畚抜けした金子市、取り敢えず、吉原に程近い下谷、上野辺りの空き寺に潜んで、明るい昼間は行動せず、闇が支配の夜になると頭巾を深く被り行動を開始致します。
しかし、『直侍を最近見ませんか?』などと、博打や廓での顔見知りに声を掛けて廻る訳には参りませんから、直侍が出入りしそうな、賭場の前、料理屋の前で張り込みしたり、
本郷の大根畑に在る自宅へも、二度、三度と行っては見ますが、主人片岡直次郎の姿は其処には御座いません。
『直侍の野郎、俺が畚抜けしたと聞いて、かなり用心してやがるに違いねぇ〜』
そんな事を思う内に、月日は流れ早十月。かなり寒さが骨身に染みて、徐々に厳しく成り始めております。
その日は入谷の賭場の前で直侍が来ないか?と、張り込んでみたが、今日も空振り。直侍は姿を見せません。
上野の四ツの鐘を聞いて、その日の張り込みを諦めた金子市、坂本通りから入谷田圃を抜けて、深夜迄営業している薬湯を提供するお湯屋へと参ります。
金子「番頭、まだ入れるかなぁ?!」
番頭「えぇ勿論です。まだ、あと一刻は入れますから、ゆっくりとどうぞ!!」
金子「有り難い、ならば、糠袋と三助を頼む。」
番頭「畏まりました。富松!お侍様だ、流しが出るよぉ!!」
金子市が掛かり湯をして、湯船に入り待って居ると、富松という毛だらけでガタイのいい三助が、ノソりノソりと現れます。
富松「お侍様、湯加減はどうですか?温くねぇーだか?」
金子「温くはない。拙者にはいい湯加減だ。」
富松「十分温まったら、洗い場に上がって下さい。その桶を床机にしてケロ。」
暫くして、金子市が桶に腰掛けると、先程来動きは鈍い癖に三助の富松、一転擦る手だけはやたらと早く、金子の体から垢が見る見る落ちて、何とも不思議な心地になっております。
すると其処へ、一人の按摩が入って参りまして、
按摩「親方!まだありますかなぁ?!」
番頭「是は是は、藪之市さん!お前さんは何時もこの時間に来るじゃないかぁ、お待ちしていましたよ!サッどおぞ。」
按摩「そうですかぁ、世辞でも嬉しいよ、親方。私は療治に呼ばれる合間に此処へは来るから、誠に忙しくてぇ。。。誰かお客様が、他にも居てなさるのかい?」
番頭「お武家様が、お一人入って居なさって、富公がお背中を流している最中だ。」
按摩「そうでしたかぁ。」
番頭「藪之市さんは、今夜はもう終わりかい?」
按摩「今日は、もう疲れたからそうしたいのは山々なんだが、大口楼の寮に、此の後、行かねば何ねえんです。大口の旦那には色々と、世話になっているから断れなくてぇ。」
番頭「大口楼と言えば、送り込まれた蔦屋からの客が、えらい大泥棒で、取方が十人からも出てて、大捕物が在った遊廓だぁねぇ?」
按摩「そうだぁ、享保の次郎左衛門以来の廓ん中の大捕物だったそうで、其れにしても、その大泥棒に大そう惚れていたのが、全盛の三千歳花魁でねぇ。
間夫が大泥棒で、極悪非道の加役に捕まったもんだから、三千歳花魁は、所謂、ぶらぶら病に掛かって、満足に、客も相手に出来なく成ったそうなぁ。
その伏せってなさる三千歳花魁に療治を頼まれて、大口楼の寮へ行くんでさぁ。」
番頭「そうだったのかい。三千歳花魁も、男運がない人だねぇ。前の間夫が、あの片岡直次郎、直侍の奴で、次が大泥棒とはねぇ。」
按摩「その大泥棒、加役に捕まって大伝馬町の牢屋に入れられ、連日拷問されていたそうですが、二十日目くらいに畚抜けして、今は娑婆へ逃げていると聞きました。」
番頭「俺も聞いた。もう、四ヶ月以上前だと言うのに、その大泥棒、まだ捕まってないよね?藪之市さん。」
按摩「えぇ、まだ逃げていますね。確か名前は『金子市』。もう、江戸には居ませんよ。上方か?奥州、もしかすると、四国、九州まで、逃げているやも知れません。」
