吉原江戸町二丁目の大口楼に、三千歳が戻りまして、再勤祝いの披露を致しますと、以前にも増して全盛で御座います。
是を聞き付けた片岡直次郎、自分も客として祝ってやろうと、以前とは違いまして、何とか自らの甲斐性で、方々から借金をしまして、
ちゃんと仲の町の引手茶屋を通して、大口楼の「三千歳再勤祝い」の披露に、取り巻き四、五人を従えてやって参ります。
しかし、是はかなり無理をして参りましたか、直次郎。祝いに来た後は、なかなか顔を見せません。大口楼も時代習慣、三千歳には前借りなどさせてはくれません。
よく申しますが『金の切れ目が、縁の切れ目。』、石町の間男の一件以来、三千歳の直次郎への熱も、次第に覚めて参った様です。
また、三千歳の直次郎への熱を冷ますもう一つの要因が、近頃、三千歳の元に仲の町の蔦屋という引手茶屋から送られて来る客で、金子市之丞と言う者があります。
この男は、浅草猿屋町に一刀流の道場を構えていて、住み込みの内弟子が四、五人も居て、旗本や大名家からの若侍が、数多く門弟と成っており、道場は大変繁盛しております。
この金子市之丞、歳は二十五、六。顔は役者の様に色が白く、鼻筋がハッキリ通った、目元の涼しい美男子で御座います。
また、浪人者で御座いますから、月代を伸ばし大髻を結ひ、見るからに一癖有りそうな人物に見受けられます。其れでいて、湯水の様に金を使いますからモテて当たり前。
吉原では、「猿屋町の先生!」とか「今兒雷也(じらいや)」と渾名されている、吉原の噂の中心的存在ですから、三千歳が心を惹かれても不思議では在りません。
そんな金子市之丞の存在があり、次第に、三千歳は、直侍が嫌に成ったと言う程ではありませんが、間夫とは思わない、ただの客へと降格致します。
逆に、市之丞の方はと見てやれば、まだ、間夫には昇格手前ですが、数日来ない日が在ると、三千歳の方が『市ハンは、何処ぞで、浮気をしてはるんざましょ?』と思う存在です。
一方、直侍の方は、そんな三千歳の事情を知りませんから、『最近、三千歳の奴、廓での俺様の扱いが粗略(ゾンザイ)だぞ?!何故だ?』と、不思議に感じております。
そんな人間模様の寒い冬の夕刻、珍しく前日博打で儲けた直侍。今日は久しぶりに三千歳の所へでも行くか?と、坂本通りをフラッか、フラッか、吉原の裏手大恩寺前へと参りました。
しかし、まだ日も暮れ切っていないので、何処か店に入って繋ぎでもするか?と、割烹料理の『駐春亭』に入ります。
奥の小上がりに通されて、酒肴を適当に注文した直侍。手酌でチビリチビリやっておりますと、廊下を挟んだ奥の次の間、二人連れらしき客、その会話の調子が段々高く成って、
『三千歳が、三千歳が、』と言う声が聞こえて来ますから、障子戸を少し開け、耳がダンボになる直侍です。
是から俺が逢いに行く女の名前を呼びやがる?!吉原は遊女が三千人から居ると言うから、三千歳って女郎が二人、三人居ても不思議はないが、全盛の花魁と同じ名前は???
