賭場若衆「深川の親分さん!起きて下さい。木挽町でデカい捕り物が有ったそうですよ!!」
喜三郎「でぇ、誰が捕まったんだい?稲葉小僧か?二代鼠小僧?まさかの、ルパン三世?」
賭場若衆「違いますよ、三日月小僧はつい最近、自訴して捕まりましたけど?」
喜三郎「本当か?三日月小僧って、庄吉だろう!?そしたら、小菅の勝五郎も一緒か?」
賭場若衆「そうですよ、その二人。小菅屋って千住の飯盛宿の主人夫婦を『親の仇!』とか言って斬り殺して自訴したんですよ。もう、十日くらい前ですよぉ。」
喜三郎「そうなのかぁ。それで、木挽町の捕り物は誰が捕まったんだ、ムササビ三次か?爆裂お玉?まさか!高橋お傳?!」
賭場若衆「それが、大坂屋花鳥って吉原の元花魁なんです。何でも、こいつが三宅島を島抜けした大罪人で、さっき親分が仰った小菅の勝五郎と三日月小僧の庄吉と一緒に島抜けしたってんです。」
喜三郎「。。。」
賭場若衆「聞いてますか?深川の親分さん。それで、島抜けしたのは、三人だけじゃなくて、花鳥の亭主の佐原の喜三郎って長脇差と、元湯島の根生院の納所坊主の玄若とか言うのも一緒だったらしいんです。
そうそう、この大坂屋花鳥繋がりで、もう一人捕まったんですよ、小菅の勝五郎と三日月小僧の庄吉が自訴した同じ日に。吉原の大音寺前で、
信夫のお大尽を斬り殺して二百両盗んだ、辻斬り強盗の何とかって旗本が。これが花鳥の昔のマブで、花鳥はこの辻斬り野郎を逃す為に、吉原を火事にしてんですよねぇ。因果は巡るなぁー」
喜三郎「梅津だ、その旗本は梅津長門ってお方だ。」
賭場若衆「そう!その人。って、知ってんですか?親分。」
喜三郎「知っているさぁ、俺が佐原の喜三郎だ。」
全員「エッ!!」
喜三郎「胴元!!すいませんね。深川の者みたいに振る舞って、四年近く皆さんを騙してしまって。私は下総は佐原の喜三郎と申します。
佐原の家を勘当になって、土浦の皆次ん所で長脇差になりまして、今の女房、大坂屋花鳥のお虎とは、その時分、成田の海老屋って旅籠で知り合いました。
そん時は、カタギと渡世人ですから、清い関係でしたが、そのお虎が借りた五両が元で、芝山の仁三郎、馬差の菊造と喧嘩になりまして、
あいつら卑怯な野郎で、アッシ一人に三十人掛かりで、簀巻きにされて殺されかけたところを、お虎が助けてくれました。
兄弟分の倉田屋文吉ん所で、寝ずに看病してくれたのもお虎なら、その後、佐原に帰ってからも元気になるまで面倒観てくれたのもお虎でした。
元気になったアッシは、芝山の仁三郎と馬差の菊造に仕返しに行きましたが、仁三郎は仕留められたが、菊造をここでは逃してしまいます。
そしたら、この一件がデカい喧嘩になりまして、土浦の皆次対成田の龍次の抗争へと発展して、関東一円の長脇差がどちらに組するか?ってんで、大変な騒ぎに。
結局、私は倉田屋文吉の世話で、浅草の金太郎親分の元に隠れておりまして、そこで、スリの親玉、嘉童一門を率いていた三日月小僧の庄吉と出会い子分の盃を交わしますが、その後、アッシはお上に捕まり芝山の仁三郎殺しの件で八十島に流されます。
八十島へと流されたんですが、船ん中で大病して、船からは三宅島で下されて、そこで私の命を救ってくれたのが、小菅の勝五郎であり、三日月小僧の庄吉、そしてまたしてもお虎でした。
結局、アッシは馬差の菊造の事が娑婆への未練で、お虎は梅津長門の旦那の事、小菅の勝五郎は小菅屋を乗っ取って自分に濡衣を着せたお熊と湯屋十が娑婆の未練でした。
そこに、勝五郎を実の兄以上に慕い義兄弟になっていた庄吉と、紆余曲折ありながら加わった湯島根生院の納所坊主の玄若を仲間にして、五人で島抜け致しました。
島を抜ける際には、島を実質支配している木村大助と言うお役人を斬り殺して、島の宝、金無垢の釈尊像と壬生の宝剣を盗んで逃げていますから、これだけで十分に死罪だと思います。
そして、三晩四日、嵐に揉まれて下総銚子飯貝根村に流れ付いて、五人で娑婆に辿り着きました。
この後、私とお虎は皆次親分、倉田屋文吉と知り合いの元を挨拶巡りして、成田のお不動さんに参詣し、海老屋に泊まって江戸表へと向かう途中で、
