アさて、片岡直次郎を連れて河内山が、練塀小路の屋敷に戻ると、早くも九ツで。台所の脇の四畳半で、重と三千歳、其れに安次郎の三人が楽しそうに昼の膳部を食べております。
三千歳「あら、直ハンご無事で何より。河内山の兄さん、ご苦労様でありんした。」
宗俊「直、貴様、飯食うか?」
直侍「兄ぃ、俺はいい。食欲が無ぇ。」
宗俊「そしたら、三千歳の食事が済んだら、奥の書斎で今後に付いて三人で話がしたい。いいか?」
直侍「勿論だ。」
直侍と三千歳を連れて、奥の書斎へと入り。普段より小さい声で、話し始めた。
宗俊「直次郎、其れに三千歳、お前たちを夫婦にするには、此処からの仕掛けが、肝心だ。分かるか?直。」
直侍「其れにしても、廓の会所の一件は上手く行きましたねぇ。兄貴は上手いやぁ、強請の天才だ!!」
宗俊「馬鹿野郎、本気でそんな風に思ってやがるのか?少しは『状況』ってモンを考えろ!!大口楼は貴様に此れで幾ら取られたと思う。
三千歳の八百両と俺の百両で、都合九百両だ。あと百両あれば千両って銭を取られてんだぞ!命がけで仕返しに来ると思った方がいい。
今の時代、十両渡せば平気で人を殺す輩が、五万と居る、そんな輩を大口楼は雇うめいが、金蔵と、惣兵衛、庄吉の三人なら雇わないとも限らんぞ。
あの百両で、金蔵の人生は終わりだ。一生大口楼で飼い殺しだ。片岡、貴様はいつも自分の事だけ、自分中心の人間だ!
時として、自分が踏みつけて潰した奴の事も、慮れる様な人間になれ!金蔵もだが、惣兵衛と庄吉だって十手を使って月に何両かは稼いでいたはずだ。
其れを、お前に関わったお陰で不意にしたと思っている。恨み骨髄だよ。仕返しに怯えろとは言わんが、そんな悪い事をしている自覚だけは持ってくれ。」
直侍「済まねぇ、兄貴。俺は兄貴の様に知恵が回らねぇーし、所謂、物事を俯瞰で見るのが、大の苦手だ。兄貴に教えて貰いながら、成長するから、許してくれ、我慢もしてくれ!」
宗俊「其処まで分かっているなら、御の字よ。 人間長所を伸ばすのは造作も無いが、短所・苦手を克服するのは、並大抵ては出来ねぇ、かく言う俺も勤勉に城勤めは出来てねぇー。
さて、お二人さん。小出の旦那をやり込めて、直次郎の縄は解けたが、だからと言って、今日から直次郎の家で、ままごと遊びみたいな夫婦に成れた訳じゃねぇー。
三千歳は、有名人だ。此処で匿うにしても、今月一杯が限界だ。隠して居るようで、『上手の手から水は漏れる』。片岡!お前なら、此の曲面をどう乗り越える?」
直侍「『人の噂も七十五日』って言うぐらいだから、兎に角、熱りが覚めるまで、三年か五年、俺と三千歳で、裏街道の旅にでるのはどうかと思います。
京、大阪から備前、芸州、九州に着いて長崎へ。更に船で伊予に渡り四国八十八箇所を巡って金比羅様へ。
それで、足りなきゃ、奥州路を奥の細道へ抜けて、最後は蝦夷と樺太を彷徨います。」
宗俊「安易だなぁ。お前さんの考えそうな台本だ。銭は幾ら用意するんだ?三千歳は歩けるのか?裏街道を。其れに三千歳の手配書はもう、全国六十余州に廻っているぜ。
お前たちが捕まったら、今の会所の一件で、俺まで罰っせられるんだぜ。そういう事を、直!貴様は一切考えないだろう!?
