赤坂田町一丁目へ引っ越して、次郎吉は古着屋を始めます。女物仕入をお紺が気が向いたら手伝いますが、古着を風呂敷に詰めて運ぶのは、男の仕事です。
次郎吉「一日中家に居てぶらぶらしてんだったら、掃除、洗濯くらいしろよ!お紺。」
お紺「あたしゃ、家事は一切できないんだよぉ!!江戸節お紺は芸者なんだ、女中を雇おうよ。前のお清みたいな老婆やを。ねぇーねぇー、雇おうよぉ。」
次郎吉「俺の稼ぎじゃぁ、老婆やは無理だよぉ。頼むから掃除と洗濯だけでもやっツくれぇ。」
次郎吉がせっせと、日銭を二分、三分と稼いでも、なかなか家系は苦しい毎日です。お紺は家事一切をしませんから、それも全て次郎吉の仕事です。
芸者だったのなら、踊り、三味線、唄を教える師匠にでもなれば、町内の鼻の下の長い連中が集まりそうなモノなのに、そう言う商売ッ気は一切有りません。
だから、絶えず喧嘩になり、言い争い、罵り合う。次郎吉は、博打場に出入りする暇も金も有りませんから、真面目に仕事するのですが。。。
働けど働けど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る
そんなある日、お紺の目の上に、何やらオデキが凸と現れます。此れをニキビか何かだと思ったお紺、潰してしまいます。
すると、身体全体から熱が出て目眩に襲われて、立ち上がる事もかないません。結局五日程寝込んでしまい床から出られません。
そうこうしていると、潰した所から膿が出て大きく腫れ上がり、目蓋が開かないくらいに腫れて、顔がズレたか?と思うぐらいに、左右の目の位置が釣り合わずおかしな塩梅に。
更に、鼻の上にもオデキができて、今度は潰さずに、次郎吉が買って来た薬を仕切りに塗りましたが、どんどん腫れて膨らんで、十日経つと鼻がポロリと落ちてしまいます。
夜鷹買い 花、お千代とは 恐ろしや
次郎吉が、人生でこんな美しい人は居ない!!と、思ったお紺が、人生でこんな化物は見た事ない!!ってぐらいに、酷い有様です。
右の目は、斜め上に付いていて、左右が立派的に90°ズレている、丸で右目だけカメレオンの様です。顔の中央は鼻が落ち穴が二つ有ります。更に目の上の腫れ、膿が額から頭に広がって毛が抜け落ちて落武者の様。
お紺「次郎さん、あたしゃ、どうなるだろうねぇ?怖くて鏡なんて見れないよぉ。」
次郎吉「何を弱気な事を言ってやがる。いい薬を買って来てやるから、待っていろ。頭の膿を、手拭いで。。。ホラ!動くんじゃねぇー、我慢をしろ。」
お紺「次郎さん!家事もできない、化物みたいに成ったアタイを、捨てないでねぇ。お荷物だろうが、捨てたら恨むからねぇ〜、次郎さん!アンタに捨てられたら、化けてやるから。」
次郎吉「縁起でもない事言うなぁよぉ、お紺。捨てたりしねぇーよ、俺たちゃ夫婦じゃねーかぁ。支え合って生きて行くのよ。」
お紺「次郎さん!本当かい。捨てちゃ嫌だよぉ、捨てないでおくれよぉ。」
次郎吉「あぁ、分かったから、もう喋るなぁ。体に毒だから。少し寝ろ。背中、摩ってやるよぉ。」
何とも言えない膿の悪臭が、部屋の中に充満します。瘡蓋になる様に薬を油紙で貼りますが、次から次に膿が出て、
もう三ヶ月、次郎吉は殆ど寝ずに商売とお紺の看病の生活、もうこれには限界を感じておりました。そんなある日。
次郎吉「お紺!三河屋に居た頃に、俺の事を兄貴!兄貴!って金魚のフンみてぇーに付いて廻ってた、留公を覚えているかい?!」
お紺「留公って留吉ッさんかい?」
次郎吉「そうだ、その留吉に俺が、野郎、故郷の小田原に帰るって言うから、在る時払いの催促無しで、まぁ餞別代わりに十五両くれてやったんだ。
それを、遣いっていう野郎が、三河屋へ届けに来たらしんだけんど、俺が芝口から赤坂に越したのを誰も知らねぇーもんだから、その遣いを小田原へ帰ぇーしちまったんだと。
そこでだ、お紺。留吉の野郎、今は小田原で米屋をしているらしんだ。結構羽振りもいいらしい。それで、俺が直接、小田原まで十五両取りに行って、
ついでに留公に訳を話して、十両でも十五両でも追加で借りて、二人で近場の温泉、箱根か湯河原辺りで湯治をしよう?!
