次郎吉 改 治郎兵衛は、佐野船橋に間口十二間、奥行き二十七間。と、申しますから、三百十八坪の広さのある店の主人となりました。
蔵も四つありまして、生糸や反物が納められております。先ずは、絹商人としてのイロハを、一番番頭の清六さんから毎日毎日レクチャーされます。
治郎「番頭さん、生糸は産地で値段が変わりますか?」
番頭「全然違います。悔しいですが、野州の生糸に比べて、信州の生糸は二倍から三倍の値段に成ります。」
治郎「何がそうまで、差が出るんですか?」
番頭「それは、生糸の価値、つまり、より細く強く一定の太さで紡いであるか?で決まります。」
治郎「薄くて軽いのに暖かくて丈夫な布地が出来るからですねぇ?」
番頭「その通りです。カイコの繭の質と、紡ぐ為の糸車の性能、そして実際に紡ぐ人の技量、この全てが一流でないと良い生糸は生まれません。」
治郎「奥が深い世界ですねぇ。」
早速、店の蔵に有る生糸を触ってみる治郎兵衛。同じ十二束で、値段は一番安い生糸は三分なのに対して、最も高い生糸は七両二分の値段を付ける。実に10倍である。
流石に、この二つは治郎兵衛が触っても、その違いは歴然で、安い方の生糸は、よーく観ると色にも雑味があり、透き通る様な白では無い。
この違いの源が知りたくなった治郎兵衛は、番頭の案内で、先ず、野州の蚕糸農家を廻り、次に上州、常陸、下野、上野、信州、越後と、取り憑かれた様に、蚕糸の価値の源を探り始める。
細かく調べると、生糸の良し悪しは、繭:糸車:人=3:1:2の割合で影響している事が分かり、
即ち、至極当然な結論ですが、良い繭と良い加工職人が出会うと良い生糸が生まれると言う結果が導き出されます。
この調査結果を元に治郎兵衛は、野州の良い職人と個別契約をして、野州に限らず全国の蚕農家から、良い繭を買い付けて供給する事で、
良い職人と良い繭を積極的に結びつけて良い生糸を作る仕組みを作り上げるのです。此れを大規模にやる事で、治郎兵衛が売る生糸は、ほぼ全てが上物・一流品だけに成りました。
以前は、各地方地方で、農家単位の契約をしますから、完成した生糸をわざわざ、店の目利きが農家や問屋へ出向き、その生糸の出来栄えを一つ一つ検査して値を決め、交渉して買い上げる事を繰り返しておりました。
だから、一農家が造る生糸には、繭のでき職人の技量で、ある幅のグレードの異なる生糸が出来てしまうので、買い付けた結果、生糸には、安物から高級品まで、先程申した十倍の差が生じておりました。
また、この生糸も確かに売り買いして、絹商人は利益を得るのですが、やはり利益が莫大になるのは、此れを機織り機で反物に織ってこそになります。
この機織りにも、織機の性能と、機織り職人の技量で、反物の品質が決まりますから、ここでも、各地方地方の個性が御座います。
此れも、治郎兵衛はコツコツと調べて、研究し、織機に合った生糸、その地方に好まれる生糸を作り、より付加価値の高い反物を造る事に成功します。
この様にして、地道な努力を積み重ねて、生糸と反物の価値を高める事に成功した治郎兵衛は、僅か四年で、三右兵衛の代から売り上げを三倍、利益は五倍にする事に成功します。
また、元々博打打ちですから、相場にも絹で儲けた銭を投資して、蚕繭だけでなく、米、小豆、大豆、FXなどで、数万両と言う身代を築き上げる事になります。
一方、お浅ての夫婦仲も、最初は非常に良かったし、連子の仙太郎も懐いて、親子三人仲良く暮らしていたんですが、一緒になって二年目に、実子の次男、次三郎が産まれると、様子がおかしくなり始めます。
この次三郎が、のちに次郎左衛門となる治郎兵衛の子供なのですが、まず、先に申しました様に、治郎兵衛は、最初は入婿でもあるので、店の番頭、手代から、絹商人のイロハを謙虚に習います。
やがて、自分なりに絹商人としての商売のビジョンを持つ様になり、この達成の為に努力して、それなりの成果を上げます。
こうなると、最初は婿養子の旦那様、入婿のご主人様と、やや下に見ていた奉公人たちも、実際に絹商人として立派な成果を出し、自分達に三右兵衛時代より沢山給金をくれる治郎兵衛を尊敬する様になり、その存在は絶対的な者になります。
