成田を出た二人は、手配者(おたずねもの)ですから昼間はじっと隠れて居て、夜中に移動する事になります。成田からまず、佐倉へと出て、普通であれば四街道から千葉を経由して船橋へと向かう所を、
佐倉から印旛沼へと迂回して、八千代から船橋へと山道を入って、久しぶりに海の見える松原を歩いていた。
お虎「七月も末になると、夜中は冷えますねぇ、お前さん。」
喜三郎「もう、二日もしたら江戸表だ。辛抱してくれぇ。流石に、四ツ過ぎると人っこ一人通る気遣いはねぇーなぁ。」
お虎「あんた!見て、提灯だ。前に駕籠やだよ。どうします?」
喜三郎「松原ん中を通るぞ、駕籠の裏手に回って、あの藪から様子を伺おう。」
二人が船橋へと向かう街道を、松並木を脇にして歩いていると、所謂、小田原提灯を二丁持った雲助二人が、駕籠から客を引き摺り下ろして、何やら揉めていた。
客「だから、私は船橋で宿を取るつもりだったのを、あなた方が強引に、駕籠ん中で寝ていたら、明日の昼前には、佐原へ着くからと言うので、
一分の手間と二朱の酒手を前渡してあるじゃないですか?!それをいきなり、三里程過ぎたこんな場所で、手間と酒手が足らないなどと。。。
難癖を付けて止まられては困ります。早く、私を佐原へ連れて行って下さい。一分と二朱は渡したんですから。」
雲助A「だ・か・ら、一分と二朱じゃ足らねぇーんだよ、若旦那!!お前さんの懐には、二百両?いや三百両?の銭が有るのは、こちとら分かってるんだい!!」
雲助B「最初から、それが目当てなんだよ!諦めて、痛い目にあう前に、懐ん中の金子を出して貰おうかぁ?!」
客「この金子は、初めて父親から任された江戸での大きな掛け取りの銭なんです。これを、オヤジに見せる前にあなた方に取られてしまうと、
私が江戸で銭を遊興に使い込んだと思われてしまいます。それでは私の立場がありません。必ず、必ず、後日百両でも二百両でも払いますから、
この二百両の金子は、オヤジに見せるまでは、勘弁して下さい。お頼み申します。後日に支払うと、証文を書きます!!だからこの金子は勘弁して下さい。お頼みします。」
雲助A「馬鹿か?!お前は。何を寝言、言ってやがる?!何処ぞの世界に証文を貰って帰る強盗が居る!!」
雲助B「親分!出て来て下さい。旅人が、痛い思いをしないと、言う事をきいて貰えないみたいですんでぇ。」
雲助の一人が草むらの方に声を掛けて合図を送ると、そこに潜んでいた、デップりと太った髭面の大男が、草を掻き分け出て来た。
親分「若旦那さんよぉー。俺はお前を江戸馬喰町の宿屋から付けて、お前さんが廻船問屋の紀州屋で切り餅の銭を受け取るのを見て、この子分たちにお前を駕籠に乗せる様に命じたんだよ!!観念して、懐の銭を出しなぁ!!」
客「私は、佐原川口の穀物屋平兵衛の倅で、吉次郎と申す商人です。先程、こちらの駕籠やさんにも申した通り、後日、必ず、金子は差し上げますから。。。」
親分「やい!待て。今、何んて言った?」
吉次郎「後日、金子は差し上げます。」
親分「その前だ!馬鹿野郎。」
吉次郎「駕籠やさん、佐原までやっつくれぇ!」
親分「そんなに前じゃねぇー。誰の倅だと言った?!」
吉次郎「佐原川口の穀物屋平兵衛の倅です。」
親分「お前は、佐原向洲の喜三郎の舎弟だなぁ?!」
吉次郎「喜三郎は確かに兄ですが、それが?」
親分「それがぁじゃねぇー!!俺は成田は芝山の仁三郎の子分で馬差の菊造ってモンだ。
俺の親分の仁三郎を、夜中、闇討ちして殺したのがお前の兄貴、喜三郎だ!!さっきまでは、銭を出したら命は助けてやるつもりだったが、話が変わった!!
喜三郎の舎弟なら、俺の仇だ!覚悟しろ。この馬差の菊造が、叩き斬ってやるからなぁ!!」
そう、馬差の菊造が、道中差しを抜いた瞬間に、松原ん中から、吉次郎と菊造の間に割って入る人影!!驚く、吉次郎、もっと驚く、馬差の菊造!!
