かの大岡越前守忠相をして、八裂きにしても憎み足りない奴が三人居ると、回想させた極悪人が、畦倉重四郎、村井長庵、そして、このお噺の主人公、徳川天一坊で御座います。
今回の噺は、二代目山陽先生の流れの神田派の皆さんがやる『徳川天一坊』には無い、私にとっては新展開の物語となります。ワクワクします。
さて、その三回目のお噺です。菩提寺である高蓮寺に、娘が死産した赤子を葬って、おさん婆さんは、てくてく家路に付いておりました。
途中、亀澤村の庚申堂の近くにかかった所で、見るからに浪人と分かる風態、月代は伸び不精髭をはやし、木綿の着物はヨレヨレで襟垢がべっとり付いて、袴を履いてはいるものの裾は綻び、真冬なのに素足に下駄という塩梅でした。
浪人「すまん!ご通行の方?」
おさん「ハイ、私ですか?何んか用ですか?」
浪人「妻を連れて旅をしている者ですが、妻が身重で、昨夜より産気付き、油汗を流して唸っております。歩く事もままならぬ様子にて、産婆さんが、近くにいらっしゃいませんか?」
おさん「産婆なら、あんたの目の前に、一人おるよ。ふふふ、分かりました、取り上げて差し上げますかりら、お内儀は何方に?」
浪人に連れられて、お産婆さんのおさん婆さんが、庚申堂へと入ると、浪人の妻が額に玉のような汗を光らせて、ウーウー唸っていた。
おさん婆さん、直ぐに心の蔵に手を当てて脈拍を見て、次に腹の様子を探る、まだ力まないように妊婦に伝えて、ゆっくり深呼吸して落ち着かせた。
そして、直ぐに戻るからと、家に帰り、薬缶で湯を沸かし、盥を背中に背負って庚申堂に戻ってきた。
ただただ狼狽して、糞詰まりの狆(ちん)の様に庚申堂をグルグル廻る浪人を落ち着かせて、盥に湯を張り、適温に水でうめるように指図した。
やがて、大きな陣痛が来て、お内儀は玉のような男の子を産み、浪人が用意した生湯に浸かり、元気よく大きな声で泣き始めた。
慣れた様子で白湯を綿に湿して、赤子の口からおさん婆さんが、それを飲ませると、赤子は小鳥が親鳥から餌を貰うが如く、それを啄んだ。
浪人「ありがとう御座います。本当に助かりました。ところで、代金は如何程お支払いしたら宜しいですか?」
おさん「ご浪人様、見た様子では、こんな事を言っては何ですが、産婆のお代を貴方から頂くと、産まれて来たばかりの、
その赤子の貰い乳するお代が無くなり、その子が生きて行けなくなりそうで、私には、貴方様から産婆の代を貰う事は出来ません。」
浪人「お産婆さん!貴方には、妻の乳が出ないのが分かりになるんですか?」
おさん「長く産婆をしておりますから、飢饉の時などに、栄養の足らぬ母親の乳が出ぬのを何度も見て来ましたから。
一度、乳が止まってしまうと、また出るように治すのは難しい。貰い乳をしないとその子は飢えて死にまする。どうか産婆代は、その子の為にお使い下さい。」
言われた浪人と妻が、声に出して泣き始めた。おさん婆さんは、何が二人をここまで涙させたのか?理由が分からなかった。すると、浪人が喋り始めた。
浪人「私は、元水戸の藩士で、三百五十石を拝領した藤井紋太夫の倅にて、六之助と申します。また、これなる妻は梅です。
訳あって浪浪の身となり、親戚筋や知人などを頼り仕官の道を探ってはおりますが、なかなか思うようにならず、蓄えも底を尽き、今は物乞いに近い有様です。
ならば、この赤子も、生きるは地獄なれば、いっそこの刀で斬り殺して、あの世へ葬るつもりでおりました。
されば、そんな我が子に対して、慈悲を下さる貴方様を見て、自身の愚かさに気付かされました。それでも、我ら夫婦にこの乳飲み子を養う力は無く、斬るしかないと思うと涙が止まりません。」
おさん「ならば、この子を私に下さい。あなた方夫婦が育てられぬと申されるなら、その子は私が育てましょう。
実は、昨夜、我が娘も子を産みましたが、九ヶ月の早産で、死産となりました。しかし、そんな娘は乳が出ます。その娘の乳で、あなた方夫婦の赤子を育ててやりたいと思います。」
浪人「本当ですか?其れは私どもは、願ったり叶ったりで。。。」
おさん「その変わり、この赤子を産んだ事、そして、私に譲り渡した事を一切口外しないで下さい。それを守ると誓うならば、この赤子は私と娘が引き取り育てます。」
浪人「分かりました、お誓いします。どうかその子を幸せにしてやって下さい。」
思わぬ事で、おさんは赤子を手に入れる。娘のややを死なせた呪縛から、少しだけ開放された気分になった。
この時、おさん婆さんは、この赤子が天下の大悪党になり、自身や娘にも災いを齎すとは、微塵も感じていなかった。
赤子を連れ帰ったら、サワが目を覚まし、床に座り、髪に櫛を入れていた。そして、赤子の泣き声を耳にすると、
サワ「おっかー!何やら赤子の声が聞こえて来るが、若様が蘇生なすったか?!」
おさん「そうだと言ってやりたいが、違う。実は、庚申堂の近くでかくかく、しかじか、」と、浪人夫婦の赤子を取り上げ、お前の乳で育てると貰い受けた話をした。
サワ「私の乳で、その子を育てる事が、死んだ若様の供養になるなら、おっかー、私は乳をその子に喜んで与えよう!」
サワもおさん婆さんも、この赤子に救われた気持ちになり、死んだ若公の代わりではないが、國太郎と名付け、人別帳にも載せて、サワの子として育てた。
そうです!この赤子が、後に天一坊法澤と名乗り、八代将軍の落とし種として、世を騒がせる事になりますが、その成り立ちは、追々申し上げます。
つづく