徳川天一坊のお物語で御座いまして、大岡越前守をして、死罪にしても飽きたらない人を憎んだ悪党が三人だけ居ると、回想したそうです。
一人は、医師でありながら銭の為なら、実の妹を吉原田圃で殺害した村井長庵。人を人とも思わず蚊や蝿を潰すが如く、短絡的に人を殺める人非人畦倉重四郎。
そして、最後の一人が、このお物語の主人公徳川天一坊で御座います。天一坊は、他の二人の比ではないスケールの悪党でありますが、
まだまだ、お物語は、事件の発端と申しますかぁ、極々最初のキッカケに付いてのお噺で御座います。
アさて、加納家へ養子に出された徳太郎、改め、源六郎は、自身の身の回りの世話をする侍女の澤乃と言う者と、いつしか男と女の関係になっておりました。
この澤乃は、源六郎より二つ年下で田舎者ではありますが、兎に角、よく気が付く、頼まれた用事を嫌と言わない実に献身的な女性で、お世辞にも美人ではありませんが、心根の優しい女でした。
そんな二人の関係が始まって半年が過ぎた頃に、澤乃が源六郎の子を懐妊します。そして、そんな折に、源六郎へ養子縁組の話が持ち上がります。
紀州藩の分家筋に、松平左京太夫様、三万石の譜代大名から、世継ぎの男子がなく、家名が絶える虞れがあるので、是非に源六郎を養子に欲しいと言うのである。
左京太夫には、娘はあるが男子が無い。更に、娘は既に嫁に出したあり、本来ならば、二人の娘に男子が多数あるならば、孫を後継にと考えたが。。。
孫にも男子は少なく後継とはできぬ故に、ここは本家筋の源六郎公を養子に迎えて、一家安泰と成したいと、当主左京太夫は考えたのでした。
この話、部屋詰めの三男坊の源六郎に取っても渡に船で在りまして、分家とは言え三万石の大名に成れるのですから、悪い話では有りません。そんな噂を、ある日侍女の澤乃が聞き付けます。
澤乃「貴方様におかれましては、近々、左京太夫様へ御乗り込みと承りますれば、私、ご存知の様に身重な体なれば、あと二ヶ月のしますと侍女の仕事が務まらない体と相成ります。
どうか、私をお伴として、松平家へ、ご一緒させて頂けますや?この儀を伺いとう御座います。」
言われた、源六郎は困ってしまう。まさか養子に行くのに、妊娠した侍女を連れては、いくらなんでも行けよう筈がない。冷たい不人情な仕打ちになるが、ここは澤乃を里に帰して、時を稼ごう!そう決意するのである。
源六郎「イヤイヤ、澤。其方を連れて左京太夫様へ参る訳にはいかん。決して悪い様にはしないので、暫く、時節を待ってくれ、頼む!!」
そう言って頭を下げた源六郎、手文庫から十両と言う金子を取り出し澤乃へ、出産費用と当面の生活費にする様にと言って渡す。
そして、此れがこの物語の重要なアイテムとなる奉書の紙に、『お墨付』を書くのです。しかも、澤乃にも読めるようにと、仮名でルビ付きでした。
其の方、懐妊に及び、候事覚えあり。即ち、我が子なれば、男子出生の折は、召し出されるべし。また、女児の折は、婚礼の祝いを用意するものなり。
元禄十五年八月二十四日 夜認 源六郎。
この時、源六郎十九歳。これに花押をして、形見の品として、備前長光/左近将監長光の短刀を錦の袋に入れて、澤乃に渡します。
それから二十日程の後に、源六郎は松平左京太夫方へ、正式に養子縁組がなり、三万石の跡取りとして迎えられるのです。
さて身重の澤乃、侍女としての仕事が辛くなり自ら暇をと申し出て、里へと下がります。澤乃こと、サワの生まれは、和歌山の在、平澤村と言う所で、
父親は漁師でしたが、先年船が難破して亡くなり今は母のおさんが家を守っております。サワには幼い弟と妹があり、母親は産婆をして生計を立ておりました。
十七の娘が暇を出されて奉公先から返されて、さて見てやれば身重である。母親としては、誰の子だ!?と、怒り出すのも無理からぬ訳ですが。。。
