そんな関係が半年程続いた、或る日の事です。小半が仕事に出て、お虎が独り家に居て、ぼんやり外の方を眺めながら、団扇を持ってうとうと、舟を漕いでおりました。

其処へ、十日ぶり位に野間佐十郎がやって参ります。

野間「御免よ!」

お虎「あらッ!野間の御膳、いらっしゃいませ。ただ、今日は小半が外出しておりまして、居りません!お気の毒様です。」

野間「いやぁ、構わん。小半が居らん方が好都合かも知れん。実はなぁ、今日は暇乞い(いとまごい)に拙者参った。此れが最後の訪問になる。」

お虎「其れでは?お役目で、遠方へでも行きなさるのですか?!」

野間「そうでは無い。拙者は江戸に居るが、此の度なぁ、父上が度重なる持病悪化の為に、登城も儘ならぬ由、隠居なさる事が正式に決まった。そこで、長兄の拙者が、其の家督を相続する事に相成った。」

お虎「其れは、おめでとう御座います。家督を相続されただけであれば、遊びに来れるでしょう?野間様は、相続前から殿様の名代としてお仕事をなさってましたから。」

野間「そうではあるが、更に忙しくなる。だから、なかなか遊びには来られぬのだ。」

お虎「ハハぁ?御膳様、いやもう家督を相続されたから、野間のお殿様、何処ぞから何やら耳に入りましたね?小半の噂が。」

野間「おふくろ殿が、そうまで言うならば、敢えて言おう、小半には亭主と息子が有るそうではないか?

そんな女(おなご)の所へ、三千五百石の直参が遊びに来ているなどと、噂が立てば拙者は切腹、御家は断然だ!由に、もう遊びには参らぬのだ、分かってくれ。」

お虎「では、こうしましょう。私が餓鬼の松太郎の方を始末しますから、お殿様は、亭主の丑松を斬り捨てて下さい。

邪魔者が二人とも消えれば、小半を私が必ず説得致します。」

野間「小半を、拙者の奥にしてくれるか?」

お虎「妾ではなく、奥様に?殿様は、まだ、お一人?」

野間「そうだ。見合いは何度かしたが、小半の様な麗しき姫は現れなんだ。小半を奥にできるなら、おふくろ殿も、大事に致そう。直参の義母だからなぁ、願いは思いのままだ。」

お虎「そうなれば、私は誠に夢の様な楽隠居が出来ます。ありがたや!ありがたや!」


そんな話をして居りますと、其処へ、格子戸を開けて子守ッ子のミー坊が、狂った様に泣く松太郎を連れて入って参ります。

ミー坊「お虎婆さん!松ちゃんがえらく泣いて泣き止みません。こうなると、母様でないと治まりませんから。」

お虎「大事なお客様だから。。。分かったよ、松公は其処に下ろして、泣かせるだけ泣かせりゃ宜いんだ。一刻もは泣かないから、泣き疲れる迄泣かせるんだ。

其れから、ミー坊、お半のオバちゃん、松の阿母っかぁーを呼んで来てくれ。松が大変だと言えば飛んで来るから、頼んだよ。」


子守ッ子のミー坊が出て行くと、土間の隅に下ろされた松太郎は、其処に立ったまま、相変わらず泣き狂っております。

野間「おふくろ殿、あの子が小半の息子か?」

お虎「左ぃです。アレが餓鬼です。煩いよ!松、お客様だから、少し静かにおし!!」

野間「可愛い盛りではないかぁ?!孫だろう?あやしてやらんで良いのか?さっきまで、あの様な座興を言い合っておったからとて、無理せんで宜い、抱いてやりなさい、おんぶしてやりなさい。」

