徳川八代将軍吉宗公の治世、吉宗公の片腕として江戸の治安を引き受けて居りましたのが、大岡越前守忠相であります。

この大岡忠相が晩年に、数多白州にて悪党を裁いて来たが、罪を憎み人は憎ずと思う事ができなんだ、八つ裂きにしも飽き足らない奴が三人居たと申しております。

其れは誰だと尋ねれば、まず一人目は『徳川天一坊』、次に『村井長庵』。そして最後の三人目が、今回取り上げます『畔倉重四郎』で御座います。

この『徳川天一坊・全二十席』『村井長庵・全十二席』『畔倉重四郎・全十九席』の三つの物語は、所謂、講釈大岡政談の中で最も有名な連続の物語でありまして、俗に、大岡三政談などと呼ばれております。

人間国宝の神田松鯉先生が、この大岡三政談を全て持っている唯一の講釈師なのですが、もうすぐ神田伯山を襲名する松之丞さんが、『徳川天一坊』を全部覚えますと、二人目の大岡三政談完全制覇者と成ります。

松鯉先生は、二代目山陽先生から『徳川天一坊』を習った時に、大岡三政談の存在を知り、是非、三つ共持ちネタにしたい!!と強く思って、全てをモノにしたんだそうです。


アさて、この物語は武州埼玉郡幸手宿にて、穀物屋を営む豪商『穀屋平兵衛』と言う人が居りました。この人物から噺の幕が開くので御座います。

『穀屋平兵衛』って聞き覚えが在りますよね?そうです。『嶋鵆沖白浪』の主人公佐原喜三郎の義理の父親が、正に『穀屋平兵衛』でした。偶然なのか?

この平兵衛さん、兎に角、律儀で慈悲深い人で、他人が困っているのを見ると直ぐに助けてくれる。そんな平兵衛さんには、二人の子供があり、長男平吉は二十一歳で、長女のお浪は十八番茶も出花で御座います。

特にこのお浪は平兵衛自慢の娘で、幸手小町と噂される位の器量よしで、おまけに明るく気立が良くて優しい性格、ですから方々から縁談話が舞い込んで参ります。

そんお浪にこの度、同宿の盟友、杉戸屋富右衛門が媒酌人(なこうど)を務めて、関宿の在坂戸村の庄屋、この分家筋に当たる柏木庄左衛門の倅庄之助との縁談話が纏まります。

話はトントン拍子に進み、もう二人は既に結納を済ませまして、次は吉日を選びまして祝言を上げようと、平兵衛も庄左衛門も思っておりまして、杉戸屋とも相談して一日も早くにと考えております。


一方、この幸手宿には道場が御座いまして、此れを開業したのは、畔倉重左衛門と言う、元有馬玄蕃頭殿の家来たったご浪人です。

重左衛門には、重四郎と言う一人息子があり、年は二十五で御座います。この重四郎、色が白くお役者様の様な二枚目で、若い女性からは大そうモテまする。

また、この道場は昼間は子供達に素読、手習などを教えて、夜になると大人達が剣術の稽古に参ります。既に二年前に、重左衛門は亡くなり道場は重四郎の代となっており、

平兵衛の倅、平吉は此処で重四郎と一緒に、重左衛門から読み書きを習った。いわばご学友であり、今は、平吉に重四郎が剣術の指南を、穀屋へ出向いて致します。

この重四郎、父重左衛門よりも剣の腕前は、数段上でありまして、『早技』つまり居合い抜きの技の達人であり、穀屋では出稽古に来る重四郎に、奉公人たちも、剣術を習いたいと平兵衛に直訴致します。

確かに、手代や番頭になりますと、百両近い金子を掛取に出向きますから、道中差しをさして、所謂、胡麻の蝿を相手にする事も御座います。

そんな折に、剣術の心得は必要だろうと、平兵衛も納得いたしまして、平吉だけではなく、広く奉公人に重四郎は剣術を教える事になっておりました。


また、穀屋平兵衛と言う人、唯一の道楽が碁で有ります。幼なじみで同商売の杉戸屋とは、碁を囲む事もあるのですが、杉戸屋は、平兵衛よりも数段腕前が高こう御座います。

五目のハンデを貰ってもまず勝てず、八目から九目のアドバンテージが無いと勝つ事ができません。ただ、平兵衛自身、十目近いハンデを貰って勝ってもあまり嬉しくありません。

