この天保の頃、表二番町に、五百石取りの火付盗賊改の『加役』に永井五右衛門と言う人が有りました。

この『加役』と言うのは、岡っ引に指図して、火付盗賊改方としての捜査権と召し捕り後の拷問による自白調書の作成までを行います。

いわば同心・与力に近い、それなりの身分の役目で御座います。

幕末のこの頃は、飢饉や幕府の経済政策の杜撰さから、盗賊の数が激増し治安の悪化が問題となります。

そこで、公儀では、無役の旗本衆に対して、『加役』を与えて、治安の良化に繋げようとしたのですが、

元々、無役の旗本などと言う者は、素行が悪く能力が低いから無役なので、そんな奴に捜査権と拷問取調べの権利などを与えたら、

其れこそ、是を悪用して、私的な恨みや、依頼主から銭を受取、無実の人間を「容疑者」として召し捕り拷問をする事が横行します。

『加役』は、容疑者がたとえ自白しなくても、調書に「召し捕り間違い」と記載して記録を残せば、一切お咎め無しと言う無法が許されてもおりました。


更に、この永井五右衛門の上役が、与力格の加役、牛込榎町に住む木川良助と申しまして、火盗改の中でも冷酷残忍で知られております。

悪党の間では、木川に召し捕りになるぐらいなら、町方へ自首すべしと言われているくらいで、この火盗の加役与力は、自宅脇に容疑者を留置する小屋まで持っており、

此処に、容疑者は檻に入れられ、鎖で繋がれて二十四時間いつでも木川良助の都合で、拷問を受けて白状を迫られます。

流石に、殺しは致したせんが、逆さに吊るして置かれたひ、三角木馬に乗せられ続けるのは日時茶飯事で、絶えず容疑者の叫び声、怨み節が小屋から聞こえて来ますから近隣に民家は在りません。

そんな毎日を、木川良助は過ごしておりますから、女房の来手も無く、良助の母親は、其れを心配しております。


母「良助や、私はあの盗賊たちの叫び声が、どうにも気味が悪く。。。公儀のお役目とは言え、人に恨まれる様な今の役目は、何とかなりませんか?

無役に戻され、たとえ、百石二百石の禄を減らされても、平凡で平穏な生活の方が母は良いと思うのです。

さすれば、貴方にも嫁の来手が在りましょうし、私も孫の顔が見られましょう。母親孝行と思って加役を降りる訳には参りませんか?」

良助「母上、何を仰せに成ります。私は今の加役与力が私の天職だと思うております。其れに、あの盗賊達の遠吠えは、私には籠の鳥の囀りに聞こえまする。

あれを人間の声だと聞いてはなりません。あれが聞ける故に酒が美味い!飯が美味い!と思える様でないと、加役の家族にあらず。

もし、母上がどうしても、あの盗賊達のあの声に耐えられぬと仰るならば、別荘へでも行って頂くしかありませんなぁ!!」


この様に言われた母親が、閉口してしまう程の『加役』の鬼が、木川良助なのです。その手下である永井五右衛門も、同じ類の『加役』の権化で御座います。

そしてこの永井五右衛門、唯一のお役目の息抜きが博打で御座いまして、直侍こと片岡直次郎とは、もう七、八年来の付き合いでして、

特に仲が良いと言う訳ではありませんが、知らない仲ではない。そんな深からず、浅からぬ微妙な関係で御座います。

ある日、永井五右衛門が稲荷堀の博打場から小網町の料理屋へ入ると、其処に直侍が居て声を掛けられます。


直侍「此れは、火盗改の永井の旦那じゃありませんか?水戸屋敷の盆の帰りですか?」

永井「そうだが、片岡、珍しいなぁ、貴様が俺に声を掛けて来るなんて、何んぞ在ったのか?」

直侍「一寸と、旦那のお耳に入れて置きたい噺が御座いまして、どうです?此方らへ来て一杯。ご馳走致しますよ。」

永井「気味が悪いなぁ、貴様が奢るなんで。」

直侍「まぁまぁ、そう言わず一献。」


そう言って片岡直次郎は、加役の永井五右衛門に酒を薦めて、自身が注文済の肴もご馳走致します。

直侍「えぇー、其れでですね、旦那。近頃、吉原に妙に金使いの荒い怪しい浪人者が居ましてねぇ。鳥越に道場を構えて居る金子市之丞って野郎です。

こいつが、二日と明けずに大口楼の三千歳花魁の所へ通ってて、大そうな銭を、連日、散財致しておるんです。

確かに、道場には五人程内弟子が居て、五百人からの門弟も抱えてはおりますが、所詮、道場主ですから、

其れが連日五十両だ、百両だと散財するのは、きっと裏では相当悪事を働いているに違いありません。そう思いましたから、此れは是非旦那にご注進をと思いまして声を掛けたんです。」