お虎「座興?!殿様、こっちは真剣なんだ!私しゃ自分の出世の為なら、孫だろうと娘だろうと、腹括って殺すと言ってるんだ。

だから、殿様も、腹括って亭主の丑松の方を斬り殺して下さい。野郎は千住小塚原の柏屋で料理人をしています。

料理人たって元は悪党(ヤクザ)ですから、闇討ちにしても、無礼討ちでカタが付きます。公儀(おかみ)で調べられると、凶状持ちですから、斬り捨て御免に成りますって。」

野間「確かに、悪党の一人や二人、殺す腕に覚えは有る。」

お虎「ならば、殿様が丑松を殺(や)りゃぁ、私が小半の事は、何とか説き伏せて言う事を聞かせます。」

野間「然し、貴様、本当に、あの子を殺せるのか?」

お虎「念には及びませんよ、殿様。先に、証拠をお見せしますから、よーく見ていて下さい。ェェ。。。何時まで此の餓鬼は泣いてやがんだい?!さぁ!こっちへ入ぇれ!!」


そう言ってお虎は、入口の土間で立って泣いている松太郎の手を引いて中へと入れる。すると、更に火の点いた様に激しく泣き叫ぶ松太郎。

お虎「何故て(どうして)、そう泣くんだかぁ?!」と、言いながら、松太郎の鼻と口を手で塞ぎます。息が出来なくなり、ぐったりする松太郎。

其の体を横に抱えて、更に今度は左の手で喉を締めて一気に捻ります。すると一瞬激しく手足をバタバタさせて事切れて仕舞います。

だらんとなり動かなく成った松太郎の死骸を、部屋の隅に放り投げ、野間佐十郎と顔を見合わせニコッと笑うお虎、正に鬼婆で御座います。


お虎「ふぅー、脆いもんだ。さっきまでギャーギャー煩く泣いていやがったのに、もう寝てしまった、どうです殿様!私の手際はこんなもんですよぉ!!次は貴方の番ですからねぇ。」

野間「うぅー、承知した。必ず殺ってしまうから安心しろ!そうなれば、小半は拙者の奥、おふくろ殿は三千五百石の御隠居だ。」


丁度その時、格子戸から立派な雪駄が見えたので、おそらく野間佐十郎が来ているなぁ、と、玄関前に立った小半の耳に、

『松太郎は私が殺ったから、次は貴方の番、丑松を無礼討ちで斬り殺す』

と、言う物騒な悪企の声が聞こえて来ました。一瞬躊躇した小半でしたが、この目で松太郎の事を確かめようと思います。


小半「阿母っかさん!今帰りました。」

お虎「お半かい?!今、ミー坊にお前を呼びにやったんだよ、入れ違いだねぇ。と、言うのも、野間様がお出になっててねぇ。」

小半は、直ぐに部屋の隅に倒れている松太郎を見て、此れを抱き寄せます。もう冷たく成って動かない息子、そっと其の場に下ろして言い放つ小半。

小半「有難う、阿母っかさん!おおきに、大変お世話になりました。お礼を申します。」

お虎「お前!聞いてやがったねぇ?!是には色々と訳があるんだよ。」

野間「まぁ、小半!此方へ昇がれ!!」

小半「私は、そんな恐い人たちの側へは行けません。」

と、言って小半は、表へ飛び出して行く。此れを見て、野間佐十郎とお虎も必死で跡を追いかけます。

必死に逃げる小半、行き交う人にぶつかりながら、千住の柏屋を目指して走ります。一方、野間佐十郎とお虎は、小半に喋られてはまずいと思いますから、此方も必死に追いかける。

もう日が落ち暗くなり始めた頃、千束を過ぎて三ノ輪近くで、小半は誰か通行人の男にドン!と、ぶつかり倒れてしまいます。直ぐに後ろまで来ていた野間佐十郎とお虎は締めた!と、思います。


男「何しゃがる!気を付けろ。」

小半「其の声は丑さんだねぇ!!」

男「お前は小半、何してんだ?こんな所で?!」

偶然にも、今日は客の引きが早く、家路につていた丑松と小半はぶつかったのでした。そして、さっき玄関前で聞いた話を丑松にしますから、丑松が怒った!怒った!

サラシに巻いた包丁ん中から、アジ切り包丁を抜いた丑松。此れを持って野間佐十郎の前に飛び出します。


丑松「貴様が野間佐十郎かぁ!松太郎の仇だ、覚悟しやがれぇ。」

野間「無礼者、返り討ちにしてくれる。」

野間は細身の大刀をスッと抜いて正眼に構えます。

一方、丑松は莨入れのキセルの先に結んでいた黒い化粧紐を、アジ切り包丁の柄の穴に通して潜り付け持っております。

そして、このアジ切りを鎖鎌の様にブルンブルン回しながら間合いを取ります。

思いもよらぬ丑松の攻撃に、野間佐十郎はなかなか斬り掛かれず、ジリジリ下がると背後の溝に雪駄の踵が当たります。

すると、我慢できなく成った野間佐十郎が、斬り掛かり、此れを丑松が軽く体を交わして、回しているアジ切りの円を小さくし、柄を持って野間の脇腹へと突き刺しました。

あまりの早技に腹ワタが飛び出して、刀を握ったまま絶命する野間佐十郎。此れを見たお虎が、腰を抜かして命乞いを始めます。


お虎「許してくれぇ!コイツが悪いんだ!野間の御膳に騙されたんだ!三千五百石の御隠居してやるとか言って。。。丑松!許してくれぇ。」

丑松「直ぐ楽にしてやるよ、おふくろさん!」

丑松は、腰の抜けたお虎の背後に回り髻を掴んで喉元へアジ切りをお見舞いした。

鉄の臭いをさせながら血煙が上がり、ギャッと短い魂(たま)消える声と共に、鬼婆のお虎は仰向けに倒れてしまいました。



つづく