都筑武助高茂は、四代続いた本多家の剣術指南役の地位を、御前試合にて殿様お気に入りの槍術指南役、八重垣主水を真剣勝負で斬り殺してしまい、殿様の怒りを買い失います。
浪浪の身となった武助。暫くは江戸表に居りましたが、藩からの追手が掛かり、また、頼りにしていた家老本多斎宮の急死もあり、藩への帰参を諦めて、武者修行の旅へと中山道を北へと上ります。
中山道は、戸田の渡しで、不細工な武助よりも、更に更に不細工、醜男日本一、と、言っても過言ではない佐野次郎左衛門と言う絹商人と知り合います。
そして、熊谷宿で、四人の長脇差から次郎左衛門が襲われているのを武助が助けてやった事をきっかけに、次郎左衛門から、是非、自宅に逗留して私に剣術を教えて下さいと頼まれるのでした。
佐野の船橋に在る次郎左衛門の自宅、離れの傍に有った一番古い蔵に手を入れて、此れを道場に致します。都筑武助自らが、檜の柾目に『鞍馬八流 都筑道場』と書いて看板を掲げます。
最初、門弟は次郎左衛門と清助の二人でしたが、一ヶ月もしますと、次郎左衛門の商売や町役の関係から入門者がありまして、二十数人の所帯とあいなりました。
そんな門弟の中でも、やはり、次郎左衛門の剣術への取り組みは、真剣さの度合いが違っております。強くなりたい!技を覚えたい!と言う、現代で申します処の『モチュベーション』が御座います。
朝は素振り、そして元々自信の有った脚力にも磨きを掛けます。つまり、基礎訓練を次郎左衛門は嫌がらず、コツコツと行うのです。
更に、鞍馬八流の極意を、実戦だけでなく、武助に質問をぶつけて、机上の論理面からも会得しようと言う商人らしい一面も御座います。
ですから、メキメキと腕を上げて行き、三年の月日が流れた頃には、鞍馬八流の免許皆伝の腕前となり、たまに道場を訪ねて来る、他流の武者修行中の侍とも互角以上の試合を致しますから、先生である武助が驚いております。
武助「次郎左衛門殿、本に腕を上げられましたなぁ。いやはや驚き申す。」
次郎「いいぇ、まだまだ修行の身です。剣術と言うものは、本に奥が深い。商いと同じで御座います。一生勉強です。」
武助「次郎左衛門殿には、もう、拙者が教える事が有りません。長助も江戸へ戻り、今は私一人になりました。幸いにも現在門弟が45名居りますから、この道場に身を埋める覚悟でおります。」
次郎「有り難いお言葉。都筑先生さえよければ、こちらの道場で、何年でも、佐野の人たちに剣術を教えてあげて下さい。何より、私自身が嬉しい限りです。」
そんな会話をしてから、半月も経たぬうちに、都筑武助は流行り病に掛かり、床に伏してしまいます。先ずは野州中の名医と薬師が呼ばれて治療を施しますが、一向に武助の容態は快方に向かいません。
更に、江戸からも名医、占い師が招かれ治療や祈祷を致しますが効果なく、南蛮渡来の良い薬までも試しますが、都筑武助は衰弱するばかりでした。
そんなある日の夕方、武助が『大事な頼みがあるから』と、枕元に次郎左衛門を呼びます。
次郎「都筑先生!お加減は如何ですか?何か食べたい物があれば、遠慮なく仰って下さい。」
武助「次郎左衛門殿、拙者は、もう長くは無い。自分の体の事だから、自分が一番よく分かる。其処でだ。貴殿に話しておきたい事と、貴殿から聞いておきたい事が御座る。」
次郎「先生!何でしょうか?遠慮なく聞いて下さい。そして、お申し付け下さい。」
武助「まず、聞いておきたいのは、そなたの其の面体だ。なぜ、其方は、そこまで醜くお成りなさった。訳が在ろう?」
次郎「これは、あまり誰にも語りおきませぬ故、知る者も少ないのですが、私は幼い頃は、其れは其れは美しく、今業平と噂されて居りました。」
武助「今業平?!」
次郎「そうです。今の私からは信じられないとは思いますが、美男子だったのです。業平の如く。」
武助「業平にも、色んな種類があるようだなぁ。そんな汚い業平が有ったとは!!」
次郎「先生!からかわないで下さい。真面目に私が話をしておるのですから。」
武助「すまん、つい、混ぜ返したくなる性分でなぁ。」
※原本にも、このやり取りが在ります。