喜三郎「馬差の菊造、よくもまぁ、嘘八百を、うちの舎弟に能書きタレたなぁ!!お前と仁三郎が成田で、あんまり阿漕な凌ぎをするから、俺が懲らしめてやると、
それを逆恨みして、仁義に劣る仕返しをしやがって。その決着に、仁三郎とは一対一の決闘の末にあの野郎は討たれたんじゃねぇーかぁ。お虎!吉次郎と、雲助二人の始末を頼む。」
お虎「菊造の子分の雲助は、二人とも、もうやっちまったよ。菊造だけだから、お前さん、思う存分やんなぁ。」
菊造「しゃらくせぇ!死ねぇ、喜三郎。」
菊造が上段から降り下ろす刀を、ヒラりと交わす喜三郎。前のめりに突っ込んだ菊造の腿を刀で突きます。ピューっと立ちしょうべんの様な鮮血を飛ばして、膝ざま着く菊造。
それを、刀で一寸ずつの、所謂、なます斬りに致します。暗闇に半月が照らす灯りの下で、馬差の菊造の悲鳴と命乞いの声だけが木霊します。
しかし、容赦なく斬り続ける喜三郎、もう流れる血がなくなった菊造は、言葉も発しなくなり、静かに苦悶の表情を残し死んで行くのでした。
喜三郎「吉次郎!怪我はねぇか?」
吉次郎「私は大丈夫ですが、何も、この人を殺さなくても。。。それはそうと、兄さん!八十島へ流されたと聞いたんですが?」
喜三郎「途中、船ん中で大病して、三宅島に下されたんだ。そこを、女房のこのお虎と島抜けして下総は銚子の濱に着いたって訳よ。」
吉次郎「兄さんは、オヤジやお袋を泣かせていたあの頃のまんまで、相変わらず、好き勝手な暮らしをなさっているんですね。」
お虎「それは違うよ!アタシは、この人の女房だけどね、佐原の喜三郎って人は、お前さんが思っている様な人非人じゃないんだよ。」
吉次郎「そんな事を言いますが、今だって、確かに私にした事から、この菊造さんって方が、極悪人で卑怯者なのは重々分かります。
ただ、だからと言って、一寸刻みに百を超える回数斬り刻んで、血が一滴も残らない様な殺し方をするのは、人としてどうかと思います。」
お虎「この菊造って男はね、私に貸した五両の証文に細工して、五拾両の金子を払え!と言って来たんだよ。それで、私が払えないと言うと、宿場女郎に叩き売ると脅して。。。
そんな私を、あんたの兄さん、喜三郎さんに助けられて、そこから紆余曲折あったけど、今は夫婦になっているんだ。
きっとお前さんにも、女房子ができたら分かるよ。それを守る為なら漢は何でもするもんなんだよ。」
吉次郎「そんな事を言いますが、この人は、オヤジやお袋には、散々放蕩三昧をして勘当されているんです。オヤジやお袋の気持ちが分からない、心根が腐った人なんだ!!」
お虎「それも、違うんだよ、この人は穀物屋の身代をあんたに継がせたくて。。。」
喜三郎「お虎!!もういい、止めろ。」
お虎「良くないよ、あんた!!このボンボンは、何にも分かっちゃいないんだから。吉次郎さん、あんたの兄さんはね、自分が連れ子で、平兵衛さんの実の息子じゃないから、
飲みたくない酒を飲み、打ちたくない盆で博打して、あんたを後継ぎにする為に放蕩三昧していたんだよ。
特に、母親さんは、喜三郎さんを跡目にする事は気が引けたはずだ。亡くなった先妻、志乃さんへの恩を考えたら、平兵衛さんの実子を後継ぎにさせたいはずさぁ。
それを全部、独りで飲み込んで、喜三郎さんは家を勘当になって、あんたを跡継ぎにしたんだから、そのあんたが分かってやんなくてどうするんだい!!」
吉次郎「兄さん!あんたって人は。。。すいません、兄さんの気持ちを何にも考えなくて。それなら、兄さん!佐原に一緒に来て下さい。
オヤジもお袋も、兄さんに逢えたらどんなに喜ぶかぁ。私が口をきいて家に居られる様にしますから。。。兄弟で穀物屋を!?」
喜三郎「それは駄目だ。オヤジやお袋には、お前の口から宜しく伝えてくれぇ。お前の言う通り俺は頭のテッペンから足の爪先までドッぷり長脇差しだ。
もうカタギの暮らしには戻れねぇ。それに島抜けの兇状持ちだ。捕まりゃ、三尺高い獄門台で磔にされる体なんだ。このお虎と何処かお前達とは関係ない世界で生きて行く定めなのさぁ。」
吉次郎「しかし、兄さん!!一目、一目だけでも佐原の両親に、その無事な姿を見せて安心させてやって下さい!!」
喜三郎「駄目だ、もう、住む世界が違うんだ。サッ早く行け吉次郎。オヤジとお袋に宜しくなぁ。胡麻の蝿には気を付けろよ!!達者でなぁー」
振り切る様に、喜三郎はお虎を連れて船橋から江戸へと歩き始めます。吉次郎は、そんな二人の姿が、月の明かりでは見えなくなるまで、千切れるように腕を振り続けるのでした。
つづく