祈りながら実家『讃岐屋』の前で待つお君の前に、満面の爽やかな微笑(えみ)で、金子市が現れます。
金子市「お君さん!辛(やっと)詫びが叶ったよ。中へお入りなさい。」
阿父っあん!阿母っかさん!御免なさい!!
と、叫びながら、流れ出す涙を拭く事も無く、お君が讃岐屋へ駆け込んで、両親といつまでもいつまでも抱き合うのでした。
五兵衛「市之介さん、大坂に暫くは居てはるつもりでっか?」
金子市「えぇ、出来れば一ヶ月くらいは。」
五兵衛「もう、旅籠はお決まりで?既に、差し宿をしてなはるのでしょうか?」
金子市「いいえ、此れから探すつもりですが。」
五兵衛「だったら、うちで良ければ、部屋はぎょうさんおますさかいに、娘のお礼ではありませんが、是非、宿代わりに使ってやって下さい。」
金子市「エッ!本当ですか?其れは有難え。是非、お世話になります。」
父親の其の言葉に、金子市以上に嬉しそうなのはお君でした。
その日は、娘が帰って来た祝いと金子市へのお礼の宴を、讃岐屋では店を休んで、奉公人の慰労も兼ねて催された。
讃岐屋五兵衛を娘のお君は、吝で因業だと言っていたが、ちゃんと締まりをして質素に暮らしているが、お金を使うべき時には、気前良く散財できる人物なのだと、金子市は思った。
そんな経緯で、金子市之丞は五兵衛方に居候となり住む事になるのだが、いつの間にかお君と割りない仲になり、
そのままズルズルベッタリで、讃岐屋の婿となります。幸いにも金子市は読み書き、算盤、更には医術の心得も有りますから、
名前を金子市之丞から金田良春に改めまして、讃岐屋の近くに、素読指南所と診療所を兼ねた家を借りて、夫婦で独立致します。
そんな平穏な生活が大坂の地で、二年あまり続いたある日の事でした。頃は三月。桜が満開となり、お君を連れて住吉さんへと参詣に来た金田良春。
門前町を、アレや是やと見て廻り、茶店で休憩したり、芝居小屋へ寄ったりして、夜は天王寺の料理屋・姥小屋(うばごや)と言う店へと入ります。
酒肴を一通り言い付けて、案内された座敷に座り、夫婦水要らずで話しながら、料理が出るのを待っております。
お君「お前さん、久しぶりに二人で出歩けて、今日は本に宜い一日でした。」
良春「偶には、こいうのも宜いなぁ。私は大坂へ参ってからは、毎日がのんびりとした生活で、ゆっくり時が流れる。
人生で、こんなに平穏な暮らしを、した事が無かったから、是が幸せと言うものなんだろうなぁ。」
お君「嫌ですよぉ!旦那様。年寄りみたいな言い方になって。」
良春「あとは、お君、お前にややが授かると、本に、我が家は言う事無しなのだが。」
お君「そうですねぇ、私も貴方のお子が早よう欲しゅう御座います。」
二人がそんな事を話していると、斜め前(ハスむかい)の一段高い位置の座敷に居ります、目つきの悪い男が、二人の方を時折、チラッと見ているのに、良春が気付きます。
良春「時に、お君。あの斜め前に座っている髭面の男、お前の知り合いか?」
お君「いいえ、全然。」
良春「知らぬかぁ、誰であろう?先程から嫌な目付きで、此方を見ておる。酒が不味くなるなぁ。」
粗方食事を済ませた所で、良春が座敷を立って、此方を覗き見ていた件の男の方へ歩み寄り、「何か、私に用ですか?」と言うと、その髭面がニタリと笑って答えました。
髭面「服装(なり)が、そんな医者みたいな様子だし、髷も大髻じゃねぇーから、少し自信無かったけど、浅草鳥越の金子の旦那ですよね?!」
良春「誰だ!!貴様。」
髭面「アッシですよ、磯五郎。ホラ、本所で一緒に何度か悪さをした。」
良春「磯五郎?本所でぇ。。。アッ!佐渡を島抜けして来た磯五郎かぁ!!」
髭面「大きい声では止めて下さいよ、佐渡を抜けたなんて。貴方も同じ凶状持ちだから分かるでしょう。島抜けと畚抜け、何かの縁です、仲良く願います。」
良春「今、貴様は何をしておる?」
髭面「お城の中元部屋で、雑用を引き受ける下男兼足軽みたいな事をしております。ちゃんと、堅気になっておりますから、安心下さい。で、金子様は?」
良春「俺は今宮戎で、医者と寺子屋だ。此方も堅気になって暮らしておる。」
髭面「しかし、相変わらず良い女(タレ)連れてますねぇ、旦那!」