そこいくと重四郎は、平兵衛のヘボな碁といい勝負を致しますから、穀屋の店に重四郎が稽古に来ると、一番二番と碁盤を囲むのが常で御座います。

その日も、剣術の稽古の後に、重四郎は平兵衛と碁を囲んでおりますと、珍しくお浪が冷たい麦茶を竹筒に入れて持って参ります。


お浪「お父様、麦湯を井戸水で冷たく冷やして参りました。重四郎様も、お一つ召し上がって下さい。」

平兵衛「お浪、ありがとう。お前は、時期に柏木の家へ嫁ぐ身だ。こうして、お前と接する夏は、此れが最後になるのか、のぉ〜。」

お浪「嫌ですよ、お父様。西國の果てに嫁ぐ様な物言いをなさって。関宿の坂戸村へ行くだけですから、何時でも逢えますよ。」

平兵衛「馬鹿を言うなぁ。女は嫁いで、他人様の家に入らば、離縁されぬ限り実家へは帰らぬものだ!!そのくらいの覚悟で、彼方の家、柏木の家に染まるものです。」


重四郎、この平兵衛とお浪を見ておりまして、改めて見たお浪に、強い恋心が芽生えてしまいます。重四郎自身が驚く程の恋心。今、この場で、お浪の手を引いて、映画『卒業』の様に連れ去りたいと思う程の衝動です。

この日は、その衝動を堪えた重四郎。家へと帰ると、悶々とした時が流れます。もうこの思いを書き物にして、お浪にぶつけてやらねば。。。気が狂いそうなぁ、重四郎です。


艶書


現代で言う恋文/ラブレターを書きまして、既に、結納を済ませた婚礼直前のお浪に対して、重四郎は艶書を渡そうと決意致します。

何とかこの思いをぶつければ、お浪はきっと分かってくれる。この畔倉重四郎が告白するのだから、思いが通じぬ訳がない!!お役者、二枚目の俺様が口説くのだから。

この重四郎の身勝手な思い込みが、後に悲劇を招くのですがぁ、この時は、お浪への恋心で猪突猛進の重四郎、立ち止り考えるなど一切なく、強引にお浪へこの艶書を渡そうと企んでおります。


その日も、穀屋平兵衛に碁の相手をと、重四郎はせがまれて、お浪の事を思いながら気もそぞろに平兵衛の相手をしております。

どーにかぁ、懐中の艶書をお浪に、こっそり渡したい!!其ればかり考えておりますから、碁、どころではありません。


平兵衛「どうした、重四郎殿?!三番続けて負けるなど、初めてだそ!!どうかなされましたか?」

重四郎「いやぁ〜。平兵衛さんの打ち筋が鋭くて。。。参りました!!」

平兵衛「そうですかぁ、世辞と分かっていても、嬉しい事を言って下さる。ちょっと、憚りに立ちます。もう、一番だけお付き合い下さい。」

重四郎「畏まりました。」


平兵衛が厠へ立つと、重四郎、急いでお浪の部屋へと向かって見ると、お浪は一人で何やら縫い物をしております。

『お浪さん!』と、重四郎は部屋の外からお浪を呼び出し、お浪が側まで来ると、懐中から艶書を出して、お浪の袖へと突っ込んで、素早く立ち去ります。

呆気に取られるお浪!『何かしら?』と思いますが、まさか艶書とは思いませんから、直ぐには、此れには目を通しません。

一方の重四郎は、直ぐに碁盤に戻り、暫くすると平兵衛が厠から戻り勝負再開となりますが、艶書を渡して心が落ち着いた重四郎、碁の打ち筋がいつも通りに戻り、平兵衛がコテンパンにやられてしまいます。


