アさて松江家は富貴のお家で、殿様は数多の妾を抱えておいでです。女に不自由のある方では御座いませんが、

どうしても靡かぬ腰元浪路こと、上州屋の娘お浪を我が手中にしたいと、深い懸想を致します殿様ですが、前話でも申し上げた通り、

お浪には、定次郎と申す許嫁が御座います。此れに操を立てて、殿様の申し出を頑として受付ない。

その叶わぬ恋故に、一方的に懸想した富貴な殿様は、富貴で我儘に育った故か、一層、『鳴かぬなら、鳴かせてみよう!』と成るので御座います。

今日も今日とて、四谷丸太で柵を設けた座敷牢のお浪の元へ、まだ昼日中なのに殿様が一人、酒肴の膳部をお小姓に持たせて通って参ります。


殿様「浪路!!どうだもうそろそろ色良い返事を致さぬか?其方(そち)が首を縦に振り、予の側室に成れば、こんなむさ苦しい所からは、直ぐに出して遣わすぞ!どうじゃ?」

お浪「毎度申す通り、私のような不束な娘に、殿様から情けを掛けて頂く事は、身に余る光栄に存じますが、かねて申しました通り私には、親が決めた良人、許嫁が御座います。

然すれば、如何に殿様の命にありましても、私は操を破る事はできかねます。どうか、ご容赦願いたく存じまする。」


と、涙を流して懇願致しますが、富貴な殿様の心にはなかなか響かぬ様に御座いまして、正に、お浪が狭い座敷牢で土下座をして懇願致すその様は、

雨に悩める海堂の如くでありまして、実に美しき者が悩める姿は、その憂いが美しさを際立たせておりました。しかし、殿様はと見てやれば。


殿様「そちの申す事、いちいち道理ぢゃ。よって無理にとは申さぬ。しかしぢゃ。一國一城の主人(あるじ)である予の思いを汲んで欲しい。

懸想致した女を妾にすら出来ぬ様では、一國一城の主人として、家臣に示しが付かぬとは、其方は思わぬのか?

昔、平清盛は敵の将源義朝の妻常盤を愛した例えあり。その方も、今の考えを改めて、予の寵愛を受ければ、其方も其方の家上州屋、また、その許嫁先の和泉屋も栄華安泰である。

もし、浪路、其方(そち)が側室になるならば、上州屋と和泉屋には、公儀からの仕事や株仲間内での特権を与えるがどうだ?!

此れまで、予が、其方に噛み砕き言い聞かせておるにも関わらず、其方が『否』と申すならば、命は無いものと覚悟致せ!!よいか?今一度、返答を訊く、予の側室に成れ?!」

お浪「何度、問われても答えは同じ『否』に御座います。殿様の刀の汚れに成りますから、私は自ら命を絶つ覚悟に御座います。」

殿様「えーい!強情な女(おなご)よのう。予は織田信長の様に、鳴かぬからと、直ぐに殺したりはせぬ。権現様の如く、鳴くまで待つ故に安心されよ。

監視役!お浪が自害などせぬ様に、よーく見張れ?!万一の時は、監視役!貴様一人の詰め腹では済まぬからなぁ、一族郎等皆殺しだ!!

これより、鶴の間にて酒宴を致す。三太夫!三太夫は居らぬか?おう、三太夫、酒宴の用意を頼む。」


これより、松江候、腰元近臣お小姓を大勢で、酒宴を始められます。大きな盃を、皆で回して大いに盛り上がる宴もたけなわ、一人の家臣が血相を変えて飛び込んで参ります。


家臣「恐れながら、申し上げます!」

三太夫「何だ?!如何致した?」

家臣「只今、東叡山輪王寺宮よりご使者、使僧道海様お見えに御座います。直ちに、御書院に置いて、御留守居役高木小左衛門が応対仕りました所、

何分、一品親王宮様よりの直々の言上の命此れ有りとの事で、太守様へ直接言上を願われており、取次ぎの者を介す事を拒まれております。

拠なく(よんどころなく)言上仕って、御使僧にお会いに成りますや否や?この段を伺って参れと高木様より申し遣って御座います。」

此れを三太夫の横で聞いたご太守松江候自ら答えて、

殿様「輪王寺宮の使僧道海なる者が参り、宮様からの言上を、予に直接会って話したいと申すか?」

家臣「御意に御座います。」

殿様「然すれば、予は昨日来、風邪で熱があり伏せっておる故に、面会はかなわぬ。後日上野で宮様に直接お会いして仔細を聞くからと申し上げて、今日の所は引き取って貰う様にと、高木に伝えよ。」

