巣鴨の浅香町から闇に消えた二人は、西ヶ原から王子へ向かう裏道を歩いておりました。
三四郎「今、鳴っているのは、九ツの鐘じゃありませんか?店を出たのは、五ツだから、二刻も歩いて、私の分かる道に出ないなんて?!
二刻歩けば、三里は進んでいるはずなのに、まだ、王子へ着かない何て。。。道を間違えてはいませんか?ご主人。」
次郎吉「そ、そ、そんな事は、有りません。此処は猫又坂ですから、時期に、王子へ出ます。イテェテテ。」
三四郎「どうかしましたか?具合が随分悪そうですがぁ?」
次郎吉「さっきから、差し込んで。。。我慢してたんだが、腹が痛くて痛くて、辛抱ならねぇ。腰もメリメリ言うし、疝気か?」
三四郎「足を止めて、少し休みましょう。」
次郎吉「旦那の分かる道まで、案内するはずの私が、飛んだ為体(ていたらく)でぇ。」
三四郎「大丈夫ですか?」
次郎吉が、往来の真ん中にドッかと倒れて腹を押さえて苦しんでいる。三四郎は、すまない気持ち一杯で、オロオロして次郎吉の背中を摩るぐらいしか出来ない。
「大丈夫ですか?」と繰り返し声を掛け続ける三四郎が、完全に油断している所へ、次郎吉が匕首の鞘を払って、力任せに胸を目掛けて突き上げる。
そして、匕首が胸に刺さったのを確認して、グリグリ、グリっと捻って心の臓を突き破る。もの凄い量の返り血を出しますが、匕首を刺したまんまなので、次郎吉は浴びません。
声も出さないで目を開いたまんま絶命する三四郎。その体に刺さった匕首をゆっくり抜いて、今度は喉に突き刺す次郎吉。
三四郎がピクリとも動かないのを確認し、懐中に手を入れて、胴巻に包んだ三百両を奪い、紙入れの二十両と三分二朱も根こそぎ頂きます。
最後の仕上げは、匕首に付いた血を三四郎の袖口で拭い取って、その死骸は猫又坂から小屋下に放り投げてしまいます。
一方、お菊の方でも、次郎吉の帰りがやけに遅いのが気になります。何か悪い事に巻き込まれてはいないか?明日からもちゃんと商売をやってくれるのか?すると、雨戸を叩く音がして。
ドン!ドンドン!
お菊「次郎さんかい?」
次郎吉「そうだ!開けてくれぇ。」
お菊「ハイ、開いたよ。」
戸口から入った次郎吉が、慎重な面持ちで、今来た外の辺りを見回す素振りをしますからぁ。
お菊「誰かに付けられてるのかい?」
次郎吉「付けられる?誰にぃ?」
お菊「いやぁねぇ、外を見渡してたからさぁ。一本点けるかい?」
次郎吉「そうだなぁ、大きい徳利で二合ばかり頼む。それから、有り合わせで、何か肴もなぁ。」
お菊「ハイ、徳利熱いからねぇ、こんな物しかかいけど、我慢して下さいなぁ、次郎さん。
ところで、随分と手間だったんだねぇー、あの侍の見送りは。」
次郎吉「いやぁ、西ヶ原から王子へ抜ける道を一本しくじって二丁程戻ったりしたんだがぁ、王子で板橋への戻り駕籠を捕まえて、そいつに乗せたから大丈夫だ。
ただ、その帰りによぉ、文次の野郎に会って、馬込の夜明かしに連れて行かれて、話しに付き合わされて参ったぜ!男のお喋りは、タチが悪いぜぇ。」
お菊「あらぁ、そうだったのぉ。あんた!先に寝て下さいなぁ。私は残った蕎麦に霧吹きして、片付けてから寝ますから、お先に。」
次郎吉「悪いなぁ、先に寝かして貰うぜぇ。でもよぉ、朝はオイラが仕入れには行くから、すまねぇ、お先に!!」
お菊は、次郎吉が目を合わせて喋らないのを不審がり、先に寝かせて、次郎吉の身辺を探ります。流石、十手持ちの娘であります。
まず、衣服を調べてみますが、余計な金子や汚れなどはなく特に異常は見付かりません。そこは次郎吉も玄人ですから、盗んだ銭は庭の瓶に入れてありますし、返り血を着物に残す様なドジは踏みません。しかし、
お菊が、次郎吉の匕首を抜いて、その刃の油曇りを見付けてしまいます。これで、旦那はあの侍を殺したに違いない!と、確信します。
更に、二階の寝室に行くと次郎吉が、うなされながら寝言を。