良春「女とか言うなぁ!女房だ。」
髭面「ご内儀でしたかぁ、失礼しました。吉原じゃぁ、今兒雷也!と呼ばれてモテてていた金子の旦那も、年貢の納め時ですかぁ?」
良春「まぁ、其の様な所だ。俺は、もう直ぐ帰るが、是で、ゆっくり飲んで行ってくれぇ。」
髭面の男は、金田良春の昔、金子市を良く知る凶状持ち、磯五郎と言うゴロツキだった。紙入れから裸銭で五両渡して、帰った良春でしたが、是が後々事件となります。
此の磯五郎、大坂城の中元部屋で働いている堅気だなどと言っておりましたが、全くの大嘘で、
大坂は西成の長町、天王寺辺りをゴロついて、相変わらず素人を泣かす悪党で御座います。
こんな奴に、「今宮戎に医者で居る」なんて教えてしまいましたから、この磯五郎、時々、良春の元を訪ねては、三両、五両と金を無心致します。
最初(ハナ)のうちは、良春の逆鱗に触れないように、時々、小額だったのが、根が悪党ですから、徐々にエスカレーションして、五日に一度、十両からの銭の無心に来る始末です。
そして、良春が凄んで刀の柄に手をやると、『貴様が凶状持ちだと城代にバラす!』と、開き直るからたちが悪い。
ほとほと困り果てた良春でしたが、たまたまその留守の家へ、お君が一人留守番をしている所に、磯五郎が金の無心に参ります。
磯五郎「金子さん!アッシです。磯五郎です。」
お君「ハイ!何の御用でしょうか?」
磯五郎「ご内儀様で?旦那さんはいらっしゃいますか?」
お君は、天王寺の姥小屋で見た髭面だ!?とは思いましたが、磯五郎が何者かを知りません。
お君「すいませんね、あいにく留守にしております。お手紙、ご伝言であれば、お取次致しますが?!」
磯五郎「本当に留守ですか?居るんじゃねぇーですか?奥に。」
お君「居留守だとでも言うんですか?失礼なぁ!!」
磯五郎「何だとぉ、この女(あま)!!人が下手に出てりゃぁ、のぼせやがって!」
磯五郎、いきなり大声で怒鳴り、お君の胸ぐらを掴み突き飛ばします。お君が思わず悲鳴を上げてもお構い無し。
そのまま、『金子市!居たら返事をしやがれ!』と、怒鳴りながら、奥へと唐紙を開けて、土足で進んで参ります。
結局、散々中を荒らした挙げ句、『金子市が帰ったら、言っとけ!磯五郎が又銭を貰いに来ると。』と、捨てセリフを残して帰ります。
帰宅した良春は、此の事をお君から聞いて激怒します。直ぐに、長町の磯五郎が居そうな盛場を探し歩いて、磯五郎を捕まえて、足腰が立たなくしてしまいます。
磯五郎の方は、金子市の良春を恨みに思い根に持ちますが、仕返しする様な腕も度胸もありません。
この一件で磯五郎は、睨みが全く利かなくなり、長町、天王寺界隈には居られなくなりまして、何処かへ姿を晦まします。
一方、良春は女房のお君に、全ての過去を告白します。流山で盗賊だった事、江戸表では盗賊の罪で火盗改に召し捕られたが、畚を抜けて牢屋を逃げた事。
自身は、全国に手配書が廻る凶状持ちで、もし捕まると責めがお君や讃岐屋五兵衛にも及ぶ事になる。
だから、お君を離縁して今宮の人別帳からも抜け、無宿者として一人再び旅に出るつもりだと説得するのですが、
お君は、別れるのは嫌だと言い、其れでも捨てて貴方が逃げるなら、私は自害するとまで言われて、金子市の良春の決断が鈍ります。
そのまま大坂今宮で、良春とお君の平穏な生活が暫く続くのですが、突然、その終わりの時がやって参ります。
あの磯五郎が、藤井寺で盗みを働き召し捕りと相成ります。大坂奉行所での吟味で、島抜けの凶状持ちだと直ぐに分かり、江戸表へと送られます。
そして、江戸町奉行所のお白洲で、江戸の恨みを長崎で、では有りませんが、大坂の恨みを江戸で晴らさん!と、大坂今宮戎に金子市が医者に化けて居ると白状します。
直ぐに早馬にて、江戸町奉行から大坂奉行と城代へと此の事が伝えてられて、まだ東雲の、寝ていた金子市こと金田良春は、天満与力取方に呆気なく捕縛されてしまいます。
『遂に、その時が来たかぁ!!』
と、金子市。素直に大坂のお白洲で罪を認めて、唐丸籠に乗せられて、江戸へと送られまして、取調べの後、伝馬町の大牢へと入れられます。
つづく