父の大鹿野くんだりまで来たって訳なのかい?!そいつは、本当に済まないねぇ〜。取り敢えず、前の溝で、足を綺麗にして昇がって下さい。」

さっき村人の教えられた小川で、足を綺麗にした丑松。銭屋に昇がり『何もありませんが!』と出された酒を、安兵衛と一緒にスルメの足でちびちびやっておりますと、安兵衛さん!酔いが廻ったか?!

安兵衛「実はねぇ、本当は此の銭屋、九年、十年前に本当は潰れ掛けてたんですよ、其れを江戸に居られなく成って、フラッと遊びに来た多吉さんが、

うちの板場に入って呉れて、あの人、腕が有るし、周りの人を使うのが上手い!!見る見る銭屋は持ち直して、繁盛する店に成ったんですよ。

だからねぇ、私も、諦めちゃぁ、いないんですよ。もう一度、江戸の河岸に行って、この銭屋を立て直す為の金子を稼ごうかと思っているぐらいなんですから!!」


二人でそんな話をしていると、来客です。

客「安兵衛さん!居なさるかい?!」

安兵衛「ハイ、何方ですかなぁ?。。。アラ、失礼しました。此れは此れは、廣島屋の旦那!いつ、江戸からお戻りですか?」

廣島屋「ご公儀の仕事が、思いの外厄介で、まさか、二年半も江戸に居ようとは思わなんだよ、安兵衛さん。」

安兵衛「ご苦労様でしたなぁ、廣島屋さん。で、今日は何様ですかなぁ?」

廣島屋「何様も何も、銭屋さんに来たんだ、江戸から同業が二人来ていて、銭屋の話になり、是非、又銭屋で食事がしたいと言うから、連れて来ようとしたら、

番頭や女房が言うには、安兵衛さん!銭屋を閉めているそうじゃないか?其処で、私がまずは様子を伺いに来たって訳だ。」

安兵衛「すいませんね。肝心の料理人が辞めちまって、酒と生卵ぐらいしか置いて有りませんから。。。廣島屋の旦那、申し訳ありません。」

廣島屋「取り敢えず、二人を連れて、六ツ過ぎたら来るから、生卵でもいいんで、酒の支度を頼みます。」


そう言うと、廣島屋は帰って行きます。生卵でもと言われた銭屋安兵衛は、困ってしまった。まさか、本当に生卵って訳にも行かぬだろうに。

さて、この廣島屋は、秩父一の名主で、大名が公儀から使役、江戸近郊の土木工事を受けた際に、資材と人足を手配する仕事をしております。

この日は、その資材調達と、人足手配の元締め二人を江戸から秩父へ招いての接待で御座いますから、それなりの料理屋が求められているのです。

困り果てている安兵衛に、傍でこの話を聞いていた丑松が、助け船を出します。

丑松「旦那、私が料理番をやりましょう。そのつもりで、最初(ハナ)から来たんだ。」

安兵衛「本当かい?菊松さん。」

丑松「早速ですが、旦那、卵が有るなら、鷄も有りますかい?」

安兵衛「そりゃぁ、勿論、有るよ鷄は。」

丑松「ならば、鷄鍋を出しましょう。」


丑松は、安兵衛に近所の農家から野菜とダイダイを仕入れさせて、鷄を締めて昆布と鷄ガラ、其れに味噌と醤油をほんの少し混ぜて、鍋の出汁を作(こさえ)ます。

六ツの鐘が鳴る頃に合わせて、グツグツと湯気を立てる鷄鍋が完成し、此れを丑松特製ポン酢で頂いた廣島屋一行は大満足致します。

最後の〆にはこの鍋の出汁で雑炊が振る舞われ、話題に有った生卵も使う洒落た趣向に、廣島屋は大いに感動して仕舞います。

此れがきっかけとなり、銭屋は、丑松の菊松を料理番に迎えて、営業を再開し、再開資金五十両を廣島屋が貸してくれます。

更に、顔の広い廣島屋が、客を連日の様に連れて参りますから、そんな五十両の借金も三月で返済できる大繁盛です。

そんな復活した銭屋安兵衛での丑松の生活も、アッと言う間に三年が経過した、九月の事で御座います。


この月、九月十四、十五日の両日は、地元大鹿野明神の祭礼で御座います。

安兵衛「菊さん!菊さん!」

丑松「へぃ!何でしょう旦那。」

安兵衛「明日の十四日の宵宮から、お客様がひっ切り無しに見える。明日は明け六ツから仕込を頼みますよ。

何時もより半刻早い七ツ半に店を開けて、売る物が無くなり次第の店仕舞いですから。宜しくお願いしますよ。」

丑松「分かっています。もう、三年目ですから、十五日の分も仕込んで、十五日は九ツに店を開けて売り切り御免!ですよね?」

安兵衛「その通りだ。一年で一番のかき入れ時だから、菊さん!宜しく頼みましたよ。」


十五日の五ツには銭屋は売り切り店仕舞いとなり、今年も二日間で、店と仕出しで五十両を超える売上を記録し、恵比寿顔の安兵衛でした。

安兵衛「菊さん!ありがとう。今年もご苦労様でした。二日間のご苦労賃だ。少ないが取って下さい。明日は休みにしますから、今夜は外で酒でも頂いて、鋭気を養って下さい。」

丑松「旦那!ありがとう御座んす。ところで、若旦那の顔が見えませんが?」

安兵衛「あぁ、安太郎は仕出の掛取にやらせたんだ。」

丑松「若旦那は、良く働きますよねぇ。遊すびたい年頃なのに。」

安兵衛「倅はチッと硬過ぎるよね、菊さん。時には遊びの一つも教えてやって下さい。私も若い頃から働き詰めで、遊びを知らないから、宜しく頼みますよ。」

丑松「博打や女は、知らない方が男は幸せかも知れませんぜ、旦那。」


そんな事を話して、丑松は取り敢えず、祭礼で稼がせて頂いた、大鹿野明神へお詣りしてから、居酒屋にでも行こうと、大鹿野神社を目指します。

大鹿野に来て早三年。丑松は今日安兵衛から頂いたご祝儀を足すと、持ち金が二十八両に成っておりました。

あと二年か三年辛抱して、持ち金が五十両に成ったら、お半に逢いに行きたい!そんな事を思うのでした。



つづく