それでお前の病さえ治りゃぁ。また、二人で何とかなるからさぁ。小田原に金子を都合しに行かせてくれぇ。」
お紺「いいとは思うけど、小田原まで二十里はあるから往復で四、五日掛かるよ。それに路銀はどうするんだい?野宿って訳にはいかないだろう。」
次郎吉「夜具布団に、鍋釜、箪笥、家財道具を全部バッタに売って、それで小田原へ行こうかと、思うんだ。四、五日だから、お紺!我慢してくれぇ?!」
お紺「やだぁ!アタイその間、布団無しの寝たきりかい?!」
次郎吉「座布団と掛け布団で我慢してくれぇ。四、五日だから、帰ぇーったら駕籠に乗して湯治に連れて行くから。我慢してくれぇ。米代は置いて、隣のお崎さんに、よーく頼んどくからぁ。」
お紺「分かった、次郎さん!早く帰って来ておくれぇ。捨てたりしたら、祟るからねぇ!!捨てないでおくれぇー!次郎さん!!」
次郎吉「心配するなぁ!直ぐ戻るから。」
その日のうちに、屑やの清兵衛さんに、家財道具一式をバッタに売って、二両と言う金子を次郎吉は手にします。
小田原へ行ってきます!と、出ましたが、品川から東海道ではなく、小石川、巣鴨、板橋と抜けて中山道を北へと上ります。
そうです、此処にお紺を捨てて、自分だけ佐野犬伏へ帰ろうと致します。しかも、亡くなった、先の女房の実家、焼金の鐡蔵親分の家を目指すのです。
鐡蔵「やい!次郎吉。てめぇーお菊の四十九日も済まないうちに、巣鴨の長寿庵を売り払いやがって。いってえぇ!!どう言う料簡なんだ!!」
次郎吉「すいません!お菊と赤ん坊を一度に亡くして。。。何もする気になれず。あの店を売って四十両の銭が出来たんで、二人の供養にと伊勢詣と、四国八十八ヶ所の巡礼の旅に出ました。
其れが漸く三年半で今年の四月に終わり、江戸に戻り心機一転、古着屋商売を始めたんですが、なかなか上手く行かず。それで、恥ずかしながら、故郷に帰って参りました。」
鐡蔵「お前は小野田さんかぁ!?それより、有益さんも、奥さんの多恵さん、お前の両親ともに、お前が居ない間に亡くなったぞ。」
次郎吉「本当ですか?知っていたら、お菊と赤ん坊と一緒に回向していたのに。早速、明日墓参りだけはやって来ます。」
鐡蔵「それから次郎吉、お前の舎弟、次郎三郎、今は立派な医者になって跡を継いどる。名前も小松原有信といって、苗字帯刀を許される身分だ。」
次郎吉「墓参りの前に、小松原村の町役に挨拶をして、入村の許しを貰いに行きます。今は、誰方が?町役ですか?」
鐡蔵「誰方がって、お前の伯父貴、彦兵衛さんが今も町役人だ!!勝手に殺すなぁ。」
次郎吉「親父も、お袋も死んだのに、あの伯父さんは長生きしとるのかぁー悪人は長生きだぁ!!もう、とおに還暦過ぎていますよねぇ?」
鐡蔵「そんなに毛嫌いして邪険にするなぁ。行けば喜ぶぞ、甥っ子だからお前も。」
次郎吉「あまり良い印象が互いにありませんからぁ。ただ、町役人なら会わない訳には。明日一番で彦兵衛伯父さんの家へ行きます。」
次郎吉「彦兵衛伯父さん!次郎吉です。ご無沙汰しております。昨夜、江戸表より戻りまして義父の鐡蔵親分に挨拶をしましたら、両親が身罷ったと伺いました。
私は、勘当の身で、人別帳から除籍された男ですけぇ。町役人である伯父さんの許可を頂いて、墓参りをしたいと思います。
また、許されますなら、実家を継ぎました舎弟の次郎三郎、ではなく、今は有信さんにも、ご挨拶をし、兄として至らなかった事、迷惑、心配を掛けた事の謝罪だけは、致しとう存じます。」
彦兵衛「人非人の割には、大した口上ぶつじゃないか?猫被っても、オラは騙されんからなぁ!!しかし、墓参りと謝罪は認めてやる。ワシも付いて行くから、ちょっと待っとれぇ。」
彦兵衛に連れられて、両親の菩提寺へと向かいます。途中、菊の花と線香を買って、今朝鐡蔵から借りた一両を袱紗から出して、住職に渡します。
その足で、実家へと行くのですが、その日は、有信先生は午前中二軒の往診があり、帰ると午後の外来が来ると言う。それでも、今日、謝罪をと次郎吉は、弟有信先生の体が空くのを待ちました。
有信「兄さん!彦兵衛伯父さんから、お話は伺いました。両親の墓参りは勘当されても、血は繋がってますから親子、だから許すとしましても、もう、この家には二度と来ないで下さい。
貴方が、ここ小松原村に居た時に行った悪行三昧は、消えません。そして、貴方が謝罪するのは勝手ですが、私は貴方を決して許しません。」
