人生において願い事が、思惑通りに成就することは、かなり稀だと思いますが、それが善行ならばまだしも、悪事となりますと、なかなか天は許してくれない様です。

アさて、悪党が描きます八代将軍吉宗の御烙印『徳川天一坊』を奉り上げたる陰謀は、直筆のお墨付と備前長光の短刀があるので、どう考えても九分九厘上手く行くはずだと思うからこそ、

金主、住友様之助は三千両と言う大金をこの陰謀に出したのです。そしてその準備金を、越後村松の守門山から大坂へと運ぶ日がやって来ました。

そして様之助は、手下の者之中から選りすぐりの五人にこの準備金輸送の大役を命じるのでした。先ず、この役目の隊長には大森弾正。副長は島左京。他に森田八十八、戸村次郎兵衛、本田彌六の五名であった。

五人は、揃いの羽織袴に上下を付けて、長剣から鞘まで揃いの誂物。この準備だけでも、五百両は掛かっていた。

時に享保五年師走閏の事でした。その五人が島屋文右衛門に到着し、藤井六之助は早速、文右衛門を呼んで、徳川天一坊をお迎えする段取りを相談するのであった。


六之助「さてこの度、若殿様、京、大坂大和路をご遊覧なさるについて、我はここ島屋でも構わぬが、他の客があるので、若殿様を滞在させる訳には参らぬ。

そこで、島屋!何処ぞ、近くに適当な借家を、若殿様滞在用に探して貰いたい。」

文右「手前どもは旅籠屋でして、借家をと申されましても、畑違いで。。。」

六之助「ならば、宿賃に日割りで二十五両出そう。それで島屋を貸切にできぬか?」

文右「宿賃だけで?」

六之助「そうだ、飲み食いや祝儀は別に払う。その代わり他の客は泊めぬが条件じゃぁ!」

文右「承知しました。私どもも、二軒先にある隠居所に下り、用の有る時だけ指図下さい。一階二階の島屋全部屋を藤井様の貸切と致します。」


日に二十五両、実に月に七百五十両の宿賃が入ると算盤を弾いた島屋文右衛門は、藤井六之助の申し出を受け入れて、島屋を貸切にした。

これから粗方の手配りを済ませた六之助は、感応院は既に滞在中、美濃長洞から常楽院天忠、蜻蛉寸達、伝蔵とお兼、蝶々小僧の喜三郎と言う仲間を島屋へと集めます。

そして流石に、徳川天一坊の家来が蝶々小僧ではまずいので、鍋島浪人、用人山村甚之助と名乗り、伝蔵は中村伝蔵(歌舞伎役者か?!)、蜻蛉寸達は、斎藤一八と名乗ります。

そんな面々が、大坂日本橋の島屋へ大晦日までに全員集合し、二階の奥に一段高い若殿様の間を造り、外に御簾を掛けて、徳川天一坊の姿は島屋の使用人や、家来には、容易に見せませんでした。


島屋の使用人達は、何処の大名家の若公なのか?と噂する一方で、必ず、どんな些細な用事をしても二朱もらえる祝儀に驚いていた。

当時、京、大坂は江戸とは異なり、祝儀・チップの文化は無く、芸者や幇間ですら、まず、客が祝儀を切る事は無く、祝儀を出す関東者を陰で馬鹿にしていました。

ところが、天一坊とその家来は、何を用事に頼んでも、お使いや足を洗っただけでも二朱の祝儀を切り、床屋、按摩にも等しく二朱の祝儀を出すのには本当に驚いたそうです。


さて、この島屋の噂が大坂中に広まり、遂に大坂街奉行の耳にも入ります。さて、次回からは、いよいよ幕府に徳川天一坊の存在が知れるのです。



つづく