永井「そうかぁ、その金子市之丞は、いつから吉原に通っておるのかなぁ?」

直侍「恐らくこの一年から、一年半くらいだと思います。『今兒雷也』とか呼ばれて、いい気になってやすからぁ。」

永井「そうかぁ、ならあい分かった。明日、四ツに浅草の番屋に来てくれるか?ここ二年あまりの武州、相州、上総、下総、上野、下野、常陸、甲州、

関八州の手配書を用意しておくから、その中に、金子市之丞に似た盗賊が居ないか?お前さんに見て欲しい。」

直侍「お易い御用です。明日四ツに番屋へ伺いますから、宜しくあの野郎をお縄にして下さい。」


そんな話が纏まりまして、直侍が永井五右衛門の待つ浅草の番屋へと参りまして、ごく最近の手配書に目を通しておりますと、

正に、金子市之丞に間違いない!!と、言う盗賊が手配書の中に居ります。『下総流山無宿・金子市』

永井は、直ぐに与力加役の木川良助にこの事を報告。直ぐに同心二人と取方四人が呼ばれて、金子市之丞道場への張込みが命じられます。


季節は五月の節句の頃で御座います。『髪結新三』でもお馴染みのこの季節は、梅雨が始まり本格的な夏が訪れようとしております。

金子市之丞は、前日から大口楼に泊まりまして、三千歳がしきりに、「居続けしてくれろ。」と、お願いをして居ります。


三千歳「折角、昨夜、主は紋日の祝儀を切りなんしたから、今日も大口に居続けてくんなまし。」

金子「そうしたいのは、山々だが、今日は門弟たちが、節句の挨拶に参るのだ。流石に、師匠の私が道場に不在では格好がつかん。故に、今日は道場へ帰ります。」

三千歳「それでは仕方ありませんね、先生。アチキが我慢致します。何時もの様に、朝の膳部を蔦屋でお取りになりまするか?」

金子「そうだなぁ、そうしよう。では、蔦屋へ戻りますよ。」

三千歳も、江戸町二丁目大口楼から仲の町の蔦屋へ戻る金子市之丞を見送に付いて参ります。金子は、直ぐに蔦屋へ戻りますと、亭主に朝飯の催促をいたします。

金子「亭主!茶漬けで構わん、朝飯を頂きたい。」

亭主「鯵の干物が在りますから、酒を一本つけましょうか?菖蒲酒。花魁、お酌をして差し上げて。」

金子「そいつは有り難い。一本つけてくれ。」


一方、丁度同じ五月の節句、金子市之丞が手配中の『流山無宿、金子市』に間違いないと裏が取れたとして永井五右衛門は、大口楼から朝五ツ過ぎに、仲の町の蔦屋へと戻った所で、金子市之丞を召し捕る手筈を整えます。

火盗改配下でも腕利きの岡っ引、鬼の久兵衛、無慈悲の源七、乱暴丹次、それに永井五右衛門を加えた四人、更に各岡っ引の手下を従え合計十名で蔦屋へと向かう事となります。

手下は、定水桶の陰に隠れて居る様に指図されて、永井が三人の岡っ引を伴って、蔦屋の店先に来て、亭主に声を掛けます。


永井「御免よ、お早う!亭主は居るかい?!」

亭主「此れは永井の旦那!親分衆もお揃いで、こんな朝早くに何んの御用ですかなぁ?」

永井「アぁ、ご亭主。お前さんの所に、鳥越から遊すびに来なさる、金子という剣術の先生がいらっしゃるかい?」

亭主「其方で、御酒を召し上がっているのが、金子先生です。」

永井「鳥越の道場主、金子市之丞というのは、貴様か?!やさぁ、金子市!!御用だ。」

いきなり、側に近付いて来た永井五右衛門から、「御用だ!!」と声を掛けられて、流石の一刀流免許皆伝の金子市之丞も、驚きながら立ち上がります。

金子「花魁!危ねぇから奥へ下がって居て下だせぇ〜」

三千歳「どうしたのぉ?!」


金子は、三千歳を軽く奥へ押し退けて、永井五右衛門の脇を飛び抜けて、外へと逃げようと致します。

しかし、三人の岡っ引も玄人です。「金子市、御用だ!!」と、叫びながら、外に出ようとする金子市に纏わり付いて、中々外へは出しません。

其れでも、金子市が強引に外へ出ると、定水桶の陰から、待機していた手下が、ハシゴを持ち出し金子市を押さえ込みます。

腕に覚えの金子市之丞も、多勢に無勢。最後は観念して仰向けに大の字に成り、お縄を受けて御用!となります。


金子「花魁!実は俺は、房州は流山、無宿の金子市と言う盗っ人だ。もう、二度と娑婆へは戻れないかもしれねぇーが、楽しかったぜ!三千歳。」

三千歳の「市さん!市さん!」と、叫ぶ声が、聞こえなくなるまで、金子市は時々後ろを見ながら、大門を潜って、大伝馬町の牢屋へと連れて行かれました。


そして、金子市之丞こと金子市は、連日、牢から引き出されては、永井五右衛門から厳しい取り調べを受けます。

永井「天保六年四月十九日、松戸の質屋、大黒屋から金三百両を盗んだ件、これはお前の仕業ではないのか?」

金子「知らねぇーよ。覚えてねぇー。」

永井「嘘を申すな!!身に覚えが在るだろう!!有り体に申せ!!」

金子「だから、押し込んだ先を、いちいち帳面に付けてた訳じゃねぇーから、何年の何月何日に、って言われても、覚えてねぇーよ。」

永井「では翌年、天保七年の八月十日、川越の薬師問屋『三増屋』、ここの千二百両なら覚えているだろう?白状しろ、金子市!!」

金子「だ・か・ら。川越なんて、何件も何十件も押し込みしているし、上は二千両から下は五十両くらいまで、

又お勤めも、一人働きだったり、助を頼んだり、いちいち何処の何て店だったかなんて、覚えてねぇーけど、盗んだ銭は間違いなく十両よりは多いよ。早いとこ、斬首獄門にしてくんなぁせぇ〜」


こんな調子ですから、永井に竹刀や木刀で殴られて、石を抱かされ、水責めにも合うのですが、牢屋の方へは三千歳が付け届けをたんまりしますから、金子市への牢番と牢名主からの待遇はすこぶる良好です。

もう、牢屋に入れられて、十五日か二十日あまりが経つので、どんな頑丈な奴も、板付に成り『編板』と言う板切れに乗せられて牢を出入り致します。

ところが、金子市は、まだ、畚(もっこ)と言う棒を、お仕着せの浅黄木綿の着物に、袖を物干しに刺すのと同じ様にツッ通して運ばれております。



つづく