そんな番台と脱衣所の会話が、湯船の金子市にも筒抜けですから、是は千載一遇!!三千歳との事にけじめを付ける良い機会だ。
と、金子市。湯船を飛び出て着替えを済ませると、番台の番頭から紙と硯を借りて、何やら文を手短に、サラサラと書き上げて、湯屋の外で、藪之市が出て来るのを待ち伏せ致します。
金子「おやぁ?!藪之市さんじゃありませんか?」
藪之市「どなたですか?」
金子「私ですよ、嫌だなぁ忘れたんですか?よく療治して頂いた。」
藪之市「其の声は、材木町の横山さん!!」
金子「御名答!!横山です。」
藪之市「お久しぶりです。何時、江戸に戻ったんですか?学者を止めて、日光へ帰ってお侍になられたのでは?」
金子「はい、ちゃんと、侍には成っております。ほらっ!触って下さい。」
金子市、藪之市の手を取り、二本の刀と袴を触らせます。
藪之市「本当だ!!横山さん、おめでとう御座います。それでぇ、お侍に成られて、江戸へは何の用で見えたのですか?」
金子「主人家の名代で、ちと、寺方に用ができましたので、一昨日から江戸へ。其れから大口楼の三千歳に、渡したい手紙が有りましてなぁ。。。」
藪之市「大口楼の三千歳花魁にですか?横山さん、何の手紙ですか?まさか、付文?貴方、隅に置けない人だぁなぁ。あの三千歳花魁に付文するなんて!!
そして、もの凄い強運の持ち主ですね。実は、私は是から、その三千歳花魁に呼ばれて、大口楼の寮へ出向くんです。」
金子「エッ!!何と言う偶然。是はきっと神様の思し召しだ!!藪之市さん、この手紙を三千歳に渡して下さい。
此の手紙を、貴方が三千歳に渡すと、貴方はご褒美として、花魁から五両の金子が貰えます。何故なら、藪之市に五両上げなさい!と、私が此処に書いているからです。」
藪之市「ご、ご、ご、ご五両!ですか?」
金子「ハイ、五両です。」
藪之市「渡します。渡させて下さい私に。早く!五両、じゃなく、手紙をよこしなさい。」
目玉が算盤の玉と化した藪之市、金子市の手からひったくる様に手紙を持って、大口楼の寮へと急ぎます。
其の跡を付ける金子市。裏木戸から中へ入る藪之市を見送り、人通りが無いのを見極めて、山岡頭巾を取り其処で三千歳が来るのを待って居ます。
藪之市「お待たせしました、藪之市に御座います。」
遣手新造が、出て来て藪之市の手を取り、ハシゴをゆっくり登って二階の三千歳の部屋へと案内します。
二階へ上がると、琴の音が聞こえて来ましたが、藪之市には、何の曲やら分かりません。しかし、琴の音がする方に三千歳花魁が居ると、遣手に教えられましたから、其れを頼りに進みます。
そして心の中では『五両!五両!五両!』と、お念仏の様に唱えて前へと進みます。遂に、この唐紙を開けると、五両が居る所まで来て声を掛けます。
藪之市「遅くなりました。藪之市に御座います。」
三千歳「ハイ、藪さん!中へお入りなんし。」
藪之市「御免下さい。花魁、何時もご贔屓に有難う御座います。さて、本日は療治の前に、お渡ししたい物が御座います。」
三千歳「渡したい物?何んざましょ?」
藪之市「手紙、付文です。横山の旦那からですよ!!」
三千歳「横山ハン?何方の横山ハンざんしょ?ノックさん?やすしさん?。。。二人共、死んだざます。
それじゃぁ、まさか!!関ジャニ∞のユウ!!!」
藪之市「違います。日光へ行った材木町の横山さんですよ。立派なお侍に成られていました。ささッ!お手紙が是です。」
思い当たらない相手からの文でしたが、三千歳は其れを開きます。其処には見覚えのある手で書かれた『按摩の来た木戸で待つ』の文字。
市ハン!!