もういい、此れから俺が、一つ知恵を授けるから、この方法で、三千歳を再度、正式に身請けする。完全に自由に成って娑婆に三千歳を出すには、再身請けしかない。」
直侍・三千歳「再身請け?!」
宗俊「つまり、三千歳の客の中から、八百両の身請けの金が払える奴をまず探す。その野郎に、足抜けした態で、三千歳が『旦那!助けてくんなまし!』、
と、三千歳の方から囲い者になりたいと持ち掛けて、大口楼に対して八百両出させて、身請けさせるんだ。」
直侍「それでは、三千歳は自由に娑婆へは出られても、誰かの囲い者じゃねぇーですか?まさか、オイラに間男亭主に成れと?」
宗俊「馬鹿だなぁ〜。身請けが済んだら、その囲ってくれた旦那を虐めて、脅して、囲ってらんなくすればいいだけだ。
半年ぐらいは掛かるかもしれないが、出来るだけ、金払いが良く、鼻下が長い、小心者を選んで身請けの候補にしておけば大丈夫だ。」
直侍「其れで玉代の台帳が要ると、言われたんですね!?やっとからくりが分かった。」
宗俊「では、馬鹿な直侍が理解した所で、台帳を巡りながら、身請けの適役を探すぞ、いいなぁ?!三千歳。」
三千歳「ハイ、宜しくお願いします。」
宗俊「三千歳、お前が丸切り嫌いな奴は、駄目だ。たとえ万度通って来ても、其奴は役者は務まらねぇ。
また、それなりの身代構えている主でないと駄目だ。雇われの奉公人も、役者としては使えない。その辺を踏まえて選んでくれ。
まず、この矢鱈と通っている『直』って野郎は、片岡だなぁ?次に多いのは、『時』って奴だがぁ、此奴は誰だ?」
三千歳「其れは、田所町の日向屋の若旦ハンで、時次郎さんです。」
宗俊「源兵衛と多助に連れて来られて、廓狂いとは聞いているが、勘当真近らしいから、此奴は駄目だなぁ。
次の『幸』って野郎も、なかなか通ってやがるねどうも、此奴は誰だい?」
三千歳「其れは、麻布古川の御隠居、家主の幸兵衛ハンです。極々ケチな遊びしかしないのに、祝儀を渡さず芸者や幇間にのべつに小言をタレるざんす。」
宗俊「ケチな隠居は論外だなぁ。此奴はどうだ、『清』の字の野郎は?特に、直の奴が堰かれてから通う回数も増えて、狙い目じゃねぇ〜かぁ?」
三千歳「其れは、日本橋室町の森田屋清蔵、清ハンどす。」
宗俊「森田屋って海産物問屋で、献残屋をしている野郎だ!城の中で、噂は聞いた事がある。どんな遊び方をするねぇ?」
三千歳「清ハンは、金払いも良く飲んでも乱れませんし、本に優しく笑顔が素敵な良いお方ドス。直ハンの次に好きざます。」
宗俊「その清ハンは幾つぐらいだ?」
三千歳「三十七、八やと思いんす。」
宗俊「最後に、三十七、八なら女房はあるんだろう?」
三千歳「いいえ、居りんせん。」
宗俊「ヨシ!ならば、その森田屋清蔵を身請けの客に決まりだ!」
江戸時代ならではの職業に、献残屋(けんざんや)というのが有ります。
献残屋とは、公儀幕臣屋敷や大名屋敷を回り、他所からの進物の余り物を安値で買い取る稼業です。
この森田屋清蔵も、そんな献残屋で特に海産物の献上品のダブ付いた物をバッタに仕入れて一般に卸す商いを表向きはやっております。
そんな献残屋を描いた、山本一力氏の時代小説『まいない節 献残屋佐吉御用帖』と言うのがあります。
この佐吉は取締る側みたいですが、森田屋清蔵は抜荷はする、盗賊まがいの盗みも働く悪党で御座います。
宗俊「いいか、三千歳。髪を丸髷に結い直して、森田屋へ着いたら、清蔵に縋れ!!『清ハンの為に廓を抜けて来ましたと。』泣いて笑って、何でもいいから、森田屋清蔵には、
取り敢えず今は兄の家に身を隠していますが、もう限界です。貴方に身請けをして貰えなければ、大川に身を投げて死ぬしか有りません。
そう言って、後日、兄と相談に行きたいのでと、森田屋清蔵に逢う約束だけ必ず、取り付けろ。其れが出来たら、その後の交渉は、兄役の俺がやる。」
三千歳「分かりんした。」
この三千歳の玉代台帳から河内山に見染められて森田屋清蔵という漢。五年ほど前から日本橋室町に海産物問屋を開いております。