「お侍!堪忍してくれぇ〜。。。出来心だぁ〜。。。苦しい。。。化けて出ねぇーで、くれぇ。。。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。。。」
翌日、店を終えた五ツ過ぎ。外へ出掛けようとした次郎吉を止めて、お菊が『大事な話があるから』と引き留めた。
次郎吉「大事な話って何だ?勿体付けねぇーで、早く言えよ。」
お菊「お前さんも、気付いてたかも知れないけどさぁ、赤ちゃんが出来ました。」
次郎吉「でかした!お菊。それで、男か?女か?」
お菊「分からないよ!まだ、三月半だからねぇ。それと、もう一つ。アンタ!あの若侍を殺したねぇ?!」
次郎吉は、お菊の緩急を付けた質問に、ドキッとしたが、『カマを掛けてやがるなぁ?』と思って白を切る。
次郎吉「何だぁ?昨日の若侍なら、駕籠に乗せたから板橋へ行ったよぉ。殺すなんて飛んでもない。何を言い出すんだ、藪から棒に。愛でてぇ話をしてたのに。」
お菊「昨日の夜中、アンタ、悪い夢を見なかったかい?随分、うやされてたよぉ。
『侍、悪かった!堪忍してくれ!出来心だ!』ってうわ言をいって、脂汗をダラダラ流しながら、苦しそうだったんだからぁ!!念仏まで唱えてたんだから、正直に言いなさい!!」
次郎吉「正直も何も、侍を殺したりしねぇーよ。」
お菊「まだ、白を切るんだねぇー。アンタ、この匕首を使っただろう?隠しても無駄だよ、ネタは上がってんだから、アタイは目明しの娘だからねぇ、この刃の油曇り!!人を刺さなきゃ、出来ないんだよぉ。」
そこまで言われると、もう、次郎吉、観念して白状するしか有りません。
次郎吉「匕首を見られてしまったんじゃぁ、もう、言い逃れはしねぇ。正月、二月と反目続きで、深みに嵌った悪い借金が賭場にあったんだ。
だから、あの侍が三百両持って逃げてるって、追って来た野郎から聞いた時にゃぁ、『殺るきゃない!!』って、お前は土井たか子か!!って突っ込まれそうだけど。。。そう思ったんだ。
お前に隠していたのは、余計な心配、させたく無かったからだ!!信じてくれぇ!!すまねぇ、嘘ついて。」
お菊「お中の子が産まれて来るんだから、アンタ!少しは跡先考えとくれよ。もうアンタも人の親になるんだからねぇ。
それと、済んでしまった事は、もう、とやかく言いません。言いませんが、殺した若侍の回向だけは、ちゃんとして下さい。お仏壇で毎日お線香上げて下さい。
『親の因果が子に報い』ってならないように!!くれぐれも宜しくお願いします。
そうだ!肝心な事を言い忘れていました。盗んだ三百両を、出して下さい。賭場の借金は?百両、まぁ、いいでしょう信じましょう。百両はアナタに差し上げますが、二百両は、夫婦の財産として私が管理します。いいですよねぇ?!以上。」
この一件から、長寿庵の夫婦は完全なカカア天下となった。早速、大工を入れて店を普請して内装を新しくして、益々、繁盛する事になる。
一方、次郎吉も親になる自覚からか?博打場へは足を運ばず、朝から晩まで真面目に働くいい亭主が続いていた。
そして、若侍の死体が一月後に見付かる。と言うのも、死体を最初に見付けたのが乞食で、その衣服と刀大小が盗まれ、更には、裸の死体は野犬に食い散らかされてしまう。
その乞食から刀大小を奪った渡世人が、刀屋に此れを持ち込んで、それが山田三四郎の物だと分かるまでに、一ヶ月の月日が流れてしまうのである。
そんな有様だから、この件は、町方も亀田藩も大した詮議は行われずに、被疑者死亡で処理されて、三四郎の兄、山田三右衛門だけが処分されて浪人となってしまう。誠に、次郎吉と言う男は悪運が強い。
時は流れて、秋になろいとしていた八月。お菊がまだ九ヶ月前だと言うのに、産気付いて出産したのだが、初めての長寿庵夫婦の子供は死産となる。
また、精神的なショックと、山田三四郎の怨念の祟りなのか、産後の肥立ちが悪く、お菊は出産から五日目に亡くなる。
次郎吉は、巣鴨の寺にお菊を埋葬し、佐野犬伏の焼金の鐡蔵親分に訃報を手紙に認め出したが、親分がお上の務めで体が空かず、代理人が肩身の引取りに来ただけだった。
