血の滴るアジ切り包丁を、地面に突き刺して、一つ大きな息を吐く丑松。側(かたわら)で様子を見ていました女房のお半が、パラパラと駆け寄りまして、
お半「丑さん、怪我は無いかい?其れにしても、大変な事に成っちまったねぇ。」
丑松「ハァーハァー、もうこう成ったら仕方ねぇ〜。元々叩けば埃の出る身体(からだ)だ。凡ゆる悪事に手を染めた凶状持ち。上役人に見付かれば、即、三尺高い柱の上で、首を跳ねられ晒し物にされる定めなんだ。
所詮、そんな俺が堅気に成って、女房子に囲まれて、幸せを掴もうなんてするから、神様がこんな悪戯を、なさるのかなぁ?!
まぁ、こんな所で、詰まらぬ愚痴を言っていても詮方ない。お半!俺は、今此処で自害する。お前は一人残って、俺と松太郎の菩提を弔いながら生きてくぇ。
お前は、まだ若い。新しい亭主を持ってやり直す事だってできる。いいかぁ、もう次は無頼漢(ヤクザ)には惚れるなぁ、
新しい亭主は、堅気の人にしろ!たとえ四文の駄菓子を戸板に並べて売る様な貧乏露天商でも、無頼漢よりはマシだ!忘れるなぁ?!」
お半「何を今更言うんだい?私を残して、お前さんだけ死んで、私はどうやって生きて行くんだい?頼みの松太郎が生きているなら、まだしも。松太郎は居ないんだよ?!私も一緒に死なせておくれよ!!」
丑松「そう言われりゃ、確かに道理だ。人には笑われるかも知れねぇーがぁ、汝(てめえ)と此処に浮名を流すといたそう。」
お半「丑さん!アタイも本望だよぉ〜」
此処で、地面に刺したアジ切り包丁を拾い、往来で斬り合って死ねる訳も御座いません。路地を抜けて地蔵尊の横手に曲がって来ました。
此の様な展開は、芝居で演る(やる)と実にどーも良い物で、一寸と舞台を半廻しにして、場面転換、丑松がお半の胸元を取って、
『覚悟は、宜いかぁ〜!!南無阿弥陀仏。』
てな科白で、一拍有って。。。
此れが講釈ですと、そうは行かない。いきなり、張り扇を一発叩くと、丑松がお半の喉元にアジ切りを立てております。いざぁ!と言う所で、後ろの方から声がする。
おぃ!早まった事をするなぁ、丑!!、待て、考え違いをしなさんなぁ!!
丑松「誰だ!俺を丑と呼ぶのは?!」
五斗「誰でもねぇ、俺は本所出裏の五斗兵衛市だ!」
丑松「何んだ、市さんかぁ。」
五斗「噺の様子は、後ろで全て聞かせて貰った。全く無理もねぇーとは思うが、丑!人間、死ぬほど詰まらぬ事は無いぞ。
そして死んだつもりに成れば、何んでも出来るって。心得違いをするなよ。兎に角、此処は一先ず、江戸から逃げろ。
其の間、お半さんの事が心配なら、俺が預かって面倒見てやるよ。丑!、そうしろ、人の噂も七十五日って言うだろう?