家臣「承知仕りまして御座います。」


此れが留守居役高木小左衛門へと伝えてられて、小左衛門、仕方なくご使僧の道海に対して慇懃に断りの口上を述べます。

高木「仰の趣、主人に申し入れました所、只今、主人は少々風邪を拗らせ伏せっており、面会が叶う状態では御座いません。

折角、当家に足を運んで頂いたのに、誠に恐縮では御座いますが、後日主人自らが、上野へ帰山致しまして、直接宮様にご面会賜りますので、本日の所は、この儀、宮様にお伝え願いましてお引き取り願います。」

使僧「此れは参りましたなぁ、今回の使僧の一件は、ご当家の瑕瑾、つまりは、お家の恥、名折れ、謗り(そしり)を受ける問題でして、

老中・大目付筋に聞こえる前に、お伝えせねばと参りましたが、ご太守に会うて頂けぬのならば、やもう得ません。ご当家が、万一、お取り潰しに成ったとしても、拙僧を恨まないで頂きたい、

高木氏、ご当家ご太守様には、宜しくお伝え下さい。恐らく後日、上野で宮様と会う事も、ありやなしやと。。。高木氏!浪人のお覚悟はお有りかな?では、御免!!」


まぁ、藩がお取り潰しになる様な宮様情報を、持って来てくれた使者を、此処で簡単に帰してまずい事ぐらいは理解できる忠臣高木小左衛門です。

高木「暫く!道海殿、今暫くお待ち下さい。只今のお言葉の端々に、宮様が当家の為を如何に慮っての使僧である事が、私高木小左衛門は理解致しました故、

此れより我が、主人少将の元に、誠心誠意、再度、注進申し上げてみます。そして、面会なりましたなら、病で床に伏せっており、見苦しい場面も在るやに思いますが、ご容赦願いとう存じます。」

使僧「いやいや、出家の身が、病の御仁を何故に厭ひ(いとい)申さん。ご面会の上、上の御内意を少将殿へお伝え申さば、それで拙僧の使命は終わりまする。そしてご当家も大安泰。憂いなく帰山できるものと心得ます。」

高木「では、面会の儀、拙者が再度主人少将に確かめに参ります。使僧様は、暫時、此方にてお待ち下さい。」


腰元が新しいお茶と茶菓子などを運んで来て、使僧を持てなしている。高木小左衛門が、直ぐに宴会中の松江候の部屋を訪ねますと、

殿様「おぉ、高木!高木!どう致した?使僧は上野へ帰ったか?」

高木「いやぁ、其れがかくかくしかじか、使者の間に留め置き待たせて御座います。」

殿様「何だ?当家の瑕瑾とは?!宮様の耳に何が届いたと言うんだ?」

高木「分かりませんが、老中や大目付に知れると大事に至る故、事前にお知らせに上がったと申しております。」

殿様「分かった!面会いたそう。じゃが、予は風邪で伏せっていると申したが。。。布団に入って面会する様か?」

高木「紫の病鉢巻を着して下されば、十分かと存じます。意外と話の分かりそうな柔らかい御仁です。」

殿様「しかし、予は御酒を飲んだぞ。顔が赤くないか?高木。」

高木「大丈夫です。やや目の周りは赤こう御座いますが、大して気になりません。」

殿様「万一、指摘を受けたら、風邪故に、薬師に卵酒を作らせて飲んだ事にいたそう。」

高木「其れは妙案!流石、流石の流れ石!」

殿様「高木、下手な洒落はよせ、禄を減らすぞ!!」

高木「申し訳御座いません、勉強し直して参りまする。冗談はさて置き、接見の間にて、使僧は待たせて置きます故に、お着替えあそばしまして、対面願いとう存じ上げます。」


高木が使者の間へと戻りまして、主人少将が会うと申した事を使僧道海に伝えます。そして接見の間に場所を改めまして、対面すると申します。

この当時、上野の宮様にお仕えする坊主には、官位や身分などは、特に御座いません。されば、若い坊主ばかりで無位無官の黒い衣を着ております。

常に、宮様内々の用向きで外出する際には、黒塗りの駕籠を使いまして、使僧の若党には、従事の家来があり、

片若党、長持、草履取り、陸尺の四人が必ず付き、絶えず往来を、他の通行人よりも早歩きで移動するので、なかなか目立つ存在でした。

此れを、江戸の庶民は俗に「刻み」と呼んだそうですが、煽り運転の事も俗に「刻み」といいますよね?何か関係あるのかな?