次郎吉も当初は落ち込んでいたが、家の中を整理していて、お菊に預けた山田三四郎から奪った金子が、まだ、百五十八両出て来る。
俄然、無妻となった身の上を謳歌する気が湧いて来る次郎吉。蕎麦屋なんて、やっている場合じゃない。
早速、大家に相談して長寿庵の買い手を探して、居抜きで、道具、食器、お客付きの店が、四十五両で売れる。大家には手数料で五両サッ引かれて、つくづく大家は因業!と、感じる。
巣鴨浅香町の長寿庵を畳んだ次郎吉。博打場で知り合った三河屋藤七親分の芝口一丁目の家に居候する事になる。
この藤七、土木工事の人足、特に幕府の大普請が江戸市中に持ち上がると、職人、人足が不足する。その穴を埋めるのが三河屋藤七なのです。
ですから、同じ口入稼業でも、幡随院長兵衛の様な大名と直接取引をする大親分って訳じゃねぇーが、口入稼業なんで、それなりに子分の数だけは居ります。
だから、芝口の屋敷も、子分たちの寮を兼ねておりますから、次郎吉が一人転がり込んでも空いている部屋は沢山御座います。
そんなこんなで、次郎吉、芝口一丁目の三河屋へ寝泊まりし始めると、まず、身なりが小ざっぱりして男前。啖呵は切れて鯔背です。
また、金遣いも切符がよくて、金離れも綺麗ときていて、若い連中には奢るし、祝儀を切る。
そんな次郎吉ですから、三河屋の子分たちは、藤七親分よりも、次郎吉兄貴!と、次郎吉の周りを取り巻いて、どっちが親分だか分からない有様です。
その三河屋の隣りに、舟板塀に見越しの松と言う拵えで、女中のお清と女二人住まいの家が在ります。
元は柳橋の芸者で江戸節をよく語る事から『江戸節お紺』と渾名された絶世の美人。
今は、仙台公の江戸留守居役、渋江右膳と言う人が、月々莫大なお手当を払って囲っております妾に御座います。
このお紺、何やら気に掛かるいい男が、隣りの三河屋に新しく来たみたいだが、あれは何方やら?と、次郎吉の存在が気に成り始めていた頃。
次郎吉が三河屋を出て、塀伝に歩いておりまして、隣りとの角を曲がった瞬間、女中さんが撒いた打ち水が、着物の裾と言わず帯から下に勢いよく掛かってしまう。
「何にしゃがんでぇー!!婆ぁ〜」
と、次郎吉が反射的に叫びますから、女中のお清はびっくり仰天!奥に逃げ込んで、女将さんに助けを求めます。
お清「女将さん!やってしまいました。」
お紺「どうしたんだい、お清。何があったんだい?!」
お清「三河屋から曲がって来た男の人に、打ち水を掛けてしまいました!?」
お紺「だから、日頃から口を酸っぱく言っているでしょうアタイが。三河屋のは男の人なんかじゃないの!!
アイツらは、三下奴と言ってね、物凄くたちが悪い輩、輩なの。水なんか掛けたら幾ら慰謝料ふんだくられるか?!お清!お前の給金からサッ引くからねぇ。
あいつら『天災(てんせい)』とか心得てないんだから、ここを通った、我が身の不運とか言わないの!!お分かりか?」
一頻り、女中のお清に小言を言って、仕方なく謝りに出るお紺。しかし、そこには、水も滴るいい男が、下半身ずぶ濡れで立っていた。
出て来たお紺を見て、次郎吉はもっと驚く。明らかに外妾が住む家から年増が出て来るかと思っていたら、出て来たのは娘で、飛びっ切りの美人。人生で見た中で一番美しい女性かも?と思う次郎吉。
お紺「すいません!女中が粗忽で。今、お拭き致します。」
次郎吉「いえいえ、天災知らずのタチの悪い三下奴ですから。」(笑)
お紺「嫌ですよ、旦那!!聞いてらしたんですか、内輪の内緒話を。」
次郎吉「内緒にしては大きい声でした。申し遅れました、三河屋に厄介になっております、次郎吉です。」
お紺「こちらこそ、お紺と申します。お着物を中で乾かしますから、その間、お茶でもどうですか?ささっ、中へ。中へ。
お清!お湯を直ぐに沸かして頂戴。お客様だから、お座布団も。茶菓子は虎屋の羊羹を切って、ぶ厚く切るのよ、料簡見られるんだから!!」
次郎吉「。。。」
こうして、この後で、次郎左衛門の化物の因果に繋がる事件へと物語は進展致します。
つづく