熱りが冷めたら又江戸に戻って来れる。そしたら、お半と二人堅気に成って、上役人の目に付かない様に、ひっそり暮らせば宜いんだよ、丑。」
丑松「有難てぇーけど、江戸を売って旅するだけの銭が俺には無ぇ。」
五斗「心配するなぁ、二年も三年も逃げてられる様な銭は無理だが、十二、三両なら俺が何とか都合する。」
丑松「じゃぁ、市さん!アンタの好意に甘えてそうするよ、捕まったら百年目だ。しかし、お半!汝はどうする?」
お半「確かに命は一つ、死んで花実咲くものか!って言うからねぇ。アタイも、市さん所に世話になって、お前さんの帰りを待つよ。
奥山の茶屋して、待ってるから、丑さん!きっと帰って来てお呉れよ。無理しないで、体に気を付けてお呉れ!」
五斗「お半さんの言うとおりだ、田舎に行って、他人様に紛れて暮らす事になる。水も違うし、何かと江戸が恋しくはなるだろうが、辛抱して耐えておんなさいよぉ。
其れから、此れが俺からの餞別だ。幾らも入っちゃいないから紙入れごと持って行きなぁ、丑!達者でなぁ。」
丑松「本にすまねぇ、恩に着るぜ。お半の事を頼む。お半、必ず、帰るからなぁ!」
五斗兵衛市から貰った紙入れを懐中に仕舞い、闇の中へと消えて行った丑松。江戸を離れて逃げるとは言いましても、行く目処(あて)が在りません。
取り敢えず、困った時の常套手段、下谷練塀小路の河内山宗俊宅を訪ねて行き、河内山から知恵と助言、助勢を貰おうと致します。
一方、野間佐十郎こそいい面の皮で、武士が途中三途(とちゅうさんど)つまり間夫して殺されたと知れて、家は改易となり、死体もお虎と一緒に取片附(とりかたづけ)となりました。
夜が明けるのを待って、下谷練塀小路の河内山宗俊宅を訪れた丑松です。
丑松「御免下さい!丑松です。」
安次郎「丑松兄ぃ!早いですね。」
丑松「河内山の御膳は、起きてらっしゃるかい?」
安次郎「ハイ。では直ぐに取次しますから、お待ち下さい。」
安次郎が河内山に、丑松が来たと知らせると、直ぐに奥へと通されます。簡単に丑松が経緯を話しまして、
丑松「兎に角、戻って一年も経ちませんが、もう一度、江戸を離れて旅に出ます。今度は二人人を殺しておりますから、いつ帰れるか分かりませんので、まずは御膳に暇乞いに参りました。」
宗俊「しかし、よく五斗兵衛市が止めてくれた。喧しい事に聞こえるかも知れないが、『生き難く、死に易し』だ。
人間、死ぬほど詰まらない事はねぇーと、常に思えてよ!丑松。さて、何処へ逃げたら良いか?指図をしてやりたいのは山々なんだが、
此の河内山宗俊、ろくに旅をした事が無く、其の方面には、トンと疎い。力に成ってやりたいが、此ればかりは助言も知恵も浮かばぬなぁ。誰か!代わりにいい知恵は無いか?!」
江戸から殆ど出た経験の無い河内山、隣の部屋で唐紙越しに聞いている取り巻き、兄弟分に助け船を求めると、唐紙を開けて一人の男が入って参ります。
入って来たのは、坂本の多吉と言う男です。
多吉「御膳、話は次で全て伺いました。丑松兄ぃ!其れにしても、飛んだ災難でしたねぇ。」
丑松「おぅ!多吉かぁ、馬鹿な事になっちまった。もうこうなったら仕方ねぇ、何処か遠くへ逃げようと思うんだか、心当たりは有るかぁ?」
宗俊「どうだぁ、多吉、俺はどうも旅が明るくない。上役人の目に留まり難くて、丑松みたいな料理人が隠れて居られる、宜い工夫は無いかい?」
多吉「はい、宜しいでしょう。付きましては、準備の費用として二分頂けますか?」
宗俊「何か、考えが有るのかぁ?」
多吉「へぇ、少々。」
宗俊「分かった。ほら、二分だ。」
二分の銭を持った坂本の多吉が外出して、一刻半程で戻って参りました。買って来たのは、股引、腹掛、三尺、鯉口の半纏などを古着屋で集めて来ています。
宗俊「こんなモンで、何に化けるつもりだ?」
多吉「玄関の外には、天秤棒と盤台までありますから、上州あたりからやって来た仕入れ帰りの田舎の魚屋に化けて、先ずは江戸を出ます。」
丑松「それで?出た後は、何処へ?」