次郎吉「お前さんに、何を言っても、今は信じて貰えないのは分かる。だがなぁ、血を分けた兄弟なんだから、いつの日にか交わる事が出来ると俺は信じている。
次郎三郎!だってそうだろ、止まない雨は、ねぇーんだぜ。今日ん所は、長らく迷惑ばかり掛けてすまなかった。」
敷居は跨がない様にして、次郎吉は体を90°くの字に曲げて、謝りました。「もういいよ」と、小さく呟いた有信の声が聞こえた後も頭を上げません。
見かねた彦兵衛さんが、次郎吉の方を起こすと、地びたが次郎吉の泪て、点々に濡れておりました。
彦兵衛「これからどうする、次郎。」
次郎吉「鐡蔵親分の店で蕎麦打ちます。」
彦兵衛「そうかぁ、気バレ!!」
江戸のお菊とやった長寿庵の幸せだった頃を思い出して、佐野犬伏でも、朝一番で仕入れて、蕎麦を打ち、昼は釜の前に立ち、夜はボテ振りに出ます。そして、そろそろ一年が過ぎようとしたある日。
鐡蔵「次郎!今日は夜ボテ振りは、出ねぇで店に居てくれぇ。」
次郎吉「どうしてです?」
鐡蔵「いやなぁ、大切なお客様の予約が、入ぇっているから、お前にも助て欲しいのよ。」
次郎吉「大勢ですか?」
鐡蔵「いやぁ、二人だ。」
次郎吉「分かりました、仕入れに行って来ます。」
次郎吉が、仕入れから戻り、いつもの様に蕎麦を打ち、昼が終わる。夜の特別な客には、川魚のツミレ汁と、山菜の天ぷら。それと、茶そばを打って準備した。
二人前の膳が用意できて、運ぶばかりで、台所で次郎吉が待っていると、その特別な客が来たと鐡蔵が中へ来て、膳の片方を鐡蔵自らが運ぶと言う。
そして、奥の小上がりに二つの膳を運ぶと、其処に居たのは、彦兵衛と有信だった。
鐡蔵「次郎吉!お前も、其処に座れ。」
次郎吉「へぇ」
次郎吉が座布団を退けて、畳に直で座ろうとすると、
有信「兄さん!布団を当てて下さい。私も伯父貴も当てていますから。」
次郎吉「いやぁ、アッシは客じゃありませんから。店でのケジメで、御座んす。」
彦兵衛「それなら、進めさせて貰うよぉ。次郎吉、今日なぁ。小松原家当主の有信から、お前さんの勘当を解くように、町役人・五人組宛に訴状が出された。
そして、満場一致で採択されたので、次郎吉、お前さんは、晴れて小松原村の住人に戻った。更にだ、お前の父親、有益からの遺言で、自宅の土地家屋と田畑、山林は全てが既に有信へ相続されておるが、ここに、私が預かった百両の金子がある。
此れを有益の遺言に従って、本日、お前さんに渡す事になる。有信に感謝しろ!勘当を解いたから、お前の物になったんだからなぁ。」
次郎吉「伯父さん!有信!俺はこの金は受け取れねぇーよ。散々悪さして。。。俺は受け取る資格がねぇーよ。」
彦兵衛「何を『井戸茶』の侍みたいな事を言とる。それなら、本当に『井戸茶』みたいな、提案があるんだぁ。
お前なぁ、その百両、入婿養子に入る支度金だったら、受け取るだろう?」
次郎吉「何ですかぁ?伯父さん、藪から棒に!!」
彦兵衛「お前、佐野船橋の絹問屋、三右衛門を知っとるか?」
次郎吉「知ってはおりますが、私より二十は年上の方なので、口を聞いた事はありません。」
彦兵衛「その三右衛門が、先月急死してのぉ。息子は仙太郎と言ってまだ十二歳だ。そして、三右衛門より二十五若いお浅さんという後家ができた。」
有信「兄さん!その三右衛門さんは、私が主治医をしておりました。元々肝の臓が弱かったのですが、お酒がすこぶる好きで過ぎるのと、適度な運動程度ならいいが、大山信仰の先達をなさってて、山から帰ったら黄疸が出て、半年程で亡くなりました。」
彦兵衛「その絹商人の三右衛門の店に、コブ付きの後家を貰って、婿養子に入らないか?!って話があるんだ。絹商人だ、身代は太いぞ。」
有信「お浅さんは、私も良く存じていますが、大変利発で、子育てにも熱心です。まぁ、顔は十人並みに美しい人です。」
次郎吉「容姿はいいよ。働き者なら。分かりました。私には勿体ない様な良縁です。良いも悪いも有りません。全てお二人にお任せします。」
次郎吉、伯父と舎弟の体面もあるんだろうと、忖度した。それに絹問屋の主人になる話で、別に支度金が百両付いて来る。受けて損はないと思った。
話はトントン拍子に進み、三ヶ月後には、高砂やこの浦船に帆を上げて!!と、三三九度の盃を神社で上げた。(先の二回の女房とは、くっ付き合いだったから。。。と思った。)
そして、心機一転、養子に入るのを機に名前を次郎吉から、治郎兵衛へと改名致します、宝永四年の事で御座います。
つづく