さて、この使僧、下級の家来ですから、中元と同じ様な扱いで若党なのですが、無位無官とは言え宮様に仕えておりますから、それなりに権力は有った様です。

ですから、この黒ずくめの駕籠を見ると、一般市民は、旗本の道中と同じ扱いで、端に避けて、頭を下げて行き過ぎるのを待ったそうです。

また、芝居の方では團十郎丈が、この役で初めて緋衣を着して演じたと言われていて、当人は勿論、使僧は黒しか着ないのは重々承知の上で、芝居だから許される演出だと言って、『天衣紛上野初花』で緋衣を登場させたそうです。


アさて、松江候はビンのほつれを直しながら、着替えの真っ最中です。綸子ご定紋御衣服に、仙台平の袴を付けて、黒縮緬の長羽織、そこに紫の病鉢巻をして、後ろからお小姓が太刀持ちをして付いて参ります。

一方、松江候を接見の間で、待ち受ける使僧道海は、大國の領主の登場にも、全く臆す事も無く、特段丁寧な会釈もなく、その場に待っておりますと、松江候から御声を掛けられます。


少将「貴僧は、東叡山輪王寺の道海殿と申されるや?!初めて面会仕る、予が松江少将で御座る。」

道海「初めて拝顔仕る。拙僧は宮方のご内命を被り、伺候致したが、ご貴殿には風邪の由。此の儘虚しく立ち帰る事かと存ぜしに、

病を押してご対面下さる段、拙僧の役目も相立つのみならず、ご当家の為にも宜しく、誠に喜ばしく存ずる。」

少将「此れは此れは、ご丁寧な挨拶。シテ、宮家より此の少将へのご内々の仰せとは、如何なるものであるか?即刻、承りたい。」

道海「されば、仰なくとも只今、言上仕る所存でしたが、些か人目を気にするお話なれば、御人払いを願いたい。」

少将「心得て御座る。オーイ、一同の者、次に下がりなさい。」

一同「御意に。」

太刀持ちの小姓が、持った刀を床の間の刀立てに置き、黒塗高蒔槍を鴨居の上にそのまま乗せて下がります。

最後に、四方の襖が開かれて次の間にも人の居ない事が示されましたので、道海は少将にかなりにじり寄り座り直します。


道海「賢者の一失、愚者の一得と申す故事が御座います。君は賢明英智に在すに、御酒興のお戯れか、但し如何なる御心の迷いなのか?

世の中に、婦人は星の数ほど多く在りますのに、何故か少将殿は、上州屋彦右衛門の娘、浪を強って手に入れんと給うは、即ち是正に賢者の一失である。

願わくば、今日只今を持ってその執念を絶って、浪を吉右衛門の元へ宿下りさせる事こそが、ご当家に安泰をもたらすと存じます。」


言われた松江候、本当にびっくりして、冷や汗をドッと流して、驚きのあまり使僧に対して問いかけます。

少将「さては、かかる内事を、いつの間に雲井の上に、聞召されましたやぁ。。。恐るべし宮様の地獄耳!!」

道海「其の儀、不審がる少将殿のお気持ちは、ご最もなれど、この程本坊に置いて、お上の趣味である囲碁のお相手を、広く他所から招待致して開催しました。

お上は、常々、武家である旗本大名とばかり囲碁をなさっておりましたが、今年の正月辺りから、大家の旦那衆とも交わる様になられて、

そんな中に、上州屋彦右衛門がおりまして、何やら此処暫く、顔色が優れず囲碁に身が入らないので、上様が尋ねられますと、実は。。。と、娘浪の話を始めた次第に御座います。

赤坂辺りを得意先にしている御用聞きから、彦右衛門が仕入れた噂によると、娘は丸太格子の座敷牢に入れられて、自由を奪われ、毎夜毎夜、殿様に口説かれは、其れを断ると折檻を受けている。