多吉「秩父に、アッシが六年程前に世話になった料理屋が在りまして、兄ぃを其処に紹介しますんで。詳しい段取りは旅の途中に、道道お話します。」
丑松「分かった!有難うよ、多吉。」
宗俊「此れは、俺からの餞別だ、丑松。明日、朝早く、此処を立つと宜い。」
河内山からの十両の餞別を受け取った丑松は、多吉の仕入れた田舎の魚屋に化けて天秤棒に盤台を担ぎます。
一方、案内役の多助は、縞の羽織に縞の着物と言う町人風の粋な服装(なり)で、丑松から付かず離れず歩いて来ます。
宗俊宅を出て江戸を離れ、椎名町へと入ります。更に、赤塚を通り白子へ。この白子の先に大きく開けた原が在りまして、此れが通称『膝折の原』と申します。
現在の地名で言うと、新座、北朝霞、和光市あの辺りでありまして、朝霞市に膝折町と言う町名が今も残っております。
多吉「此処まで来れば、もう上役人の目に留まる心配はありません。着物を交換しましょう。」
丑松「どう言う事だ?」
多吉「だから、秩父とは言え名代の料理屋へ、兄貴を紹介します。其れが魚屋の格好じゃまずいでしょう。
其れに、俺は此れから江戸表に帰りますから、田舎の魚屋が仕入れに来た態で入るのは、好都合なんです。一石二鳥だから着物を取り替えます。
そして、兄貴は、秩父の『大鹿野』と言う所へ行って下さい。其処に先程も言った名代の料理屋『銭屋安兵衛』が在ります。」
丑松「大鹿野の銭屋安兵衛だなぁ?」
多吉「『おがの』は、オは大きい、ガは動物の鹿、ノは野原の野です。銭屋は、繁盛している大きな料理屋ですから、大鹿野に着いて人に聞けば分かります。
銭屋の亭主は、安兵衛さんと言って面倒見の宜い面白くて明るい人です。坂本の多吉からの紹介で来たと言えば、必ず、面倒みてくれます。」
丑松「そんな良い人の店を、多吉!何んで辞めたんだぁ?」
多吉「三年半か、四年ぐらいお世話になり、大鹿野も安兵衛も大好きでしたが、若かったから、江戸から来た客達の江戸の噂噺が耳の毒なんですよ。
その毒に当てられて。。。もう一度、江戸に戻りたい!と、思ってしまったんですよねぇ。其れで銭屋飛び出して、今に至る!以上報告終わり。」
丑松「俺も三年、江戸を離れて逃げていたから、お前の江戸恋しくなった気持ちは、宜く分かるぜ。」
多吉「其れから、もう一つ。此れも大切な決め式なんで、丑松兄ぃには、守って欲しい事があります。」
丑松「何だ?!」
多吉「そんなに難しい噺では有りません。闇の丑松と名乗らずに、両國は米澤町の『菊松』と名乗って下さい。
と、言うのは、六年前、銭屋を暇乞いした時に、必ず俺の穴を埋めるぐらい腕の良い料理人で、菊松って言うのが居るから、其奴を銭屋に紹介します!と、伝えてあるんですよ。」
丑松「そいつは、用意の宜い事だが、俺が菊松を名乗って勤めていて、後から本者の菊松が、銭屋に乗り込んで来る何んて事にはならないのかい?」
多吉「ご指摘はご尤もですが、其の点は大丈夫なんです。菊松の奴は、今、南部の八戸で寿司屋をやっているって噺なんで、秩父へは来られません。」
丑松「そうなのか?よし、分かった。両國米澤町の菊松だなぁ?丑松が菊松になるだけだから、うっかり間違えそうで怖いなぁ。しかし、何から何まで、多吉!世話になったなぁ、恩に着るぜ!
其れからなぁ、俺はもう若くないからか?この旅をお前と二人だったから、此処まで来れた気がする。此処でお前と別れて一人になるのが、本当に心細い。
多吉!もし、俺が秩父で病に掛かって江戸に帰れない時は、頼むから『江戸の風』を連れて、見舞に来てくれ!!お前ぐらいしか、頼める相手が居ねぇーから。」
多吉「何を弱気になってるんです!丑松兄ぃらしく無いですよ。五年も辛抱したら、江戸に帰って来れますって。必ず、直ぐに手紙を書きますから。
其れと最後に、安兵衛親方に、坂本の多吉が宜しくと言っていたと必ず伝言して下さいよ、宜しくお願いします。」
丑松は、天秤棒に盤台を背負って江戸へと帰る坂本の多吉が見えなくなるまで、手を振り続けた。
つづく