そんな事を心で呟きながら、直侍は次の間の二人の声を盗み聞きしておりますと、どうやら一人が侍で吉原の客、そしてもう一人は、あの有名な吉原の幇間、一八に御座います。
一八「モシ、先生!私がこんな事を言うとでゲスねぇ、幇間のヨイショみたいに聞こえますが、今折、貴方が二日、三日と見えぬ日には、あの花魁、のべつ先生は?!先生は?!と、譫言の様に申しておりますよ。」
侍「おい、おい、一八!!その様に無理に煽てなくても宜い。他に間夫が居るのを承知で、拙者は通っておる。所詮、遊び。駆引きだ。」
一八「へぇー、あの花魁に間夫が?」
侍「確かな奴から聞いたぞ、しかも天下の直参、御家人で片岡直次郎、直侍とか呼ばれておるそうだ。」
一八「確かにねぇ、前勤めてた時は間夫でしたが、再勤してからはどうなんですかねぇ。嫌いじゃねぇーでしょうが、以前みたいに、直ハン!直ハン!とは言いませんよ、花魁。」
侍「口が上手いなぁ!貴様は。拙者の心を揺さぶりおる。嘘でも嬉しいぞ、一八!!」
一八「嘘じゃ御座いませんって!日頃、お世辞を使い過ぎるから、信じて貰えないかもしれませんが、嘘じゃありません。
今夜、中へ入ったら、花魁に直に心の内を聞いてみて下さい。貴方が間夫になる日も、そう遠くは無いと、一八はそう確信しております。」
侍「分かったよ、世辞でも嬉しいぞ!一八、ささぁ、もっと飲め飲め、後で祝儀もくれてやる。」
一八「ご贔屓に、有難う御座います。」
酒を飲みつつ盗み聞いていた片岡直次郎。やっと分かった、是だ!!三千歳が最近、俺に素っ気無いのは、此の野郎のせいだ。
そして、おそらく此の野郎は、今吉原で一番人気の剣術使い、先生!先生!と呼ばれている、今兒雷也の『金子市之丞』って侍に違いねぇー。
畜生!面白くねぇー。飛んだ三枚目をこの片岡直次郎、直侍様に演じさせやがって、見てやがれぇ、恋の仇、このままじゃ捨て置けぬ。我が怨みがどんなに重いか教えてくれる!!
そんな怨みを買ったとは露知らず。奥の次の間に居た侍は、直侍の推察通りで、金子市之丞と幇間の一八で御座います。
そろそろ宜い刻限だと、勘定を済ませて駐春亭を二人が出ます。一八が店で借りた提灯に火を点けて先役を、後から市之丞が付いて吉原を指して歩きます。
その少し後から直侍が、市之丞を狙って其の跡を付けているとは、勿論全く気づいておりません。今、丁度、浅草田圃御羽黒溝の辺りまで参りますと、先に立った一八が
一八「旦那、気を付け下さい。溝ですから危のう御座います。」
金子「あぁ、分かっておる。雨模様で少し泥濘む(ぬかるむ)が、そのせいで往来の人が少ないから大事ない。」
一八「確かに、今日は雨あがりで、往来の人が少のう御座いますなぁ。とは言え、廓の景気は相変わらず良い様ですなぁ?!」
金子「そうだなぁ、あの灯りを見ろ不夜城だ。」
そんな会話をしている二人の後ろから、直侍が忍び寄る。二人を後ろから、やや早足で抜き去る態で近いて、真横に来た途端に、刀を抜いて真一文字に斬り掛かった。
えぃ!!
しかし、鞘を払う動きを見て、一瞬早く、金子市之丞が気付き、体をヒラリと交わし、直侍の一撃は空を斬る。
ブン!!
是に驚いた一八は、「人殺し!」「辻斬り!」と吉原の方へと駆けて出たが、泥濘みに足を滑らして、御羽黒溝へと落ちてしまう。
ボチャン!!
金子市之丞は、吉原へ参る折は、茶屋へ刀を預けるのが億劫なので、あいにく丸腰で来ておりますが、そこは一刀流の使い手です。
直侍程度の腕前に、斬られる心配は御座いませんが、溝に落ちた一八が気になります。直侍の二の太刀、三の太刀を見て、その太刀筋が読めましたか、
上段より四回目を振り下したと同時に、手刀で直侍の掌を叩くと、堪らず刀を落としてしまいます。
ポロリ!!
しかし、片岡直次郎も柔術の心得があり、直ぐに金子市之丞の胸ぐらを掴んで、電光石火の背負い投げ!!
方や市之丞もそんな直侍の投げに不覚を取る程、間抜けでは御座いません。空で体を回して、向こう側で生体致します。
ピタリ!!
是に対して直侍も落した刀を、すぐさま拾い上げて、『死ね!』と叫んで斬り掛かる。
ところが、やはり市之丞の方が一枚上手、全く抜かりは有りません。足元から石を拾うと其れを礫に、直侍の顔目掛けて投げつける。
ビシッ!!
直侍の真眉間に的中し、鈍い音がして、鮮血が流れ落ちます。堪らず直侍、その場から、吉原とは反対方向、今来た道へと逃げて行きました。
つづく