おさん「加納様に奉公が決まって喜んでいたら、二年もしないうちに、ヤヤができて戻されるとは、母(カカ)はお前をそんなフシダラな娘に育てた覚えはねぇー!誰の子だ、お腹のヤヤは。」
サワ「母様(カカさま)、どうかぁ、おらの体が身二つになるまで、面倒みてけろ。身二つさなったら、誰の子だか言う。後生だ!身二つになるまで。」
おさん「身二つに成る迄って、なぜ、父親の名前が明かせねぇ?加納様には、芸人や達の悪い仲間も出入りしとると聞く、まさか?芸人の子か?芸人はダメだぞ!特に講釈師はロクなのがおらん!!」
サワは、ここまで出かかった『お墨付』の話を飲み込んで、身二つになるまでの一点張りだった。産まれて来た赤ん坊が、男か?女か?確かめてから、母には話そうと思ったからだ。
元禄十五年十二月二十六日、一ヶ月も早く九ヶ月でサワに陣痛が来て、産気づき始めた。母のおさんは、娘の体は心配しつつ内心、
産まれて来る赤ん坊は、娘が名前も言えない様な父親の子ならば、死産であってくれと思っておりました。そして、出た赤ん坊の臍の尾を処理して、おさんはその異変に気付きます。
一応、赤ん坊を生湯で洗い、尻を叩きましたが、泣き声を発してくれません。オラの為にも、サワの為にも、此れで良かったんだと心に言い聞かせる、おさん。
すると、赤子が出たのに産声がしない事に、サワが不審がりおさんに問いかけます。
サワ「オッカぁー」
おさん「なんだ?」
サワ「お声がしないようだが、お達者か?」
おさん「何だとぉ?!死んどるよ、ガキはオッ死んで産まれた。」
サワ「何と。。。。」シクシク啜り泣くサワ。
おさん「まんず、名前も言えねぇ父親の子は、死んで産まれた方がいいって。神様もそう考えなすったんだって。
お前も、おらも、父親(てておや)無しで、子供を育てるのは大変だって。」
サワ「それで、ややは、姫君か?若様か?」
おさん「何を馬鹿な事を言う!?お前の腹から出た赤子が、姫だったり若だったりするのか?」
サワ「男の子か?女の子か?教えてけろ。」
おさん「ガキは男だ、立派なのが付いとるから。」
サワ「若様だったのかぁ、お亡くなりになって産まれたのは。。。」
おさん「気味悪い事言うでないよぉ、気は確かか?サワ、また、ガキはできるって。ちゃんと、名乗れる父親の、ガキを次は産んでけろ。」
サワ「お父(とう)が海で死んだ時も思っただが、私もおっかぁーも運が無いなぁ。この子の父親は、源六郎様なんだ。
生きて産まれてくれていたら、私もお前さんも大名の暮らしが出来たはずなのに。。。残念だぁ。」
そう言いながら、サワは屋敷から持ち帰った葛籠を開けて、奉書と短剣をおさんに見せた。おさんは、まだ、半信半疑で奉書を開くと、
そこには、おさんにも読める仮名振りで、『男子出生ならば、後日召し出せ』と書かれていた。
おさんは、松平左京太夫家三万石の跡取りだったかもしれない赤ん坊を、自分が殺したような罪悪感を感じていた。
なぜ!サワは、事前に父親は源六郎公だと教えてくれないんだ?!そう悔やんでも、産まれた赤子は生き返りはしない。
まだ、産後の肥立ちが悪くサワは床に着いたきりなので、死産だった赤子の供養を、おさんが行った。早朝、菩提寺である高蓮寺に弔う為に来て、寺男に声を掛けた。
おさん「仁助どん?!」
仁助「あら婆さん、今朝は早いなぁ、何か用かね?」
おさん「昨夜、娘のサワがやや産んだども、死産でね。和尚様に頼んで、方丈に引導渡してやってけれ?!」
仁助「それは辛いこって、おらからも頼んで和尚様に方丈へ引導渡してもらう、ややはワシが埋めるよって、其処に置いて行け。
サワちゃんは、さぞがっかりしてなさるだろう?おさんどんも大変だなぁ。気をしっかりなぁ。」
おさん「ありがとう、じゃあ回向頼みます。ここに六百置いて行くよって、宜しくお願いします。」
仁助「銭はいいって、それでサワちゃんに、何か精の付く物を食わせてやれぇ。」
仁助の優しい言葉が、身に染みる思いのおさんであった。
つづく