ですから、治郎兵衛が、次三郎が生まれて二年が経ち、仙太郎が十六になると、仙太郎を別家させて、三右兵衛が所有していた田畑山林を全て与えて、農家で一本立ちさせる事に、女房のお浅以外は反対しませんでした。
と言うのも、三右兵衛の頃の身代は、五百両程の現金と田畑山林の価値が三千両です。しかも、絹商いの売上が三千両、小作人からの農業収入が千五百両なのです。
絹商いは、五割も利益はなく、二割五分からせいぜい三割ですから、農業の方が儲かっておりました。
ただし、治郎兵衛の代になり、次三郎が二つになった四年目の実績では、売上が三万五千両、儲けが一万三千両ですから、女房のお浅が、口を挟むのも無理はありません。
そんな治郎兵の商売は、面白い様に、打つ手打つ手が嵌り、rolling stone 坂を転がる石の様に大きくなります。ところが、次三郎が五歳の時に疱瘡を患います。
今業平と呼ばれ、剥き卵の様に、つるん!としていた次三郎の顔が、腫れ上がり熱が出て、跡が残るとアバタに(avatarではない)なります。
治郎「明日は、江戸表より弘庵先生が、次三郎を診に来て下さる。粗相の無い様にね。番頭さん!清六さん!小僧たちにも、よく言っておいて下さい。
それと、お孝!お前さんが女中頭なんだから、若い女中たちや下男にも、粗相が無いようにお願いしますよ、特に飯炊の権助!あいつは、特に要注意だから!!お願いしますよ。」
お浅「あなたは何時も次三郎ばかり、過保護になさるのは止めて下さい!仙太郎が以前、流行り風邪で大そう高熱が出て寝込んだ時、
私が別家へ出向いて看病するのを、お前が看病しようがしまいが、病の治りには関係ない、生きる奴は生きるし、死ぬ時は死ぬんだ!
つまりは、死神の里の蝋燭の高で決まるんだ!お前がいくら看病しても、蝋燭の火が消えたら仙太郎は死ぬ。それが寿命だ!!だから、無駄だから看病なんてするなぁ!と、仰った。
それなのに、次三郎の時には、貴方自身が、商いにも出ないで看病なされて、江戸から医者や薬師、それから祈祷師、何人呼びましたか?!次三郎こそ、疱瘡なんだから、放って置いたら良いんじゃありませんかぁ!!」
治郎「次三郎は疱瘡だぞ!風邪なんかと一緒にするなぁ!!
それに弘庵先生が、『あじゃらかもくれん きゅうらいす お紺の怨念が心配です。 テケレッツのパッ!!』、パンパン。と、やって治して下さるかもしれんじゃないかぁ!!」
お浅「いいぇ、私が申したいのは、仙太郎も次三郎も同じ息子なんだから平等に可愛いがって欲しいんです。仙太郎だけ、継子虐めするのは、およしになって下さい!お願いします。」
治郎「口の減らん女だなぁ。ワシが、いつ継子虐めをした!?」
お浅「仙太郎が、仙太郎が可哀想です!!」
治郎兵衛、愛する息子次三郎の事だけに、ついお浅に対してカッ!と成り、その手に持っております算盤を投げ付けてしまいます。
こいつが、当たり所が悪く、頭に命中します。算盤が壊れて玉が弾け、お浅は半狂乱になりながら、泣いて!泣いて!
その日は薬を飲ませて寝かせたのですが、頭の怪我自身はコブが出来ただけで、大した事は無いのですが、此れからお浅は気がふれた様になり、日常的な受け答えも、会話にならなくなります。
更には、時々「治郎兵衛の野郎が、私の仙太郎を殺しに来る!!あいつは鬼だ!悪魔だ!」と、叫びます。奥に座敷牢を作り其処へ入れるようになります。
こいつは、お紺の祟りか?それとも、山田三四郎か?毎日暇があれば、仏壇に線香を上げて祈りますが、お浅は、日に日に衰弱し、遂には半年で亡くなります。
お浅の四十九日もまだなのですが、十二月は商人は忙しい月です。次三郎の疱瘡の腫れも引き、熱もないので、今日から十日程、江戸表へ商いへ出掛ける治郎兵衛。
旅支度を厳重にして、道中差しの脇差を持って佐野船橋の店を出ます。さて治郎兵衛、これより運命の『戸田の渡し』で、江戸節お紺と再会する事になるのですが、続きは次回のお楽しみ。
つづく