三千歳「有難う!藪さん、是は私の気持ち、受け取りなんし。」『五両!』と、心で叫びつつ、その包を開けると中に在ったのは、小粒が一つ、1/10の二分。
藪之市「あの〜、花魁!手紙に、五両って書いてありませんか?」
三千歳「付文を届けた按摩さんに、ご祝儀・酒手を渡しなさいと、在るだけざます。五両とは。。。
それより、藪さん、是は文のお礼とは別で、二両、お前様に差し上げます。少しの間、此処で、この爪を付けて、お琴を弾いてくんなまし。アチキは直ぐ戻ります。」
そう言って三千歳は、藪之市の指に、琴の爪を付けて、即席で音の出し方を指南します。そして、羽織を寝巻の上から掛けハシゴを降て裏木戸の前で叫びます。
市ハン!金子先生!!
金子「三千歳!、ここだ。」
三千歳「市ハン!、逢いたかった。。。ざます。」
胸に飛び込む三千歳を、力強く抱きしめる金子市。暫くは、二人に言葉は要りませんでした。が!!
金子「畚を抜けて四ヶ月。直ぐにお前の所へ、飛んで来たかったんだが。。。おたずね者の身だ。其れでも待った甲斐が有った。」
三千歳「市ハン、アチキを連れて逃げてくんなまし!!」
金子「三千歳!!其れは出来ねぇ相談だ!」
三千歳「なぜ?!。。。なぜ、ざます?」
金子「貴様は、所詮、籠の鳥。俺は、是から生まれ故郷の下総は流山へ帰って、我が姉上に、今生の別れを告げに参るつもりだ。
そんな長い長い旅に、三千歳!貴様の其の足が耐えられようはずが無い。」
三千歳「市ハン!お前ハンは、アチキを足手纏いと、此処で捨てなんしか?アチキは、お前ハンとなら、たとえ飢えて乞食に成っても本望ざます。覚悟を決めております。
そして、其れでも足手纏いだと、お前ハンが捨てて行きなさるなら、後生です。アチキを、その刀で斬り捨ててから、お行きなんし!!」
鬼気迫る三千歳の目の輝きに、金子市も覚悟を決める。この女を連れて逃げるよう!!と。たとえ、三千歳が言う様に、結果、其れが足手纏いでお縄となり、
残る二つの願いは露と消えたとしても、俺は後悔しないだけの決意ができた、そんな金子市は三千歳を連れて逃げ事を選択致します。
金子「三千歳!良かろう、お前を連れて逃げよう。」
三千歳「おおきに。此処で待って!市ハン。直ぐに戻ります。」
金子市に『連れて逃げる』と言われた三千歳。その場で、着の身着のまま『行きましょう!』と言えば、
結果は分かりませんが、此処で金子市に捨てられはしなかったのに、着物とお金を取りに寮へと戻る三千歳を見て、金子は料簡します。
あばよ!三千歳、いい夢を見させて貰ったぜ!
金子市は既に、流山へと立ったとは知らず、三千歳は、寮の二階へと上がり、自分の箪笥を開けて、虚しくも逃げる支度を始めます。
しかし、其の箪笥の環の鳴る音に、隣の部屋で琴と戯れていた藪之市が気付きます。『三千歳花魁が、慌てた様子で、なぜか?箪笥を開けていなさる?!』
藪之市は馬鹿ではありません。この三千歳の異変に気付き、次の瞬間、横山さんは語り!!偽者だ!と、ピンと来るのです。
直ぐに藪之市、そっとハシゴを降りて、遣手新造の部屋に行き、金子市が三千歳花魁を唆して、二人で逃げる算段をしていると注進致します。
驚いた遣手は、寮の小僧を大口楼へ使いに走らせて、亭主を呼びにやります。
又、自身は他の若衆と共に三千歳の部屋へ踏み込んで、逃げる支度の三千歳を取り押さえます。
市ハン!逃げてぇ〜
虚しく響く三千歳の叫び声。此れを金子市が聞く事はありませんが、金子市の一つ目の願い『悔いのない別れ』は成立した様です。
つづく