あの馬差の菊造が、事もあろうに私の実の弟から二百両を脅し取る現場に遭遇します。そして何とかこれを討ち取る事ができました。だから、私自身はもう娑婆に未練はありません。
そんな訳で、ここに珍しく今日は勝った二百両の銭があるんで、これで私の娑婆の最後を祝う宴をやらせて貰います。お時間の許す方は飲んで食って唄って、アッシをあの世へ送り出して下さい。」
酒池肉林の宴は、三日続いた。
翌日、喜三郎は風呂でサッパリして、床屋で月代を綺麗にして、長脇差らしいナリをこさえて、月番の南町奉行所の門を潜り自訴致します。
南町奉行、筒井和泉守政憲、直々の取り調べにも素直に全てを白状し、小伝馬町の牢屋では、入って来る罪人達が、この喜三郎の噂に憧れて牢に入って来る始末です。
そして、喜三郎を牢名主にておくと、拷問でも白状しない罪人が、ベラベラと全てを白状すると言うので、死罪と判決は出ているものの、喜三郎は、小伝馬町に留め置かれて牢名主を勤めております。
そんなある日、網元の倅で『毒鮪の源次』と言うのが小伝馬町送りになり入牢しますが、これが強情でして、拷問されても悪事を吐きません。
しかし、牢名主の喜三郎が、任侠道を説いて聞かせると、眼から鱗、素直に白状して毒鮪の源次は佃島の寄場送りとなりました。
そんな噂が妙な人気を呼び、江戸の長脇差に自訴が流行ります。そして遂には、小伝馬町の牢屋を増築する事になり、それでも入りきれないので、略式で叩き刑にして直ぐに釈放される罪人が増えます。
「折角、喜三郎親分に会いたくて自訴したのにぃ、よぉ〜」と嘆いて牢屋にも入れず、釈放される奴も少なからず居たようです。
一方、梅津長門は切腹、小菅の勝五郎と三日月小僧の庄吉は、小塚原での磔獄門となり、お虎だけはなかなか、刑が決まりません。
と、言うのもお虎は、どんな責め苦を受けても一言も声を発さず、ただ微笑むだけだからです。仕舞いには拷問をする側の役人が、気味悪がって責めなくなるのでした。
しかし遂にお虎の刑が執行される日が決まりました。市中引き回しの上、斬首。斬り手は、あの山田朝右衛門。奇しくも長門と花鳥は二人共に朝右衛門から首を跳ねられた事になります。
そんなお虎は、裸馬の上でも終始微笑み、それどころか、朝右衛門に跳ねられた首が笑っていたので、お上が晒すのを止めたと噂になりました。
さて、牢名主となった佐原の喜三郎は、天保の末期の大火の時に娑婆に放たれます。鎮火後は直ぐに牢に戻り、牢屋再建の陣頭指揮を取ります。
また、罪人たちも、元大工や左官が居ますから、この建設を手伝い、そうで無い者も力仕事を率先して手伝い牢屋の再建は過去にない速さで完成したといいます。
更に、この小伝馬町の牢屋再建には、佐原の穀物屋平兵衛方からの助成金と、関東一円の長脇差からの寄付によるとこが大きかったそうです。
この小伝馬町牢屋スピード再建の功績で筒井和泉守政憲は、南町奉行から大目付へと出世し、喜三郎は晩年病気を理由に、養生が許されて、佐原の実家へと預け置かれます。
吉次郎「兄さん、お加減は、如何ですか?」
喜三郎「良くも悪くもないが、何か長い夢を見ていたようだ。」
吉次郎「また、勝五郎さんの息子さん、勝之助さんから佃煮が届いてますよ、おじさんにと、兄さんへ名指しのお届け物だ。」
喜三郎「酒が飲めたらなぁー、たまらんのだろうになぁ、佃煮。飯のおかずで頂くと、実に詮方ない。」
吉次郎「早く元気に成って、酒が飲める体に成って下さい。」
喜三郎「ところで、勝坊はいくつになる?」
吉次郎「もう、二十歳ですよ。だから坊じゃありませんよ。そしてお吉さんは来年、お婆ちゃんです。」
喜三郎「産まれるかぁ!勝五郎の孫がぁ。墓参りに行きてぇなぁ、根生院に。玄若、庄吉、勝五郎、そしてお虎。みんな吉次、お前のお陰だ。獄門首を葬って貰える様にしてくれた。」
吉次郎「兄さん、死ねば仏ですから、早く良くなって、墓参りと勝五郎さんの孫の顔を見に、江戸へ行きましょうよ。」
喜三郎「そうだなぁ、俺だけ畳の上で死ぬ言い訳もしないと、お虎に叱られそうだ。」
その年、弘化三年十月、喜三郎は眠る様に畳の上で亡くなります。享年四十四歳。
完