歳は三十六歳。ご近所や商売先には、女嫌いの硬派で通っていて、牝猫すら膝には上げぬ徹底ぶりで、
森田屋の店にも、奉公人が七人居りますが、飯炊きまで全てが男所帯。日に一回、糊屋の婆さんが洗濯しに参りますが、此れが唯一の女ッ気と申しますから硬派過ぎます。
そんな店先に、全盛のお職・三千歳が参ったのですから、奉公人は驚かない筈が御座いません。
三千歳「小僧ハン、清ハンは居なさりますか?中から三千歳が来たと、伝えてくんなましぃ。」
小僧「へぇーい!!」
錦絵から抜け出した様な、三千歳を見て、小僧は頬を真っ赤に染めて、奥の主人に此れを伝えます。
小僧「旦那様!清ハン!中から三千歳が来たと、伝えてくんなましぃ〜!が来ています。」
清蔵「何だぁ!丈吉。里言葉など店で使うもんじゃありません!第一、主人に向かって『清ハン』は無いだろう。誰か来たのか?!」
三千歳「清ハン!アチキでありんす。」
清蔵「お前は三千歳!なぜ、此処に?遣手衆と買い物の帰りかい?」
三千歳「そうではありんせん、アチキは中から逃げて来たざます!!」
そう言うと、宗俊から教えられた通りに、清蔵の胸に縋り泣き崩れる三千歳。奉公人が居る中ですから、清蔵、此処では何だからと、三千歳を奥の居間に連れて上がります。
清蔵「どうしたんだ、三千歳。いきなり廓の籠の鳥のお前が店先に来るから、びっくりしたよ。」
三千歳「『抜け雀』ざます、チュンチュン。」
清蔵「で、どうしたんだ、三千歳。何が有った?」
三千歳「アチキが、急にこんな事を言い出しても、清ハンは女郎の千枚起請と、嘘を並べていると思いなさるに違いありんせんが、
アチキは、廓で客を取るのが、辛ろうありんして、清ハンの外(ほか)の男とは会いとうはありんせん。どうか清ハン、アチキをおまはんのお囲いにしてくんなましぃ。
アチキは、五日ほど前の暴風雨(あらし)の晩に廓を逃げんした。直ぐに清ハンの所へと思いんしたが、兄が其れを止めます。
お前が行くと話がややこしくなると、兄に止められて、兄の家で我慢をしていましたが、もう、我慢の限界です。
今日は下谷の兄の家を飛び出して、清ハンに逢いに来ました。清ハンの女房にしてくれとは、申しません。
いや、こんだけの店の女将は、私では務まりません。何処かに一軒家を借りて頂いて、黒板塀に見越しの松、そんな家で清ハンのお囲いにして下さい。」
三千歳、今度は清蔵の膝に縋って泣き崩れます。
清蔵「ウーン、もう泣くな三千歳。そいう訳なら、痴愚(のろ)いようだが承知した。ところで、お前に兄が有るとは、初めて聞いたぞ。
其のお前のお兄さんと言う方は、どんな方なんだ?教えてくれ、三千歳。」
三千歳「お城にお勤めの坊主をしていて、下谷の練塀小路と言う所に住んでおります。
その兄が是非、清ハンと会ってアチキの事で相談したいそうです。」
清蔵「勿論、其れは構わぬが、お城勤めの坊主ならば、立派な方なんだなぁ、して、名前は何と仰るんだい?」
三千歳「兄は、河内山宗俊と申します。」
清蔵「エッ!三千歳、お前のお兄さんと言うのは、あの有名な河内山宗俊かい!其れでは、日延べしては悪い、お兄さんとは今日会おう。
この室町の店では、目立つから、本町に『亀の尾』と言う出逢茶屋がある。其処で、一刻後の八ツ半に会う事に致しましょう。
駕籠を用意するから、其れで練塀小路の屋敷に帰りなさい。お兄さんに宜しく伝えて、必ず、八ツ半に『亀の尾』でお待ちしておりますからと伝えてくれよ。」
三千歳「分かりんした。清ハン、では後ほど『亀の尾』で。」
森田屋清蔵、三千歳を送り出して、右腕の番頭に、思い掛けない縁で、『亀の尾』であの河内山宗俊と会う事になったと話します。
番頭「万事如才ない旦那様の事なので、心配は致しませんが、相手は河内山宗俊ですから、呉々もご用心下さい。」
清蔵「宜しゞ、そんな事は重々承知していますよ、相手は河内山宗俊ですから。」
羽織を引っ掛けて、紙入れ懐に入れ、莨入れは腰に差して出掛けた森田屋清蔵、此の漢も普通の町人では在りません。一癖ある悪党に御座います。
つづく