さて、穀屋から帰宅した畔倉重四郎、いつお浪からの返事が来るか!?と、心待ちにしております。こっそり、小僧の音吉あたりに付文を託して返事をくれるに違いない。

勝手に、そう思い込んでおるのですが、翌日、艶書を開けて読んだお浪の方は、ビックリ仰天致します。結納を済ませて、近日、婚礼を控えた娘に対してあまりにも大胆です。

そして、この艶書の結びに添えられた歌が、実に、畦倉重四郎らしいキザな歌で御座います。


見るめなき定めは裏と知らねばや 

かれなであまの明日行く来る 


此れを見ただけで、お浪には重四郎の本気の度合いが分かるだけに、何とか角が立たない様に、どうしたら良いか?優しいお浪だけに、落とし所を悩んでしまいます。

結局、艶書を受け取った三日後に、この事を乳母/老婆や(ばあや)に相談を致します。お浪としては、父平兵衛にダケは絶対に知られたくないので、

重四郎とは幼なじみの学友であり剣術では師弟にあたるのだから、兄平吉に頼んで重四郎にお浪を諦める様に説得して貰うのが良いのでは?と、言いましたが、

同世代で重四郎の方が年上、しかも平吉は重四郎の剣術の門弟である。強く平吉が重四郎に意見しても、聞き分けない可能性が高いと老婆やは強く反対致します。

そこで、老婆やが申すには、婚礼の媒酌人であり、平兵衛とは幼な友達で大親友の杉戸屋富右衛門に相談すべきだと言うのです。


そこで、杉戸屋へ老婆やを伴ってお浪が、重四郎からの艶書を見せますと、杉戸屋富右衛門、この艶書が、あまりに古風で、しかも、小野小町と深草少将の悲恋に準えてあるのが、いと滑稽に映ったと見えて、

一笑に伏しこの艶書を、こともあろうに穀屋平兵衛に見せてしまうのです。富右衛門は古風で滑稽で済みますが、平兵衛は怒り心頭です。

日頃から大そう可愛かっていた畦倉重四郎が、婚礼の決まっている、既に結納まで済ませている娘に、横恋慕する様な艶書を出すなんて!!


あの野郎、深草少将気取りかぁ!!


怒りました穀屋平兵衛、番頭から丁稚まで奉公人を全員集めて、お浪に対して重四郎が艶書を渡し、嫁入り前の娘をキズモノにしようとしている!!あんな奴は、出入り止めだ!!と宣言致します。

そんな事になっているとは露ほども知らない畔倉重四郎。月のうち、五日、十五日、二十五日は剣術の稽古の日なので、穀物屋へ参りますと、

突然番頭から、剣術の稽古は当分中止にするから、此方へはもう来なくていいと言われ、今月分の月謝だと二分の金子を渡されます。

『どう言う事か?旦那に会わせろ!!』と、重四郎が問い詰めると、旦那は留守で、若旦那も一緒で留守だと申します。いよいよ、何か裏が有るなぁ?と、懐疑的になる重四郎です。