娘には、許嫁があり三月には宿下りさせて、婚礼準備の後に、夏にも所帯を持たせてやりたいと、父親彦右衛門は願っていましたが、それもままならない。

思い詰めた彦右衛門の様子を見た、碁仇の上様が不憫に思われて、拙僧を使僧にと立ててお願いに上がったと言う訳です。

操を立てて一途に生きる娘心を、どうか!少将殿、分かってやっては頂けませんか?上様も、浪が一番不憫だと仰られておりまする。」

最後は、涙を流して訴える使僧の道海に、松江候も、心が動かされます。元より賢者英智の殿様ですから、分かれば改める事も速やかです。


少将「あぁ〜、過てり過てり。某が愚鈍に御座った。一方的に此方の思いだけで、一婦人に迷い横車を押していた。

かかる事を、雲井の上までにも漏らしていたとは、恥ずかしい限りに御座る。また、道海殿にご指摘頂いて、初めて悟るとは赤面の限り。

此れまでの儀は、拙者の誤り。只今より改心仕り、件の浪路は親元へと帰す事に致しまする。

さて、道海殿、本に今日は、この少将の目を覚まさせに、よくぞ!上野の宮様の使僧として参られた。改めて礼を言いまする。

また、お戻りに成られたら宮様に宜しくお伝え下さい。少将、病が全快致しましたら、直ぐに宮様へご挨拶に伺うとお伝え願います。

さて、拙者は風邪ぎみの由にて、道海殿に感染(うつ)してはいけませんので、此れにて書斎に下がらせて頂きます。

跡は、先の高木小左衛門に、道海殿を宜く持てなす様申し付けて置きますので、御酒などを楽しんで帰って下さい。其れでは、拙者はこれにて失礼致します。」


暫くすると、道海と松江候が面会していた接見の間に、酒、肴が腰元によって膳部が運ばれ、遅れて高木小左衛門など、留守居役の雲州藩の面々が十人程現れて、道海を持てなす宴が始まりました。

また、座敷牢に閉じ込められていた、お浪は直ぐに外へと出されて、入浴と化粧を済ませたら、直ちに宿下りして良いと、係の老女から告げられます。

何が起きて突然、自由の身となり、実家である下谷黒門町の上州屋へ、今日の八ツ半の駕籠に乗って帰れると知らされたお浪は、

夢ならば覚めないでおくれ!と願いながら、風呂へ入り、化粧をしても、まだ、突然の自由に戸惑うばかりで御座います。

其処へ、件のご老女様が現れて、お浪に向かって、その経緯のあらましを語り始めます。


老女「浪路こと、上州屋娘、お浪。其方は、本日八ツ半に参る駕籠に乗り、実家である下谷黒門町へと宿下りとなる運びとあいなりました。

座敷牢に入れられたその方を、不憫に思い、情けを掛けて下さったのは、上野の宮様に御座います。道海様と申される使僧をお遣わしになり、

当家の殿様に談判なさり、その許しがあったから、貴女は実家である上州屋への宿下りが叶いました。宮様に感謝を致す様に!!

また、暇が出て宿を下がる事には成りますが、貴女も一年半、当家に奉公し、様々な素養を当家より賜った事と存じます。

さすれば、座敷牢に閉じ込められた事や、殿様の女癖の事など、世間に余計な風評を生みかねない出来事は、固く口を閉ざして、

たとえ、上州屋の両親や、婿となる和泉屋の次男定次郎にも、語らぬとお誓いなさい!!宜しいですか?

貴女は、ご当家の身内です。ですから、ご当家の恥になる様な事は、一切、口外してはなりません!!宜しいですね、浪路さん。」


お浪は、ただただ、上の空で帰れる事が嬉しくて、ご老女様の話には、空返事で、ハイ!ハイ!と、答えるのでした。

そして、宿下りの為に、着物や小物、飾りなどを整理して葛籠に詰めて、帰り支度をしておりますと、正室であるお方様が、最後に浪を訪ねて参ります。


お方様「浪路や、殿様に座敷牢へ閉じ込められて、さぞ不憫な思いをして、辛かった事と思います。しかし、其れでも許嫁に操を立てて、妾になる事を拒んだ其方は、同じ婦人として、私(わらわ)もアッパレと思います。

承りますれば、其方には、許嫁があり宿下りをすると、直ぐに祝言を挙げて、夫婦になると言うではないか。元気で可愛いお子を、沢山授かる様に、私も祈っております。

さて、此れは些少ですが、此れまでの奉公に対する貴女への謝礼です。十両在ります、嫁入り道具の足しになればと存じます。

また、もう十両。此れは私からの餞別で、操を守った其方への褒美だと思って下さい。更に、此れは身に着けるものを、どうしても、其方にあげたくて、持参した簪です。

丸利にて買い求めた八分五厘の珊瑚珠を、わざわざ、神田須田町の職人、錺職の秀次に造らせた物になります。貴女が頭に刺す度に、私を思い出して貰えると嬉しく思います。」

お浪「お方様!私の様な者の為に、勿体のう御座います。今日で、ご当家より宿下り致しますが、ご当家皆様の恩は一生忘れません!!」


最後に、泣いて抱き合う松江候正室と妾を断ったお浪。ご正室は、嬉しかったんでしょうなぁ〜。また、新しい妾が来るのか?!

と、悋気とまでは言わないけど、面白くない気持ちは、若い妾に対して、正室・奥様は持つものです。其れがお浪こと浪路は、強情に殿様の寵愛を拒んだ娘なんですから、

正室お方様としては、出来る限りの祝福を浪路にして、宿下りを送り出してやりたくなったに違いありません。



つづく