次郎「私は五歳の時に、疱瘡を患いました。それだけならば、ここ迄の化物にはならなんだと思うのですが、父治郎兵衛が板橋の宿に泊まりました折に、旅籠の風呂場で変死を致します。
何故か、父親が死んだその晩に、私は囲炉裏に落ちて生死を彷徨う大火傷を負い、この様な面体になってしましました。」
武助「それが元で、次郎左衛門さんは無妻なのか?」
次郎「それもお話をすると長くなりますが、私は元は佐野は犬伏にある小松原村と言う所に生まれ住んでおりました。
父親は先に申した治郎兵衛と言う商人で、母と私の三人暮らしで御座います。当時、隣り村の柴田村に、田代六右衛門と言う地主がありまして、
その方は父と親しくされていて、その娘、私と同い歳のお藤さんを私の嫁にと、二人は、所謂、許嫁(いいなづけ)の関係でした。このお藤さんも大そう美人で、犬伏小町と呼ばれておりました。
ところがです。父は板橋宿で死にますし、私はこの様な化物面体になりましたから、先方より、娘お藤がお前さんとは一緒になれぬと申すと、仲人の長役を通して破談となります。
此れは、至極当たり前の事で、私の心の中も整理は付いておりましたが、しかし、後日、お藤さんが婿を取り、近隣の村ですから、その旦那と仲良く二人で出掛ける様子などを見ると、
あぁ、本当ならば、あの旦那の代わりに、私があの美しいお藤さんと一緒になっていたのか?と、思うに付けて、鬱になり一層引き籠る様な暮らしになりました。
そして、私は一つの決意をしました。お藤さんよりも美人以外とは結婚しないと。私にできる精一杯の痩せ我慢は、この『お藤よりも美人を妻に娶る』でした。
そして、私は此れを境に、この醜い面体を隠さなくなり、普通に往来に出て、商いにも励んで、現在のこの身代を築きますが、やはり引目があるのか?店は犬伏ではなく、船橋に構えたのです。
『お藤よりも美人を嫁に娶る』
此れを呪文の様に方々で言いましたから、お藤の耳にも入り、そんな喩えに使われて迷惑千万との文を直接頂戴しました。
それでも、私は決めたのです。たとえ三日だけでも、女房にするならお藤よりも美人に限ると。そんな訳で、お藤に勝る女房に出逢えておらず、私は未だに無妻なのです。」
武助「そうでしたかぁ。その様な決意がお在りとは知りませんでした。しかし、もう貴方も三十の半ばを過ぎられた。お藤の事は、もう十分吹っ切れた筈だ。
それに、このまま、拙者が無妻で死に、貴殿も無妻のまま亡くなると、都筑家に伝わる鞍馬八流の伝承者も無くなる事になりまする。
もう、そろそろ変な意地は捨てて、どなたか良い嫁を娶る気に成って下さい。無妻の私が申すのも変ですが、幸せに成って下さい、次郎左衛門殿。」
次郎「先生に、そこまで言われると、嫁をと紹介下さる知人、友人は少なからず居りますので、もし、良い縁があれば、次郎左衛門!前向きに検討致します。」
武助「では、今度は頼み事になります。拙者が死にましたなら、菩提所の観音寺へ葬って頂きたい。また、ここにある、此れなる刀だが、
これは村正作の『籠釣瓶』と言う名刀でなぁ、我が先祖都筑武左衛門が、かの福島左衛門太夫正則公より拝領した刀なんじゃ。
この村正、水も溜まらぬような斬れ味故に『籠釣瓶』と名付けられた刀でなぁ。拙者は、この斬れ味の為に、藩を追われる事となった。
この刀は災いを齎す元凶だ。よって、此の刀も、菩提所観音寺に奉納し、寺に処分を頼んで下さい、次郎左衛門殿!!」
そして、都筑武助は眠る様に佐野船橋の次郎左衛門方で息を引き取ります。享年37歳。彼の遺言に従い、観音寺にて葬儀が行われ、次郎左衛門の尽力もあり、
長助をはじめ本多家の関係者、佐野船橋の門弟、及び知人友人が集まり、なんと!二百人を超える盛大な葬儀でした。
しかし、
次郎左衛門、福島正則の秘蔵の名刀『籠釣瓶』をどうしても手放す事ができず、武助の遺言を破り、此れを所持し続けます。
更に、暫くして、この『籠釣瓶』を、自分に合わせて、塚の部分、鍔と鞘も直して、新しい目抜きを入れて道中差し致します。
此れが!享保七年五月五日、吉原五丁で次郎左衛門が引き起こす百人を超える大惨殺事件の凶器となり、かの大岡越前守忠相よりお裁きを受けると言う、誠に、大事件へと繋がって行くのですが、本日の所は、此まで!また次回。
つづく