このまま番頭に尋ねても、答えは出そうにないので重四郎、ガキのくせに意地汚く、十二にして酒の味を覚えている音吉から聞き出そうと致します。


重四郎「おーい!其処行くのは、音吉じゃねぇーかぁ。何処へ行くんだ?」

音吉「ご用聞きに、松屋さんまで。」

重四郎「帰りに一杯やらねぇ〜かぁ?!」

音吉「エッ!ご馳走して下さるんですか?畦倉様。」

重四郎「あぁ、お前ん所の番頭から、手切れ金みたいな月謝を貰ったからなぁ。」

音吉「。。。」

重四郎「稲荷橋の『植月』、知ってるだろう?あそこで飲んでいるから、ご用が済んだら来いよ、ご馳走してやるから。」

音吉「エッ!あんないい店で、ご馳走して下さるんですかぁ〜。必ず行きます。ご用が済んだら、飛んで行きます。」


音吉が『植月』へ行くと奥の小上がりで、重四郎が一人で酒をちびりちびりやりながら、待っていた。

重四郎「音吉、ここだぁ!!さっ、行ける口だろう?一杯やんねぇ。取り敢えず、マグロとネギのぬたを頼んだ、時期に来るから食べてくれぇ。」

音吉「ご馳走様です。でぇ、畔倉様、私に、何を聞きたいんですか?旦那様が、出入り止めになすった件は、喋れませんよ?!」

重四郎「俺は、穀屋を出入り止めにされているのか?今、知ったぞ。だから、番頭は剣術の稽古はお仕舞いとか言ったのかぁ〜。」

音吉「。。。」

重四郎「来た!来た!さぁ、食え音吉、遠慮すんなぁ、酒もじゃんじゃん飲め!!」


音吉、まだ、店に戻って仕事が有りますからとは言うけれど、もう、酒を二合半も頂いて、顔を真っ赤にしてご機嫌です。


音吉「しかし、畔倉様も古風ですね?」

重四郎「何の事だぁ?」

音吉「和歌ですよ、お嬢様に畦倉様が渡した。豚草が少々?でしたっけ?モモで夜通って死んだ人。匍匐前進で夜這いしたんですか?恋の路は大変だぁ〜って言ってました。」

重四郎「誰から聞いた?お浪殿か?!」

音吉「違いますよぉ。お嬢様はその様な軽はずみな方ではありません。」

重四郎「では、誰から聞いた?!」

音吉「此処だけの話ですよ、私から聞いたなんて言わないで下さい。杉戸屋の旦那が、畦倉様の艶書は、実に古風で面白い!!って、皆んなに触れて廻ってます。」

重四郎「なぜ、杉戸屋が、ワシの艶書の内容を知っておるのだぁ?!」

音吉「お浪様が、畔倉様から艶書を頂いた後、思案に困って老婆やに相談したら、老婆やが、杉戸屋の旦那に知恵を借るのがいいと言って、

それで例の艶書を杉戸屋の旦那に見せたらしいんです。

そしたら、杉戸屋の旦那がそいつは滑稽だ!!今時、こんな古風な艶書を女に渡す、時代錯誤の間抜け野郎も有ったもんだと、腹を抱えて笑っておられました。」

重四郎「音吉!お前、誰に向かって話しているか?分かって喋っていのか?それで、なぜ、俺様は穀物屋を出入り止めにされたんだ?」

音吉「それがですねぇ、その御古風なお艶書様と、今時御間抜けな野郎様だと、杉戸屋の野郎がぁ!!そのまんまを、旦那様に告げ口したんです。

そしたら、旦那様が畦倉様を御出入り止めに奉りました。何とも誠に恐惶謹言に御座います。」

重四郎「いいよ、音吉。普通に喋れ。でぇ、穀物屋の旦那は、その出入り止めの他に、何か言ってたか?」

音吉「悪い虫がお嬢様を狙っているから、婚礼を早くした方がいいと言って、月末に関宿の坂戸村へ掛取に行くついでに、柏木様の家に寄って婚礼の日取を決めるそうです。私もお伴で参る事になっております。」

重四郎「そうかい、色々教えてくれて、有難うよ、音吉。全部食っていいから、勘定は済ませておいてやる。ゆっくりして行きなぁ。」

音吉「畦倉様、有難う御座います。」


畦倉重四郎は、料理屋『植月』に音吉を残して、表に出ます。そして何やらぶつぶつと呟きながら歩く重四郎。

穀屋平兵衛の野郎!武士をつかまえて『娘に付く虫』と申すかぁ!許せん。毎度毎度、ヘボな碁に付き合わされて、奉公人には剣術を教えてやった恩も忘れて出入り止めかぁ?!

また、杉戸屋富右衛門の野郎もけしからん!人が書いた文を勝手に読んで、悪口雑言!世間に言いふらすとは、二人纏めて成敗してくれる。と、重四郎、勝手に逆恨みを始めます。

そうだ!!思いたった様に、久しぶりに此方方面に来たからと、博打仲間で悪友の『火の玉の三五郎』の家に寄る事にします。


重四郎「左五郎は居るかい?!」

女房「ハイ!どなたですか?」

重四郎「奥さん、私です、畦倉です。」

女房「畔倉様、今、酒屋まで酒を買いに出ていますが、時期に帰りますから、上がってお待ち下さい。」

重四郎「では、失礼して待たせて頂きます。」


と、三五郎の家に上がって待っていると、正に、火の玉である。けたたましく三五郎が帰って来る!!


三五郎「オッカぁー。酒屋のオヤジめ、下身だけでいいって言うのに、毎度毎度、下身だけでは売れません!!とか、ケチな事を言いやがってよ。

あぁ?誰か来てるのか?客か?なんだ!重四かぁ、何の用だ?銭儲けの相談か?」

重四郎「ただ、近くに来たから寄っただけだ、酒を買いに行ったと聞いたから、ご馳走になるつもりだったが、下身かぁ〜。相変わらずシケてやがる。」

三五郎「大きなお世話だ。そうだ!帰りに此れを、今、拾ったんだぁ。杉戸屋富右衛門のタバコ入れ。」

重四郎「なぜ、杉戸屋の物と分かる?」

三五郎「中に書付が、ほら?!碁の誘いだぁ、穀物屋の旦那から杉戸屋宛になっている。読んでたたみ直してあるし、出す前の書付じゃねぇよ。」

重四郎「俺が、出入り止めに成ったから、杉戸屋を誘いやがったなぁ。」

三五郎「なんだ?出入り止めって?!」

重四郎「何でもねぇー。それより、そのタバコ入れ、俺に売れよ、三五。」

三五郎「売れって、このタバコ入れだぞ?新品でも三百か?四百文だろうぜ。こんな物買ってどうするんだ?」

重四郎「いいから、俺に二分で売れ!!」

三五郎「悪いよ、こんなタバコ入れで二分も、貰っちゃあ。えぇー本気(マジ)でいいのか?分かった!やるよ、銭はいいって。」


三五郎が要らないと言うのを、女房の帯に二分を捻じ込んで、タバコ入れを貰って帰る重四郎。硬く口止めをして、三五郎の家を出ます。



つづく